類別ミステリー集成(丙)

類別ミステリー集成(カサイ袋の最愛編)

『トリック』


【第一】叙述トリック


(A)人間に関する叙述トリック

①性別の叙述トリック

(イ)男性的に表現するが実際は女性

(ロ)女性的に表現するが実際は男性

②人数の叙述トリック

(イ)過多に表現するが実際は少数

(ロ)過小に表現するが実際は多数

③両者の間柄の叙述トリック

(イ)同一人物に表現するが実際は別人物

(ロ)別人物に表現するが実際は同一人物

(ハ)その他の特性・種類の誤認

〔六番1京〕じつは、登場人物たちは人間ではなく、カンガルー科のワラビーだった。三番のジャンプ力、四番のお腹、五番の袋、どれもワラビーの種類を示す伏線である。冒頭の歌詞により、曲名を幽体本役だと誘導しているが、じっさいには、有袋翻訳である。有袋類、つまり、ワラビーのことばを日本語に翻訳している。人間とワラビー。種族の誤認である。動物を使った叙述トリックは様々あると思うが、言語使用の納得に差異が生まれやすいため、題名や章題などで、橋渡しを施すことが妥当である。本作は曲名によって、意訳を提示している。ちなみに、「見て かわいいワラビーね」という台詞は、カサイ袋の最愛の六章でも登場している。

④視点の叙述トリック

(イ)モノローグとして表現するが実際に存在

〔六番3京〕三番と四番を見れば、『ぼく』が完全な傍観者だとわかる。しかし、いわゆる、神(読者)視点ではない。じっさいに『ぼく』が存在している。『ワラビーの子ども』の視点である。子どもゆえに、見ること、きくことしかできない。二番の歌詞に、『ゆかり』と『たき』の馴れそめが描かれているが、これも動物だからこその前提を用いている。つまり、同じかこいに、はいっていたふたりに、子どもができる。その子どもが生まれたあと、飼育員が夫婦という看板を加えたという経緯である。檻の外のラベルを、ぼくが見ていたのだ。

(ロ)存在しているように表現するが実際は無人

(ハ)その他の隠蔽・設定の誤認

(B)時間に関する叙述トリック

①時間の叙述トリック

(イ)同時間に表現するが実際は別時間

(ロ)別時間に表現する実際は同時間

②初期時間に関する叙述トリック

③その他・多次元による誤認

(C)場所に関する叙述トリック

①場所の叙述トリック

(イ)同じ場所に表現するが実際は別場所

(ロ)別場所に表現するが実際は同じ場所

②初期場所に関する叙述トリック

〔六番2京〕作中の舞台を自宅だと見せかけて、じっさいは動物園のなかにした。初期場所の誤認である。そもそも、物語とは必然的に、読者によって、その前提が左右される。どのような作品であろうと、とくに言及がなければ、登場人物は人間だと考えるのが普通だ。時間も現在。場所も販売された国だ。つまり、日本だと考えるだろう。この常識を逆手にとるものが、初期場所の叙述トリックである。一番の歌詞のように、男女が『同じ場所で生まれ育って』と書かれれば、地元や学校という印象になる。しかし、じっさいには、動物園のなか、ワラビーの話だった。二番の外堀が、五番で、ほんとうに存在することがわかり、普通の場所ではないことに気がつくはずだ。

③その他・異所による誤認

(D)その他の特殊な叙述トリック

①偽の記述による叙述トリック

②行為・手順・理由についての叙述トリック


【第二】犯人が現場に出入りした痕跡についてのトリック


(A)密室トリック

①犯行時、犯人が密室外にいた状況のトリック

②犯行時、犯人が密室内にいた状況のトリック

〔二十三章4計〕犯行時、犯人は室内で三浦を殺害した。午後二時から午後三時のあいだに、絞殺し、天井裏の梁にむすんだ。犯人は密室を保ったまま、窓を割った。ドアにガラス窓と脚立を立てかける。はいるときに倒れるようにした。窓から脱出する。夕方五時、成海たちがはいった際に、部屋の窓が割れたと誤認させれば、密室が完成する。確認中に作為させるトリックの利用だ。一階の現場に対して、二階から干渉することによって、密室の状況をつくりあげた。

