第15話 終焉のためのハッピーエンド/結音(Yuine)先生

 結音(Yuine)さんはカクヨム初めて最初に詩を拝読した方になります。「いやあ世の中にはこんな詩を書ける人がいるんだ」と、わたしはただただ下から眺めていたのでした。


終焉のためのハッピーエンド

https://kakuyomu.jp/works/16818023214077796025


 この作品は3つの作品で一つの物語になっています。「わたし」と「ぼく」の終焉は――。


詩 「わたしは ひとつになりたくて」


「わたし」はずっと待っているのに(おそらく)「ぼく」はひとつにはなってくれない。そんな哀しみのスタートです。

 

 詩単体で読むと、片思いしている人が振り向てくれるのをずっと待っている女子中学生のような微笑ましさといじましさと感じます。


 わたしたちは

 終わりを迎えます


 ここに被害者めいた気持ちと、何かが解決したら終わりを迎えられる気持ちの両方を感じることができるのがすごいとおもいました。諦めにしてはさっぱりとした。納得としては根拠に希薄な。予感や予想を超えた何かがそこには潜んでいるのでしょう。


詩 「ぼくは ひとりになりたくて」


「ぼく」は過去に囚われています。読み直していくと、「ぼく」の独立した話にも見えますし、「わたし」との対比にも見えます。どちらであっても読者の解釈次第なのかもしれませんが、詩の複層的な広がりを感じます。すごいですよね、詩というのは。(そして詩を書けることが)。


 ぼくは

 終わりを迎えたい


 楽になりたいのでしょうか。「わたし」の想いから逃れたいのか、「消えてくれない過去」なのか。


詩 「終焉おわり


 結局「わたし」は「ぼく」を望んでいましたが、「ぼく」は「わたし」を望んでいたのでしょうか。双方向があったのかどうなのか。終焉おわりという言葉だけが重なって、向かう先が正反対ではないか。色々考え思い浮かべてみました。どれも真実でどれも違うような気がしてきたので結論を絞ることは野暮と捉えることにしました。強いて言えば、「ぼく」の逃げたかった過去は「わたし」への思いではないと考えました。言ってみれば、「愛することへの恐怖」ではないかと。妄想が過ぎますが一方的に受けた愛にトラウマを感じているのではないかと思った次第です。


 終わることでしか手に入らないもの、てなんでせうしょう


 この問いかけが凄く深いですね。結ばれること自体が間違いであることを示唆しているのでしょうか。世の中の恋愛の半分は、このようななにかしらの「終焉おわり」があり、出会った頃から別れることを予感していた恋というものを思い出させてくれます。それでもわたしたしは人を好きになり、別れていくのでしょう。終焉のためのハッピーエンドという喜劇に向かって。


 結音(Yuine)さんの詩には意図的な改行が使われております。この空間的な表現、犀川には絶対できない「間」と「世界」だと思いました。わたしはとにかく縦に読んでもらいたく詰め詰めで書きたいので、空間で表現することには尊敬しかありません。


 大変素敵な詩をありがとうございました! 勉強させていただきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る