第37話


「ミツバ」

 ユズがキラキラと、明るい声で呼ぶ。

「ん?」

 抱きしめていた腕の力を、そっと緩めた。

 久しぶりに見たユズの顔は、どこかスッキリとしていた。

「ミツバ」

「なに?」

「ごめん」

「謝るのはわたしたちの――」

「洋服、濡らしちゃった」

「……え?」

「涙と鼻水、つけちゃった」

 ニカっと笑う。笑顔はうつる。ミツバの顔が、ほころんだ。

「気にしないで。なんかあったかいな、とは思ってたんだけど」

「ミツバは、優しいね」

「そんなことないよ」

「ううん。優しい。それに――あったかい」

 チャービルのクッキーを、ふたりで食べた。

 ごくんと飲み込むと、深呼吸をした。

 過去を吐き出し、未来を見た。

 向き合って、顔を見て、話の続きを、し始める。


 ユズ。わたしたちから、お願いがある。

 わたしたちは、もう元の世界には戻れないのだと理解しているし、諦めてもいる。

 でも、わずかな、一パーセントの希望を持ち続ける人は、確かにいる。それが苦しい。

 ユズ。わたしたちはもう、死んだんだ。

 生きているふりをすることはできても、生き返ることはできない。同じ世界で、同じ空気を吸うことは、できないんだよ。

 それを、伝えてほしい。

 すっかり忘れたわけじゃないんだよってモーションも、いらない。もう、充分なほどにもらったし。

 ただ、ふわりと存在を感じた時。目には見えない、心の声が聞こえた時。そんな時に、笑ってくれたら、嬉しいなぁ。

 ユズ。現実世界に戻るなら、どこに戻りたい?

 前に、ミントから聞いた話によれば、「タルト選び」って聞いたけど。


 ユズがケラケラと笑い出した。

 ミツバは驚き、目を丸くする。なぜ、今――そんなに晴れやかに笑うのか。

「やだよ」

「何が」

「タルト選びまで戻りたくなんかない」

「何で」

「だって、それって今までの時間を無かったことにするってことでしょ? やだやだ。みんなとの時間は、ぼくにとって宝物なんだ。タイムにも言ったんだけど、戻るとしたら、クッキーをかっぱらうところがいい」

 ミツバの目が、三日月になった。

「それは無理だよ、ユズ」

「なんで?」

「ユズがコウタに戻る話をしているから」

「コウタ?」

「そうだよ。ユズの、本当の名前。コウタ」

 この世界へ来た頃のことを思い出す。

 自分の名前がわからなかった。そんなぼくは、ユズでいいじゃんと、とても気軽に名づけられた。

 何の違和感もなく溶け込んだその名前こそが、今では自分を表す名前と言っていい。

 ドッペルゲンガーのユズキからこの名がつけられたことはわかっている。それでも確かに、自分はユズだ。

「それは、えっと」

「現実から目を逸らさないで。わたしたちから、ユズに頼む大切な仕事の話をしているんだから」

「戻らないって道はないってこと?」

「そう」

「……タルト選びは、嫌だ」

「それは、なぜ」

「そこまで戻ったら、ここでの時間が無になる。クッキーをかっぱらっちゃダメっていうなら。せめて、みんなに会ってからがいい」

「ありがとう。わたしたちのことを、大切に思ってくれて」


 言葉がどんどんと積み重なっていく。それを嚥下することが、ユズにはできない。別に、目を逸らしているつもりはない。ただ、きちんと整理するには、時間がかかる内容だったというだけ。

「今日はこの辺でね。日が決まったら、その時にまた、ここへ呼ぶから」

「わかった。いや、まだしっかりわかってないけど。でも、うん。ちゃんと、聞いた」

 先に帰ってしまったのか、ミントの姿はない。ユズはひとり、不思議な扉に足を入れた。

「またね、ミツバ」

「うん。ありがとう、コウタ」

 後ろ髪を引かれた。掴んで引くには短すぎるだろうに、けれど確かに、引かれた。

 とぷん、と揺れる。

 向こう側は、真っ白と言っていいほどに明るい。

「変だなぁ」

 これまで、――といっても、この扉を使って行き来をしたのは数回であるけれど――こんなことはなかった。本当に、普通の扉のように、出たり入ったりできていた。

 どこに出る? この不思議な扉も、チャービルの家のオーブンのように、調子が悪いのだろうか。

 それとも――。

 目をぎゅっと瞑る。瞑っていても、眩しくて痛い。

 手に違和感。それはだんだんと重たくなっていく。記憶のどこかにある感触と重量そっくりになると、それ以上重たくなることはなかった。

 嫌な予感がする。光量が落ちていく。パチパチと瞬きをした。まだ、眩しい。けれど、見える。


 見たことのある世界が。



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