③犯行時、被害者が密室外にいた状況のトリック

(B)下半身・足跡トリック

(C)上半身・指紋トリック

〔二十三章1計〕犯人は、ばらばらにした寺崎の両腕をつかみ、室内からダクトと逆方向への痕跡をのこした。犯人視点では、寺崎の身体を利用して、天井裏から侵入したと誤認させる指紋トリックになっている。警察に寺崎の指紋だと判明させることが狙いだ。いっぽう、成海からすれば、上半身の一部を利用した誤認トリックになっている。近代が舞台の場合、指紋そのものに作為することは、説得力に欠ける。しかし、痕跡そのものを作為するパターンは、まだ、未知なる可能性がのこっている。


【第三】犯行の時間および誤認に関するトリック

 

(A)乗り物のトリック

(B)時計のトリック

(C)音のトリック

〔二十三章5計〕作中では、ドアをあけると同時に、ガラス棚を倒している。この行為によって、ガラス窓までも割ってしまったと誤認させている。もしも、ガラス棚がなく、脚立だけの場合、割れる音がきこえないことになり、密室ではなかったことに気がつかれる。ガラス棚の破壊は必須である。音のトリックを前提にした密室である。さらにガラス棚を倒した直後、密室の補強を設けている。ガラスの破片という犯人の失敗をいれるためだ。音のトリックは、そのまま、確認中の作為トリックへと繋がっている。

(D)作業による時間トリック

①犯行時、実際に作業していないもの

(イ)完成品との交換

〔九章3軽〕侵入した痕跡をのこさないために、新品のガラス窓と古いガラス窓を交換する方法だ。桐生は午後二時すぎ、三浦を殺害したあと、特異な状況をつくりあげた。天井裏に細工を施し、密室を保ったままにするために、カギをかけた。窓から外に出る。窓枠ごとガラス窓を外し、かわりに、カギのかかった状態のガラス窓をはめこんだのである。こちらは藤堂の勿論破文になる。

(ロ)確認中に破壊・作為

〔二十三章2計〕カサイ袋の最愛は、犯行時ではなく、犯行後の確認中に外部から作為している。密室だった時刻を誤認させるトリックだ。犯人は冷房をつけると、室外機から水が漏れることを知っていた。犯行後に窓を割り、外へと出て、二階の自室にもどる。外に水を落とし、濡れた地面を装った。成海たちが三浦の部屋にはいる際、脚立とガラス棚が倒れる音をきき、冷房をつける。こうして、地面が濡れているにもかかわらず、足跡がなく、あたかも、割れたタイミングで、水がはいりはじめたかのように見せかけたのだ。さらに、同じタイミングで監視カメラにガラス窓の破片を投げた。しかし、じっさいには、フェンスの手前に、防虫ネットが張ってあり、一階から破片が飛び出すわけがない。つまり、作為だと認識できると同時に、犯人が絞られるのである。

②犯行時、実際に作業したもの

(イ)早業作業

〔二十三章3計〕秋田は試料をおくるまえに、研究所の個室で、検査を進めていた。作中では昼食時、十二時に研究所へと行き、試料を配達委員にわたすのは午後三時となっている。だれにも見られずに作業できる個室もあり、彼が密かに作業を進めることが可能だった。多目的研究センターにとどけるまえに作業を進めていれば、一時間、ロスしても、検査済みの数と辻褄が合うのである。ミステリーのトリックとしては、配達人を待つあいだに、仕上げるものなので、早業作業となる。

(ロ)他力作業

(E)目撃者を利用したトリック

①対象の相手を誤認させる

(イ)対象人物と別人の誤認

(ロ)対象人物とそれ以外の誤認

〔八章2軽〕フェイスタイムが加古のアリバイとなっている。ただし、本人の姿は映っていない。加古の声だけをきいている。会話はなかった。藤堂は音声を流すことで、誤認させたと考えた。

②犯人に知り得た事実・失敗を利用作用

〔二十三章6計〕このトリックは表裏一体となる。犯人は休憩室で、宇田川と話していた。偽の動機をつくろうとしていたのだ。重要な話をしている最中だった。ゆえに、桐生と亜紀の会話をしっかりときかなかった。犯人は桐生がなにを話すか、あらかじめ、予想できたので、注意を向けなかった。これは犯人にのみ知りえた事実を利用したトリックと言える。ただし、じっさいには、桐生の話は、犯人の知っている真相とはことなっていた。とうの桐生がまちがえていたのである。桐生は黒い藻の付着したぬいぐるみを大木だと勘違いしていたのだ。


