第49話


「バーカバーカバーカ……。記憶に傷なんて、ついてないよ。声かけてよ。声がぼくに届かないなら、気配で近くにいるって教えてよ。逃げないでよ。バカミント」

 顔中、至る所が痛い。

 ズズっと洟をすすった。

 何枚もの便箋を、封筒に戻す。それをぎゅうっと、抱きしめた。

 ――あの日々は、確かにリアルだったんだ。

「ちょちょいとか、うおーとか、ぐおーとか。ただのお金になる毛とか。ミントらしい言葉がいっぱいで嬉しいけどさ。わかるようでわかんないよ、ミント」

 知りたい部分が省略された文章は、想像力をかき立てる。

 ちょちょいと力を使っている姿を、うおーと力を使っている姿を、あれこれとイメージしてみた。どれも二次元のキャラクターのように動く。顔芸に、集中線。バトルものではない。確実にこれは、ギャグものだ。

 堪えきれず笑った。

 笑ったせいだ。涙は枯れない。

「ありがとう、ミント。ぼくをまっさらにしてくれて、ありがとう」


 玄関から、ドアノブが回り、扉が開く音がした。

 誰か、来た。

 瞬間、コウタの体に緊張が走る。

 思い浮かべたのは、ただひとり。

 伸太郎の、母。

「あ……」

 部屋に入ってきたのは、知っている女性だった。

「あ、えっと、ぼく、その……タ、伸太郎さんの知り合い、で」

「ああ、えっと」

 女性の表情は、凍てついていて硬い。身なりに気を遣えていないあたりから、疲労感が透けて見える。

「ごめんなさいね、最近スッパリと忘れてしまうことが増えて。ええと、確か」

「ユ、ユズキです」

「ああ、ユズくん。ごめんなさいね、お名前を忘れてしまって。あなた、全然変わらないのね。こんなに覚えられなくなった頭にも、あなたの記憶はちゃんとあったわ。名前だけよ、名前だけ。なんか、こう、爽やかな柑橘の名前だな、とは、思ったのだけど。そう、ユズくん」

 女性はそっと、カバンを置いた。

「それで、ユズくんはなんでここに?」

「え?」

「ここに来るのは、私と、今日寝る場所に困ったり、水や電気に困った人くらいだから。ここね、あの子が帰ってくるまでそのままにしておこうと思って、ずっと借りていたの。はじめの頃は、ただの誰も帰ってこない家。そのあとは、盗むものは特にないけど、ライフラインが使える家。けっこうトイレとか汚されやすくてね、困ったわ。でもね、透明人間――まぁ、幽霊っていう方がいいのかも知れないわね。その、幽霊が出るとか、そういう類の噂が広がるようになってからね、入り込む人が減ったの。致し方がなく入ったところで、汚らしく使うことはないっていうか。それで、そう。時々ね、なんだか魔法でもかけたみたいに綺麗だなって思うこと、あるのよ。本当に、不思議よね。こんな不思議なことがあるのだから、あの子が帰ってきたっておかしくない。人は皆、もう相応の年月が過ぎたから、あの子を死んだものと扱うけれど、そんなことはない。また、いつか会えるのよ。……でもね、もうここ、取り壊すんですって。帰ってくるまで、そのままにしておきたかったのだけど。仕方がないわね」

 ユズとして生きていた時に使っていた掃除用具に、女性が手を伸ばした。咄嗟にコウタは「ぼくがやります」と言った。

 コウタは慣れた手つきで掃除をし始める。その様を、ほんの少しの疑いとともに、女性はちらりちらりと見ていた。

「ねぇ、もしかして」

「は、はい」

「ここに魔法をかけてくれていたの、あなた?」

「あ、えっと……そうなのかなぁ。そうなのかもしれないですけど」

「ふふふ。あなたも最近、スッパリ忘れてしまったりするの?」

「うーん。忘れる、というか、うまく情報を処理できてないというか」

「若いうちからそんなだと、私くらいになった時、大変よ」

 女性の顔がほころんだ。今なら、一歩踏み出せる気がした。

「あの、ちとせさん」

「んー?」

 合っていた。ちとせではない可能性はゼロではなかった。間違っていたら失礼極まりないと冷や汗をかいていたコウタは、ほっと胸を撫で下ろす。

「あの、実は、渡したいものがあるんです」

「私に?」

「はい」

「それは、どんなものだろう。飴ちゃんくらいだったら、今貰うわ。でも、そういうものではないなら。お掃除を終えてからでもいいかしら。今日、やりたいことがたくさんあるのよ」

「ぼくも手伝います。ひと通りの家事、できるので。ご要望などあれば」

「そう? じゃあ、ご好意に甘えさせてもらおうかしら。ありがとうね、ユズくん。助かるわ」

 ところどころ見慣れない状態であるものの、ほとんどの設備を理解しているといってよかった。テキパキと作業を進めると、ちとせは幾度となく目を丸くした。

「なんだか、通い詰めた人みたいな手際の良さね」

「ええ、まぁ」

「そんなに来ていたの?」

「あ、えっと、そのぅ……こういう感じのお部屋のお掃除をするアルバイトを、ちょこっとしてまして」

 なんら、嘘ではない。

「そうなのね。さすが、働いたことがある人は違うわね。私は、二週間にいっぺんはここに来てるのよ? それなのに、あなたの方がずぅっと詳しそう。お掃除のコツとか、ある?」

「慣れ、ですかね」



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