桃源の旅

かおまじん

第一話 始まった

  人は皆、浮世とは隔絶された世界に憧れを抱く。人や生き物が死んだ後に辿り着く世界「桃境陵(とうきょうりょう)」。この死後でありながらも生き生きとする桃源郷では、今日も蛙が鳴き、緑の葉が生い茂る。白く光を跳ね返す、山の上の大きな町はいつも通りに賑わっていた。酔芙蓉が綺麗に咲き、黒と白と桜色の建物が連なるこの町は芙蓉和京(ふようわきょう)。この町はそれだけではなく、最奥にさらに大きな宮殿が座っている。この宮殿の名前は「芙蓉神堂(ふようしんどう)」。行き場のない人や仕事を求める人のために泰葉奈公という偉人が立ち上げたものだ。

芙蓉神堂の奥の中央礼堂で、白く、束ねられた長い髪の一人の女の子が唸っている。如来や観音などの仏像が部屋の三面にずらーっと置かれた部屋で唸っているこの子の名前は鷺渕屋 百々代(さぎふちや ももよ)。少々長い名前だが、それが理由で唸っているわけではない。彼女は今、仏像の雛壇に敷くための掛け軸に書く文言でかれこれ一時間迷っているのだ。従者の平 納古と小野 牧浦に言われて礼堂で始めたはいいものの、御仏に何を言うかなんて正直わからない。悩み抜いた挙句、筆を持った手はうごいた。しかし紙の上じゃなく、天井に向かって。

茶色の黒い墨が先についた木製の筆は、軽い音を出しながら床を転がった。そこで黙り込み悩んでいた百々代の第一声。

「なーんにも思いつかない!御仏への忠誠とか──」

不貞腐れた文句は広く暗い礼堂の中をこだましながら続く。そんな時に後ろから若竹色の髪を持った女性がぬっと出てきた。

「御仏への忠誠がなんですか?」

急に現れた女性に百々代は大きく声を上げ驚いた。この女性の名前は平納古(たいらの のふる)。芙蓉神堂で主に百々代の世話をする。どうやら文句を言っていることに腹を立ててきたというわけではなく、ただ単に夜食ができたから呼びにきただけのようだ。まるで母親だ。中央礼堂から本殿に行き、円形状のいわゆるちゃぶ台の見た目をした机のある畳造りの居間に入る。そこにも四人ばかりの人がすでに座っていた。

入り口の真隣に、仙人になるための修行に失敗した元仏僧の小野牧浦(おののまきうら)が座っている。小柄で子供のような体に、水色の長髪と身の丈に合わない大きな五条袈裟を着る、小野妹子の子孫だ。しかしそんな威厳は一切なく、自分の皿のたくあんをとって勝手に食べた濃い青紫色の髪と赤色の旗袍を羽織った死体人形のフオ・チーハイ、通称ちぃの服を引っ張っている。

「ちぃ!たくあんを取るでない!もどせ!」

「いやだね〜」

ちぃは微動だにしない。その向かいには牧浦を哀れんだ目で見る宇志綺優輝(うしきゆうき)の姿があった。彼は屋敷の火事でなくなってしまったちぃを蘇生させた仙人で、彼女の性質を良く理解しているため何もできることがない。牧浦の悲しみの混じった怒りの声が響く今の中に苦い顔をしながら納古と百々代は座る。すると奥から酒瓶と盃を四杯ほど持ってきた勿忘能朝 郁(わすれなのうちょう かぐわ)がやってきた。

「おっきたのか」

郁は百々代を見るなりそう言った。180cmはくだらない体躯をドスンと畳に置き、納古、牧浦、宇志綺、そして自分の前に盃を配って酒を注いだ。牧浦がちぃに文句を垂れ流し怒る中、酒を飲んで食べ物を食べはじめる。鮭と大豆、ほうれん草添えの蛸足。おかずには白米とアサリの味噌汁。四人は食べはじめ談笑しようとするが、納古がさっきから猿のようにヒーヒーと叫ぶ牧浦の声に痺れをきらした。

「さっきから食べ物のことで喚くのをやめろ仙人擬きが!」

それにおどろいた牧浦は咄嗟に、

「ちぃが立て続けに我のたくあんを取るんじゃ!今度は餃子まで!」

と言い返した。それを聞いた納古は憫笑するように、

「仙人になりたかったんだろう?ならその位我慢しろよ。大体ちぃに舐められるお前が悪いしな!」

普段は声も静かで敬語な納古だが、怒る時は口調が荒くなり、罵倒の切れ味が何倍にも跳ね上がる。他の三人、特に百々代は普段の行いで頻繁に納古に怒られているため彼女の怒った声にはなれている。つまりこの情景は日常茶飯事。百々代が止めに入ろうと声をかけても二人からの見事に重なる「うるさいだまれ」で返される。そんな中ちぃはまだ牧浦の餃子とアサリをつまみとって食べて二人の言い合いを気にもとめていない。さすがに喧嘩が激しくなってきたことに危機感を覚え優輝が立ち上がって止めに入ってきた。

「君たちいつも喧嘩してるね。座って落ち着こう。そしてちぃ、牧浦のたくあん取っちゃダメでしょ。」

優輝は母親であるかのように三人に語りかける。牧浦も思わず「母上…」と言葉をこぼすほどだ。

「え〜…」

ちぃはおそらく悪びれもしていない。なにしろ死体を蘇生させた自律式の傀儡なわけで、人間のような高度な感情自体は生前のように再現できるわけではない。こんな軽い説教はのれんに拳だろう。六人はまた座り込んで夜食をすませ、その日も前の日と同じように石窯風呂に入ってから、月に照らされる屋根の下で眠りについた。

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