【第四】人間および物品の隠し方に関するトリック

 

(A)空間性の隠蔽トリック

①死体移動による欺瞞

(イ)短距離移動

〔二十三章7計〕寺崎の身体は、犯人の手によって、三度、運ばれている。一度目は犯人の自室から運ばれている。屋上を経由して、芦ヶ池に落とされている。二度目はつぎの日の夜中だ。芦ヶ池から回収され、自室の浴槽にて分解されている。三度目は指紋トリックに使ったあと、ゴミに出されている。犯人からすれば、この死体移動の目的は、ふたつある。ひとつは事故死に見せかけるためだ。もうひとつは寺崎が三浦を殺害し、失踪したと誤認させるためだ。犯人にとって、不運なのは、犬飼が四度目の移動をしてしまったことである。長距離移動にあてはまるが、犯人の意図とはことなるため、そちらの分類は見送った。

(ロ)遠距離移動

②死体を永久に隠蔽

③特徴を消された死体

〔二十三章10計〕犯人は被害者の胃袋を処分したかった。寺崎を溺殺した池の水に電解水が含まれているとわかったからだ。犯人の知らないうちに、宇田川が実験に使ったのである。犯人はシンポジウムの場で、はじめてきいた。胃袋、食道、肺などに電解水の痕跡がのこっていることを知った。電解水が体内から見つかれば、いつどこでどうやって、だれが殺害したのか突きとめられる。ゆえに、死体を分解し、胃袋を処分することにしたのだ。昭和以前の時代のミステリーでは、特徴を消された死体とは、顔面や指紋を焼くことだった。別人の死に見せかけて、犯人が自己抹殺を仕掛けるものだ。現代では、科学鑑定からむずかしい。そこで、不束三探はべつのプランをとった。広範囲の特徴を消したのだ。つまり、体内にのこされた特徴を消したのである。それがばらばら殺人という、きっちり路線の終始である。

(B)物質性の隠蔽トリック

①完全な遮蔽物の利用

②開閉可能な遮蔽物の利用

③部分的な遮蔽物の利用

(C)五感性の隠蔽トリック

①光学トリック

②化学トリック

(D)精神性の隠蔽トリック

①先入観

②信仰心

(E)その他の隠蔽トリック

①同一の群集の中

②替え玉・二つトリック


【第五】凶器と毒殺に関するトリック


(A)凶器トリック

①普遍的な凶器

(イ)異様な刃物

(ロ)異様な矢弾

(ハ)異様な殴打

〔十章4軽〕藤堂は秋田の部屋が天井裏と繋がっていることを利用し、二階から三浦を殺害したと推理する。現場にはネイルハンマーが落ちていた。被害者の頭部には裂傷がのこっていた。天井の梁にネイルハンマーを置いて、三浦の気配を察したあとに、床を飛び、頭部に落としたのである。プロバビリティの殺人と言える。高低差、地盤を利用した複合トリックとなっているが、メインは異様な設置と特殊な状況による、凶器トリックである。二階にいたまま、殺害が可能なため、結果的に、アリバイトリックにも繋がる。

(ニ)異様な絞殺

②特異な凶器

(イ)高低差や音波を利用

(ロ)重量や圧力を利用

(ハ)水や氷を利用

〔二十三章8計〕多目的研究センターの水質環境研究所には、芦ヶ池の水が運ばれていた。大量の藻を含んだ池の水は、水槽内にはいっていた。その水を使って、寺崎を溺殺したのである。ほんらいは芦ヶ池に、寺崎を放置している予定だった。そうすれば、飲みこんだ水の成分が同じなので、べつの場所で殺害したとは思われない。水の凶器である。カサイ袋の最愛の場合、この池の水がばらばら殺人のキーとなっている。

(ニ)電気や火炎を利用

③その他の奇抜な凶器

(B)毒殺トリック

①嚥下毒

②注射毒

③吸入毒


【第六】暗号(または解法)に関するトリック


(A)割符法

①単純割符法

②上下割符法

(B)表形法

①表形法

②実存表形法

(C)寓意法

①寓意法

②実存寓意法

(D)置換法

①逆進法

②横断・斜断法

③混合置換法

④挿入・抜去法

(E)代用法

①文字・数字代用法

②形状代用法

③複雑代用法

(F)媒介法

①媒介法

②作用媒介法

〔十二章6軽〕透明な発光成分、クマリンのはいったインクを使い、目に見えない文章が新聞に書かれている。成海は水族園のブラックライトで、隠された文章を読むことに成功する。一部の蠍にも同じ現象が起きることで知られており、白い蠍という名称そのものが作用媒介法の隠喩となっている。物語上の前提トリックではあるが、伏線の貼り方には力をいれている。三章に口論、新聞、番号、白い蠍、水族園、タトゥー。七章に衛生実習室。八章に懐中電灯。九章に新聞の書きこみ。すべて、暗号トリックを示している。細かい伏線をいれたら、数え切れない。この暗号の発覚から殺人事件の根幹へと導かれるというプロット構成である。

