第16話


 ここは、複製世界であるはずだ。

 ということは、元いた世界がベースであるはずなのだ。

 中には似たような境遇の者がいるだろうが、全てが連れ込まれた人間であるとは思えない。忍びながら暮らしている彼らが、これほどの拠点を持っているとは思えない。つまり、この場所や、この荒んだ人間たちは全て、実在する世界の住人。世界と共にコピーされた、人間。

 ――こんな世界が、あったのか。

 自分が暮らしていた世界の土台には、このような人々の力があったのだ。知らなかった。タルトがどうだと言っていた頃には、気づけなかった。実際に目で見て、鼻で、心で感じて、ようやく知れた。

「それ、やりますよ」

「ン……? ア、アア」

 男が怪訝な顔でユズを見た。いじめているつもりだというのに、少しもダメージを受けた感じがない。さらには、もっと働こうとする。

 変な奴だ。

 こういうやつは、こんな場所にいちゃいけねぇんだ。もっと、すぐに逃げちまうような奴がここで、性根を叩き直すべきなんだよ。

 仕事を押し付けながら、視線でユズを追い続ける。

「なかなかいい根性してるじゃねぇか」

 晴れた笑みと共に、空に本音がこぼれた。

 仕事が終わると、解散場所へと向かう臭気が充満したバスの中、男はユズにぬるいコーラを投げた。

「やるよ。お前、今日よく働いたからな。ご褒美だ」

 ジロリ、と多くの視線がユズを刺す。

「あ、りがとうございます」

「もっとシャキッとしろ、シャキッと」

「あ、ありがとうございます!」

 笑い声と舌打ちが響く。新入りのくせに――その先の感情は、人それぞれの道を駆けた。


 家に戻るなり、泥のように床に溶けた。

 ミントはそんなユズをつんつんとつつく。タイムは「あったかいお茶でもいれてやるかぁ」と、微笑みながらキッチンへ消えた。

「なんでそんなになるまで働いてきたの? もう少し待ったら、もう少しまともな仕事ができるっていうのにさ」

 ミントが口を尖らせた。いくら〝ユズキ〟ではないにしろ、そっくりなユズがボロボロになるのを見るのは辛いらしい。

「俺はわからないでもないなぁ。なんか、自分の居場所が揺らぐんだよな。自分が貢献できているっていう実感? みたいなやつがないとさ。ミントだって子どもの頃さ、窮屈だなって思ったこと、あるだろ?」

 親かのように包容力のある視線。

 ミントはほんの少し視線を交わらせると、ほんのりと頬を染めた。

「……ある」

「そういうこと」

 子どもの頃は、自由だったが、自由ではなかった。

 大人と比べると、時間的な自由はあるように思う。けれど、好き勝手お金が使えるわけではないし、あそこには行くな、あれはダメ――たくさんの禁止事項に縛られる。大人の機嫌を損ねるたびに、ただでさえ多い禁止事項が増えていく。そして、禁止事項が増えるたびに、自分の生活レベルは落ちていく。

 ミントは、かつてのお弁当を思い出していた。母がご機嫌な時は、色彩豊かなおかずがぎゅっと詰まっていた。しかし、機嫌が悪い時といえば、ビニール袋に突っ込まれた麺と、希釈されていない麺つゆを持たされたりした。そんな時、なにも持たされない方がマシだと文句を言い、不機嫌の炎に薪を焚べたこともあった。

 ――お母さんは、あたしのお昼ご飯をなにかしらか用意したいんだ。

 そのことを理解してからというもの、ミントはいかにしてまともなお昼ご飯を手に入れるかを考えた。今となっては大したことではないが、そんなことを大真面目に考えられるくらいの時間を持っていた。

 それは、ほとんどゲームだった。

 その日その日に出会う敵を、どのようにしてこちら側に引き込むか。うまく引き込むことができれば、きちんとしたご飯にありつける。ミスしたら知り合いの前では広げにくい、時に便所メシ確定の魔弁当だ。

 敵は日によってレベルが違う。低レベルご機嫌系なら簡単だが、いきなりボス戦かのような強敵となることもある。

 ミントは楽しみながらも苦しんだ。

 自分は母の機嫌を取るために生まれてきたのだろうか、と悶々と考える日も多い。

 たかが弁当だ。もったいないけれど、中身を捨てて「美味しかったよ」とでもいえばいいのかもしれない。少なからず、これのために神経をすり減らすのはいい加減馬鹿馬鹿しい。

 そう思い始めた頃、父が言った。

「お前、母さんの機嫌取るのほんと上手いよな。父さんよりも上手いよ。お前のおかげで、この家は明るい。ありがとうな」

 自分が楽な道へと続いている橋が落ちた瞬間だった。

 平穏な家であり続けるために無理をした。

 自分の存在は、母の機嫌を取ることで価値が上がるものであると考えた。人の機嫌を優先していたら、自分の機嫌を取る時間と余裕がない。ミントの心は荒んでいった。

 ある日、ぷつん、と糸が切れた。



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