第51話
透明人間の部屋に、バターの香りがふわん、と広がる。
ちとせはコウタの手際の良さに驚いた。それは、
「製菓学校に通ってるの?」
そう問わずにはいられないほど。まるでパティシエのようだった。
「普通の大学生です。でも、クッキーに関してはパティシエ仕込みです」
ちとせのフォローは的確で、かゆいところに手が届いた。ひとりで作るよりも、もっとスムーズにことが運ぶ。チャービルと一緒に焼いたときのようだ。
焼き上がるなり、さっそくそれを頬張る。
なんとなくしょっぱく感じられるのは、きっと流れた涙のせい。
「芹那ちゃんがよく作ってくれたクッキーみたい」
ちとせの膝が崩れた。
体も心も、麻痺したように力が入らない。
コウタもひとつ、またひとつと噛み締めた。しっかりサクホロ。満足のいく出来だ。
もうひとつ、と手を伸ばした時。それが少し、減っている気がした。
ちとせはまだ動けそうにない。となれば、これは――?
単なる勘違いかもしれない。けれど、現実がどちらであれ、コウタの心は満ちていた。
――ここにいるなら、もっともらって。ぼくの、ぼくたちの、自信作を。
もしも、いないとしても。いると錯覚できたことが、嬉しい。
「初香とも、こんなふうにして焼きたかったなぁ」
ようやく絞り出された震える声が、過去へと響く。
「子育てって、難しいのよ。人の体ってよくできているけれど、心って貧弱なの。子どもが大きくなるほど、弱っていく。反抗されたら、反抗しちゃう。反抗されてなくても、抑えきれないイライラを、何も悪くない子どもにぶつけてしまうこともある。私ね、自分でもどうしてここまでするのか、よくわかってなかった。でも、今、見えた気がするの。私、悔悛のためにここを守っていたんだわ。別の未来へと進む道だってあったのに、舵を切れなかったことを、悔いて、赦されたくて。私ね、初香に酷いことをしたことがあるのよ。不機嫌を撒き散らして気を遣わせたり、酷いお弁当を持たせたり。伸太郎にはそんなことしなかった。それは、その時は平気だったからかもしれないし、男の子か女の子かで、自分に害が少ない方を選んだからかもしれない。伸太郎が家を出ていくときは、そんな歳だものね、と思ったんだけれど。初香はね、結婚するまで家にいると思ってた。だけど、高校を卒業したらあっけなく出て行った。寂しかった。なんでこんな仕打ちをって、嘆いたりもした。家が静かになった後、伸太郎からは時々連絡が来たけれど、初香からはさっぱり。こっちから連絡しても、のらりくらり。だから、手紙、すごく嬉しかった。あの頃のままの初香がここにいるって思えた。一度離れた仲だものね。とっても仲良しになれなくても、あの頃みたいに話ができるだけで、私は幸せ。……ごめんなさい、なんだか感傷的になっちゃって」
神でもなんでもない、自分に吐き出された懺悔。
この世界は、ひとつではない。
それを知っているコウタは、いつか一緒にクッキーを焼ける日が来ますようにと、心の中で、そっと願った。
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