(G)特殊法


【第七】その他の特殊トリック


(A)ダイイングメッセージ

①被害者の意図が含まれている

②加害者の意図が含まれている

③その他の特殊な意図が含まれている

(B)筋書き殺人

①筋書き殺人

②見立て・童謡殺人

(C)動植物・その他の特色を利用作用

〔二十三章9計〕犯人は芦ヶ池のプランクトンを利用したようとした。池の水を使って、寺崎を溺殺すれば、のちに解剖されたとしても、芦ヶ池で溺死したと考えられるからだ。しかし、水槽には電解処理をした水が含まれていた。あとから判明し、犯人にとって、致命的な失敗となる。プランクトンは動植物の特色であり、電解水は化学の特色が作用している。時間が経った電解水を検出できるのかという問題は、専門家である犯人の行動と宇田川のスピーチによって、作品内の肯定をあらわした。

(D)遠隔操作および時限設置のトリック

①遠隔操作

〔十一章5軽〕宇田川はパソコン上のマウスの動きをプログラムすることで、その場で操作しているように見せかけた。シンプルな動作をマクロ記録すればいいだけなので、現実的には簡単ではあるが、ミステリーのトリックとして、説得するにはむずかしい。もっとVRが発展していけば、こういったプログラムトリックが日の目にあたるときが来るかもしれない。

②時限設置

(E)天候、季節その他の自然現象利用のトリック

①地盤振動を利用

②太陽を利用

③大気現象を利用

④海・河川を利用

(F)犯人(または被害者)の人間に関するトリック

①一人二役および複数役

(イ)犯人が被害者などに化ける

(ロ)犯人が第三者や架空の人物などに化ける

(ハ)第三者が被害者などに化ける

(ニ)第三者が犯人や架空の人物などに化ける

②一人二役の他の意外な犯人

③犯人などの自己抹殺(一人二役以外の)

〔十三章7軽〕メイントリックに据えることはできないが、個人的には好みのトリックである。戦後の推理小説に雰囲気がちかいからかもしれない。天井裏の指紋と四肢の指紋が一致したことで、藤堂は両者の成立する状況を考えた。犯人がみずからを死んだと見せかけるために、事件よりまえに身体を斬りはなし、各地に遺棄した。自己抹殺のトリックだ。犯人は欠損した状態で、三浦を殺害した。しかし、成海は、心理的既知、物理的既知の両方で自己抹殺を否定している。ばらばら死体の身長ならば、天井裏にはいることができるうえに、べつの場所で殺害したほうが簡単である。犯人が隻腕ならば、被害者の首を絞めることができない。心理、物理、両方の否定である。それでも、こういった自己抹殺がミステリー上、魅力的であることにはかわりない。

④異様な被害者および第三者・共犯者

〔八章1軽〕亜紀に木野という共犯者がいた場合、密室殺人は可能になる。三浦の死体を高い場所に吊りさげる。ドアをあけた拍子に、脚立が倒れて、ガラス窓が割れる。そのガラス窓の確認をしようと、亜紀がドアのうしろに回りこむ。ほかの同行者を死体の発見で、足止めしているあいだ、共犯者の木野を割れた窓から逃がすのである。亜紀が木野の目撃を黙っていれば、密室が完成する。比較的、整合性の高いトリックである。

(G)職業(または天質)利用の犯罪に関するトリック

①職業地位および立場を利用

②専門知識および技術を利用

(H)移動手段の錯覚系トリック

①距離の錯覚

②追うものと追われるもの


『リトリック』


【第八】異様な動機


(A)感情の犯罪

①復讐

〔十五章8軽〕流血の金魚祭りの被害者、大石に血縁者がいることを提示している。十六章で成海が述べているように、寺崎と三浦の両名が、五年まえに、大石を殺害した。二十三章、最終的に真犯人の動機として語られているが、この時点では、年齢や性別がわからず、すべての容疑者にあてはまる。

