無題.6

 夜。故郷の港町。夜の公園にて。


 あの男が現れて、そして消えてから、かなりの時間が経過した。


 ベンチに腰掛けて、俺たち二人は沈黙のなかでお互いの存在を隣で感じている。


 遠くのほうから聞こえる潮騒と、近くから聞こえる虫の音で満たされていた。

 

 …………


 …………


 …………


 かつての自分たちの重なりがあった公園。


 そしていま。


 二人はまた重なり合おうとしていた。異なる次元で。


 交錯を始めていた。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★



 久しぶりの君との再会は、とてつもない状況において実現された。


 ホームシックに似たような状態で帰省した俺は、心の癒し、彼女の温もり、また何か得体の知れない安心感を求めていた。そんななかで、唐突に襲った理不尽。彼女が思い出の場所で男に寝取られるという現実感皆無の事象。まるで小説の世界にでもいるかのような浮遊感。


 現実世界との壮絶な乖離を俺は感じている。


 俺は空いた口がしばらくは塞がらなかった。そしてまた、それは彼女も同じことであった。しかし、それは俺の動揺とは少しだけ趣が異なっている。なにか、とてつもない決心をしたかのような目つきで、俺のことをただただ見つめている。


 こういう時に見せる女の表情というものには、どこか言いようのない凄みがある。男にはない生命力が宿っているように見える。


 まるで、まったく生き物としての存在あるいは存在理由が異なるかのように。完璧な他者理解が到底できないことをそれとなく悟らせるように。俺の瞳をただただ見つめ続けている。


「ごめん」


 定期的に呟かれる君からの、短い単語。しかも毎回まったく同じ単語。イントネーションも全くもって一緒。


 しかし今は、それだけで十分だった。十分すぎるほどに、君の精一杯さが伝わってきた。嫌というほどに、頭のなかに様々な情報が駆け巡っていく。


 言語とはそういうものだ。コミュニケーションとはそういうものだ。言語は私たちの身の回りにおこる現象や存在を切り取るための記号でしかない。しかし、それであっても、その記号というものに、とてつもない意味情報が宿る。文脈が宿る。精神が宿る……


 俺はいま、君を本当の意味で見つめているのかもしれない。君が寝取られたというのに、どういうわけか初めて君を見つめているような気がする。心の奥底で、君と向き合っているような心持ちになる。


 思えば……


 俺は君と性行為をしてばかりの日々を過ごしていて、まったく君と大切な会話を交わしてこなかったような気がしている。


「ごめん」


 君がまた言葉を置いた。この空間に。時間に。時空に。過ぎ去っていく日々に……


 受け止めないといけない。どうしても逃げ出したくなってしまうようなときであっても。誰かに依存してしまいたくなっているとしても。


 俺はこの、かけがえのない君という存在と向き合うために、言葉を使って君と話さないといけない。


 どんなに、激情が込み上げてきても。どんなに悲しみがあふれ出してきても。俺たちには言葉しかない。


 言葉によってしか、君を。いや人間を、見つめることができないんだ。



「ごめん」



 俺は言葉を置いた。そっと、君の心に。そのが伝わるように。


 俺は過去を思い返した。君との接し方を思い返した。


 まるでなっていなかった。俺は君が一生自分の傍にいてくれると過信していた。その理由も浅はかなもので、これだけ体を許してきた仲だからだ、というものだ。


 もうお互いに離れられないだろうと、精神的に深くつながっているから離れていくことはないだろうと。


 俺はそんな考えを心のどこかに抱いていた。だから、故郷を離れて大学へ行くときも、君へ向けた思いは軽いものだった。これからも、なんとかなるだろうと楽観的な態度で君と向かい合っていた。


 まるで将来のぼんやりとした不安を努めて楽観的な態度で蹴散らそうとしている現代人のように。与えられた娯楽に苦痛に、ただただ身を沈め、不明瞭な浮世をやっとのことで受け身に渡り歩いていくことができている人間のように。何も考えず、考えているようで何も考えていない人間のように。


 ……

 

 ……


 ……


 君の心もしらないで。知ろうともしないで。俺はこれから始まる大学生活へと浮かれるばかりで、君をただの人生における、あって当たり前の存在だと思っていた。


 要するに、君を、人という一匹の動物を、過信していたんだ。自分の都合のよい存在としてしか、見ていなかったのだ。


 なっていない。全く持って人としてなっていない。俺はそんな人間だ。だから、君に、こうして見捨てられることになったのかもしれない。


 あの男はあながち間違っていないのかもしれない。ああして、目の前に現れたと思っていた理不尽という存在も、見方を変えれば何かの教訓があるのかもしれない。


 実際に、彼の吐き捨てた言葉の節々には、彼女と向き合わなかったお前が悪いというストレートなメッセージが籠っていた。


 おそらく彼は、君の今の事情を俺よりも仔細に把握しているのだろう。


 ……


 ……


 ……


 俺はどうやら、もう君とはまるで別の世界を生きているのかもしれない。



「…………」



 やっとのことで口を開いた俺を見て、君は再び涙を流した。


 何回も何回も嗚咽を交えながら、何度も何度も『ごめん』を呟きながら。


 そのどこに向っているのかもしれない『ごめん』を聞きながら、俺は君を引き寄せた。


 寄りかかる君の感触は、久しぶりだというのに、昨日すぐそこにいたかのような心地を与えてくれる。


 人の温もりとはそういうものらしい。



「…………」



 俺は空を見上げた。今日は月明りのない大潮の日。


 星々が無数に輝いている。向こうよりずっと明るく、はっきりと。しかしながら、少しだけぼやけて見えるようになった星々。あの地獄のような受験勉強と大学でのPC作業の増加によって繰り返されるようになった日々の眼精疲労が蓄積して視力も、君と過ごしていた日々と比べて、かなり落ち始めてきた。



(ああ……。もうあのころには戻れないのかもしれないな)



 

 遠くに輝く、天文学的単位の時を経て届いている星の光。


 すでに向こうでは死んでしまった星もいるらしい。


 ……


 ……

 

 ……


 俺たちはそんな、奇跡としか思えないような世界、宇宙のなかで、壮大な時間単位のなかでそれぞの人生スケールを、保証されない生命の尊さをもって、死を恐れながら生きている。


 そして時には死を忘れ、己の存在に葛藤して、浮世に翻弄されながらも、なにかと懸命に生きている。


 生きている……



「月が綺麗ですね」



 俺は月のない夜空を見上げて、そう呟いた。


 君はなおも泣き続けている。今の言葉は聞こえていなかったようだ。


 ……

 

 ……


 ……


 潮騒と虫の音が優しく二人を包み込んでいた。



【続く】

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