第8話 嶺上開花

 例えようのない充実感が全身に漲っていた。三船先輩と結構話してしまった。2人でこんなに話したのは初めてだ。いや、それよりも。先輩と付き合えることになった。これは大変なことだ。しかも明日。三船先輩とデートできる!


 皇はスマホを抱きしめながら床をゴロゴロ転がり、何かに頭をぶつけた。痛くない。じゃあこれは夢? 夢の国? いや大丈夫。現実だ。通話した履歴も残っている。


 三船巴。年は1学年上だけど、とにかく可愛くて、茶目っ気があって、面倒見がよくて。初めて話した日から、なんとなく憧れの存在ではあった。


 三船先輩が好きだ。あの日、その気持ちに気付いてからは怒涛の勢いで日々が過ぎていった。勉強は学年トップクラスを維持し、部活も全国大会まで行った。そうでもしなければ釣り合わない。誰に言われたわけでもなく、そんな強迫観念に近い思い込みが皇の行動原理となっていた。なにしろ巴は学年を問わず多大な人気を博しており、その競争率を考えるだけで目眩がするほど。皇のことなど巴の眼中に入っていないのは歴然だったし、果たして眼中に入っている者がいるのかすら疑わしかった。


 だからこそ。皇は努力に努力を重ねた。そんな雲の上の存在である巴に少しでも近づこうと必死だった。巴の自己評価では彼女はたいしたことのない人間ということだったが、その異常な人気が示す通り——彼女の可愛さを考えたら異常でも何でもなくむしろ正常ともいえるのだが——彼女を自分と同じ人間だと思うことは難しかった。


 可憐にして艶美。彼女は外見だけで他者を魅了する。それに雰囲気、声、喋り方、仕草、笑顔——それらがこぞって魅力に拍車をかける。モテモテであろう彼女に相応しい男になるため日夜精進していた皇だったが、やがて少しだけ手応えを感じられる出来事を経験した。隣のクラスの女子から告白を受けたのである。断りこそしたが、皇は少し安堵した。自分のことを好きと言ってくれる人がいる。1度だけ獲れた学年首位よりも、全国大会での1勝よりも、何よりも皇の励みになった。


 そうして今夜。その努力はついに実を結び、花を咲かせた。まだ現実感は湧かない。そんなすぐに受け止められるものじゃない。お試しなのに舞い上がりすぎだろうか。いいや、それでも。まずはそれでもいいんだ。もしかしたら明日ヘマをして即フラれてしまうかもしれないが、最初の扉は——最難関と思われた第一の扉は、間違いなく開かれた。皇は神に感謝し、それから——。

「あ。これにも感謝したほうがいいのかな?」

 先ほど転がっている時に頭をぶつけた物を拾い上げる。


 ——鏡。それは古ぼけた鏡だった。思い出す。この鏡を初めて手にした時のことを。頭の中に声が響き、そして皇は願ったのだ。

 あまりに奇妙すぎる体験で、気のせいだったと片付けていたのだが、これはひょっとして……?

「んなわけないか!」

 皇は鏡を捨てることにした。そもそも持ち帰ったこと自体がおかしいし、なんか怖くなってきたし。本来なら偶然だったとしても感謝すべきなのかもしれないが、言いようのない不気味さが気になった。それは一度気になったら払拭できない。思い入れがあるわけでもないし、捨ててしまおう。それがいい。繰り返しになるが、最初に拾ったことがまず以って間違いだったのだから。

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