②恋愛

〔十五章9軽〕時系列的に、流血の金魚祭りは、もっとも古い事件となっている。寺崎が大石を殺害したという確証をえられる。殺害した動機は野心、優劣感、利己、のちに秘密保全が提示される。ただ、この章のなかで、大石の婚約者、早苗に恋心をもっていたというエピソードが語られている。恋愛必携という観点から、恋愛の分類を優先した。寺崎は五年まえ、恋敵の大石を始末した。この事件が前述の復讐に繋がったのである。

③優劣感

(B)利欲の犯罪

①遺産相続・金銭目的

②野心

③利己または利他

④秘密保全

〔二十三章11計〕犯人は寺崎の身体にのこっている電解水を調べられたくなかった。胃袋のはいったゴミ袋を処分したかった。十四章、棚のしたにあるゴミ袋に臓器がはいっていた。記者会見には身体の部位以外の話は出ていなかった。犯人は胃袋が発見されていないと判断し、白い蠍の構成員である犬飼を追った。廃工場を突きとめる。リーダーの桜井を殺害し、ゴミ袋を燃やしたのである。桜井を殺したことは復讐にもとれるが、スタートは秘密保全なので、こちらの分類がふさわしい。復讐は十五章から全体に跨がっているので、割愛した。

(C)異常心理の犯罪

①殺人狂

②変態心理

③遊戯のための犯罪

④犯罪のための犯罪

(D)信念の犯罪

①迷信および妄信

②啓発を含めた犯罪


『フラグアトゥルー』


【第九】決定的な証拠を提示する箇所


(A)前過去の手掛かり(読者への挑戦以前)

①言動および行為の盲点

〔二十三章1計〕六章の報告にて、開閉口の前後に、両手の痕跡がついていたことが判明する。室内から腕をのばしても、逆向きにはつけることができない。再三、言及されているが、これは逆に考えれば、べつの可能性にいたる。一章にばらばら死体が見つかっていることも、プロット上の手掛かりである。その理由はべつの場所に使うためだ。二十一章、成海は人間の骨格上、痕跡をのこすことはむずかしいことに言及しているが、これは骨格を離れたら、可能だという意味になる。〔二十三章2計〕現場は密室となっていた。二階から室外機の水が垂れていた。窓は割れていたが、目にすることはできない。成海たちのはいった時刻、外の監視カメラが飛び散るガラスの破片を捉えている。その監視カメラには、昼間、桐生の姿が映っており、多目的研究センターの敷地内に防虫ネットを張っていることがあきらかにされた。ガラスの破片、外の濡れた地面、密室内の水たまり、作中に三点の証拠が描かれているが、この三点には、共通点と矛盾点がある。

〔三答制Ⅰ〕監視カメラは五章の時点で、成海が目撃している。九章、桐生は昼間に防虫ネットを張り終えていた。二十一章、密室だった三浦の部屋の周囲を再確認し、窓、フェンス、茂み、照明ポールの位置関係を強調している。密室の構成的には、表向きには、二ルートの解決手段がある。天井裏を経由する場合、小柄な宇田川、加古、亜紀の三人が怪しくなり、ガラス窓や天井裏に作為があった場合、専門職の桐生が怪しくなる。容疑者のなかで、大柄かつ一介の研究員である秋田ひとりが安全圏にいる。ただし、秋田の場合、直上の二階にいたことが特色となっている。とくに、室外の濡れた地面、室内の水たまりは、秋田の部屋の室外機が起因になっているため、彼ならば、簡単に操作できる。なによりも矛盾が発生するのは、一階の窓から敷地外に、ガラスの破片が飛んでいることだ。防虫ネットの存在に気がつけば、この逆説にいたるはずだ。

〔二十三章6計〕クロマグロのぬいぐるみは、重要な伏線のひとつであり、細かく登場させている。二章、クロマグロのぬいぐるみを子どもがもっている。十二章、水族園にクロマグロのぬいぐるみは飾られている。これらは準伏線である。もっとおおきい伏線は氾濫だ。芦ヶ池は事件が起きるよりまえ、氾濫が起きていた。清掃員の桐生は、氾濫の原因を休憩室の外から報告している。七章には亜紀、八章には加古、十一章には宇田川、三人とも大木が原因だときいている。じっさいに、九章、桐生の使っている小屋には大木が積まれていた。大木の山は桐生の証言を裏付けている。ただし、大木はすべて、汚れており、思わぬものが紛れこんでいた。

