第15話


 ミントがチャービルの頭を引っ叩いた。ぱしん、といい音がした。

「ユズがね、ミツバからチャーちゃんに会いに行けって言われたんだって。それで」

「そう! 『ハト』って言えって、占いで」

 ぶるっとチャービルの指が震えた。

「チャービル?」

「わかった。わかったけど、すぐは無理。また今度、ミントと一緒に来てよ」

「えー? あたし、やだよ」

「ユズが迷子になってもいいの? ガチ消しした彼が迷子になったら、この世界は彼のことを――」

「わかった! わかったよぅ!」

 眉間に皺がよる。ぎゅうっと握りしめた拳は、小さくて、プルプルと震えていて、可愛い。

 見惚れて危うく問いそびれそうだった。知らないことを、知ろうとした。

「あの、ぼくと一緒にいたい、っていうのは……」

 ミントの小さな拳が、ユズの頭をぽこん、と殴った。


 結局、チャービルのところへ行ったけれども、何かが動き出したという実感を得ることはできなかった。悶々としながら、黒だけ踏みをしているミントの後ろを、トコトコと歩く。

 ぴょん、ぴょん、ぴょん。

 突然、ミントが止まった。

 周囲の状況をよく見ていなかったユズは、ドン、とぶつかって、ミントを倒した。

「こらぁ!」

「ご、ごごごごめん!」

 拳を振り上げてまであらわにした怒りは、シュルシュルと抜けていく。何かしたか? いや、何もしていない。

 ユズにわかるのは、今日のミントは何かおかしい、ということだ。

「ねぇ」

「何よ」

「ぼくと一緒にいたいっていうのは、いったい」

「ああ、もう! うるさい!」

 ミントがずんずんと進む。ユズはその背中を、たったと追った。


 最新刊らしい週刊誌のページを捲りながら、タイムがガハハと笑う。チャービルの部屋訪問に、そんなにガハハと笑えるタネがあっただろうか。咲いた笑顔の花は、夏の陽光を浴びたように眩しい。

「ユズ、読むか?」

「あれから――」

「あれの続き」

「やった! 読みたい!」

 ユズの中の時間感覚が、少し整ってきたようだ。溶けるように寝ていたらしい、あの頃と比べると。

「なんか、途中読めてなくてもさ、また読み始めるとどうにかなっちゃうっていうか。なんだろう、あいだを自分で補完するのが楽しいね」

「はははっ! ユズはいい性格してんな!」

 ムスッとした顔で、ミントがお茶を持ってきた。今日はフルーツティーじゃない。

 ユズにとっては、どのようなお茶であるかなど、たいしたことではなかった。なんなら、フルーツティーはよそ者向けのような気がするが、なんてことない普通のお茶は仲間の証、という気がする。

 ふたりの関係は未だわからないし、自分とミントにどのような秘密があるのかもわからないけれど、確かに心の手をつなげているような気が。

「ねぇ、タイム」

「んー?」

「ぼくとミントってさ、昔、何かあった? 会うのは初めてだと思ってたんだけど、なんか――」

 ミントがプーっとお茶を吹き出した。

 タイムは、笑い声が漏れるのをどうにか堪える。声は堪えているけれど、顔は変だ。笑いを制御できずに、ひょっとこのようになってる。

「ミントの大事な人に、お前がそっくりなんだよ」

「あああああ!」

 ミントの拳がタイムをポカスカ殴る。「やめろぉ、やめろぉ」という声は、どこか楽しそうだった。

「こらぁ! 言うなって言ったでしょー!」

 大事な人にそっくり、か。ドッペルゲンガー?

 となると、前に見た写真に写っていた自分のような人は、その大事な人、ということだろうか。

「ねえ」

「なによ!」

「ぼくのこと、ユズにしたのってさ。その人が、ユズだったから?」

「厳密には、ユズキだけどな」

「だあかあらああ!」

「うわぁ!」

 ポカスカポカスカ、拳が降る。

 ああ、こんな優しい暴力もあるんだなぁ。

 ユズは拳の雨あられを、微笑み見つめた。


 結局、仕事をもらえなかったユズは、安日給でこき使われてみることにした。何もしないでお世話になってばかりというのが、やはり落ち着かなかったのだ。

 だいたい、仕事で不満を抱いていいのは、仕事をしてからだ。働いてもいないのに給料がどうとかいうだなんて、生意気じゃないか。

 タイムに「やめとけば」と呆れられながらも、胸張り集合場所まで来た。集まった人々を見ただけで、やめておけばよかったと思った。

 この仕事、やらなくてもわかる。これまでに触れた創作世界の、奴隷の姿が脳裏をよぎる。

 まだ始まってもいないというのに、ほのかに異臭がするバスが、ブオオオンと走る。通路側に腰掛けているユズには、道路は見えない。悪路なのか、それともこのバス自体が壊れかけなのか。時折腰が浮いた。

 バスが停まると、あちらこちらからのため息を浴びながら降りた。視界に飛び込んできたのは、港だった。

 整列はしない。バラバラと好き勝手、話が聞こえるところに立ち、ぶっきらぼうな説明を聞いた。

 誰が返事をするわけでもない、音が乏しい世界で、ユズは右往左往しながらも働き始めた。重たい荷物をよいしょ、と運ぶ。遅えんだよ、とでも言いたげに、わざわざぶつかってくる奴がいた。

 昼食は一応支給されたが、おにぎりふたつに漬物が少し添えられた小箱と安物のお茶。どちらも全て腹におさめても、満腹とはいえない。

 先輩労働者たちは、こうなることを知っていたからか、食パンを一斤丸ごと持ち込むなどしていた。一枚二十円程だろう食パンは、新入りに五十円で売られている。それでも午後のことを考えてか、終われば給料が入るという希望的観測からか、新入りは倍値以上のパンを買い、腹におさめた。

 底の世界を、見た気がした。

「お前は買わないのか?」

 この集団の長なのだろう、歪んだ笑顔の男が言った。

「要らない、です」

 ユズが断ると、男の顔に闇色が広がった。

 昼食休憩の後の労働は、一層に重かった。嫌がらせのように振り与えられる作業を、一心不乱にこなす。

 ユズは歯を食いしばりながら、考えた。

 刹那、こうして買い叩かれるのはかまわない。けれど、この荒んだ世界は居心地が悪い。ずうっと居たくはない。



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