〔三答制Ⅱ〕大木の言及と夜のアリバイの提示は重要である。七章、亜紀は大木、夜に帰宅、八章、加古は夜に緑川病院、大木の言及。九章、桐生は夜中には区外、小屋に大木。十章と十一章、宇田川は夜に自宅、大木を言及した。これらの伏線は、七章の亜紀の会話からはじまっている。芦ヶ池の氾濫を証言している。この氾濫は寺崎の死体が芦ヶ池に沈んでいたことを示している。桐生が休憩室で、事情を話しており、みながきいていた。のちに容疑者五人のうち、四人は大木が原因であったことを話し、ひとりは、べつのものを証言している。じっさいに、成海たちが発見した際、それは黒い藻でつつまれていた。桐生でさえ、大木だと勘違いしていたのだ。

〔六番3京〕このタイプの叙述トリックは、長編であればあるほど、効果が出る。ゆえに、叙述曲では弱さがあるのは否めない。ただ、後世の作品の参考になると思うので、説明を欠かすつもりはない。【第九】の分類、言動および行為の盲点は、矛盾と表裏を示している。この作品においては、表裏を示している。題名の「ユウタイホンヤク」、一番の「見ているだけ」は、隠された視点の伏線となっている。前者は種類、後者は年齢の示唆だ。視点者が存在しているならば、どうして、作中の騒動に対して、主体的に参加しないのか。その理由をあらわしている。

②その状況と似た前例

〔二十三章8計〕五章、水の抜かれた水槽が言及されている。サービス的な登場である。十七章、犯人視点で、寺崎が窒息死だったと独白している。窒息死は絞殺にはかぎらない。一連の殺人事件が起きるまえ、清掃員の桐生は、芦ヶ池に藻が大量発生していることを、水質環境研究所に相談している。池の水を施設内の水槽に運んでいた。これは水質環境研究所で分析していることをあらわしている。宇田川は十一章、スピーチ内で水槽内に手をいれていた。この手は寺崎の頭の比喩だ。同じ状況の前例であり、凶器を推理できる。

〔二十三章9計〕二十一章、シンポジウムの動画を再確認している。十一章と同じだが、あらためて、重要な手掛かりだと強調した。この宇田川のスピーチは前例となっている。水槽内には芦ヶ池の水がはいっている。電解水をいれているが、外見やにおいはかわらない。しかし、その成分は検出される。宇田川は水槽内に手をいれているが、この行動が寺崎の殺人と類似させるようにした。水の凶器と同義である。

〔二十三章10計〕カサイ袋の最愛の序章、小学三年生のころの思い出が前例となっている。成海の初恋の女性である工藤葵は水槽内の水を交換することにした。しかし、水道水が使えず、海水をいれた。つぎの日、成海はメダカの死体を発見する。海水のにおいが強かった。校門にはまちがいに気がついた葵が駆けつけようとしていた。成海は水槽を破壊し、メダカを埋めた。本作の事件は、この回想と同じ展開が起きている。海水を含んだメダカが奪われたという構図と言える。右腕の遺棄は序章の直後からはじまった。前章の思い出話と落差があるように書いているが、じつは序章と強くリンクしているのだ。

③不自然な言及

〔二十三章3計〕秋田のアリバイは作業量となっている。秋田は多目的研究センターの二階にて、試料の確認をしていた。午後二時から午後三時のあいだに、三浦を殺していた場合、秋田の終えていた作業量と合わなくなる。ただし、秋田と武部が話している内容に、打破できる手掛かりがあった。十章だ。彼は試料をダンボール郵送していたが、確認が終わったものは、みずからの車で研究所まで、とどけていた。武部は研究室に個人の部屋があることも話している。

〔二十三章4計〕三浦の死体はドアのまえ、天井裏から吊りさげられていた。天井裏は、べつの侵入口という赤いニシンになっている。天井裏の利用は、ただのミスリードだけはない。室内に脚立を置き、ガラス棚で支えるという行為の説得力になっている。聡明な読者はドアをあけたとき、脚立が窓へと倒れ、ガラス棚が割れたという描写に不自然さをおぼえるはずだ。この描写がある時点で、トリックが考えられる。

〔二十三章5計〕三章にて、亜紀がドアを強く押すことをフォローしている。これは本人の不器用さではなく、施設内の建付が悪いという意味であり、だれでも起きることを強調している。四章と五章、橋口亜紀が部屋にはいったとき、ガラスの割れる音がしている。ドアのうしろで、ガラス棚が倒れていた。ドアが脚立とガラス窓を押して、横倒しにしたのだ。作中に出てくる密室の構成要素には、ガラス窓が含まれている。室内には、不自然に、ガラス棚が倒れている。両者の共通点はガラスである。どちらも割れていた。そうなると、ひとつのトリックが思いつくはずだ。

〔二十三章7計〕読者への挑戦よりまえに、説明しているとおり、屋上のフェンスが壊れているのは、犯人の作為である。敷地内ではなく、芦ヶ池に落下している以上、犯人が突き落としたことがわかる。寺崎の腕時計は十二時半でとまっていた。犯人が腕時計を回収していない時点で、犯行時には、壊れていなかったことになり、落下時に壊れたことを示している。藤堂は昼間の十二時半だと考えたが、犯人の意図ではない以上、夜の十二時半が適当である。

〔六番1京〕三番にて、夫婦の子どもが「しゃがんだときに 落下した」という歌詞がある。普通に考えれば、ありえないことだが、叙述トリックの真相があるからこそ、納得できるものになっている。

〔6番二京〕日本語には、同じことばにもかかわらず、べつの意味をもつ形式語が多く存在している。叙述トリックをつくるときに、これほど助かるものはない。二番の「外堀を埋める」と「夫婦のラベル」もそうである。どちらも、恋愛関係の比喩として使われる。前者は恋人未満のふたりが周囲の働きによって、恋人へと導かれること、後者はまわりから夫婦だと思われていることを指している。仮面夫婦や同棲関係を婉曲的に示す際、用いられる。ただし、ユウタイホンヤクにおいては、どちらもミスリードである。じっさいには、前者の真相が「敷地内の外堀をととのえること」であり、後者の真相は「夫婦という紹介文」が看板に貼ってあることだ。

(B)今現在の手掛かり(読者への挑戦以降)

①犯人の誘因

②証言による補強

③新証拠

〔三答制Ⅲ〕二十一章、成海は科捜研からの報告書を受けとった。あたらしい証拠となっている。不束三探は三答制の三つ目の場合、とどめの演出として、こちらの項目を使っている。プラスアルファを加えるためだ。もちろん、従来どおり、前過去の手掛かりも含んでいる。犯人は寺崎を分解し、桜井を殺害したあと、ゴミ袋を燃やした。胃袋を処分したかったからであり、胃袋に残留している。それが盲点となっている。じっさい、胃袋はすでに警察が回収していた。その科捜研による分析結果が、最後の場面になって、成海の口から告げられる。


【第十】手掛かりから導き出せる解決方法


(A)真犯人への消去法

①犯行現場の行為故に可不可

〔三答制Ⅰ〕三章、三浦の部屋の真上に、水質環境研究所の研究員の部屋があることをきいている。五章、上下の部屋の位置関係。八章、桐生が防虫ネットをもっている写真と言及。十章、成海の目にした監視カメラ。どれも、犯行現場の数メートル範囲内に手掛かりがある。ガラスの破片や防虫ネットは犯行現場の外だが、内部への作為に関連するために、こちらに分類した。もっともわかりやすい伏線は五章と八章の比較だ。敷地外の監視カメラに、ガラスの破片が映っていた。しかし、その時刻は十九章で確認しているとおり、防虫ネットが張られている。外へと出るわけがない。唯一、可能な人物は、亜紀が脚立とガラス棚を倒したと同時に、窓ガラスの破片を上階から投げることのできた者だけである。容疑者のなかで、二階にいたのは、ひとりしかいない。

〔三答制Ⅲ〕序章の水槽。七章の氾濫後のシンポジウム。十章の武部と秋田の会話。十一章の電解水。十四章の胃袋などのはいったゴミ袋。十七章の証拠隠滅。十八章の科捜研への依頼。二十章によるメダカの前例。多くの伏線が三答制の三つ目を補強している。とくに、水槽の置かれていた場所は重要だ。水槽内の水が凶器である以上、犯人のいた場所を示すからだ。非常にシンプルな推理である。犯人は電解水のはいった池の水を使って、寺崎を溺殺している。犯行時刻は夜中の多目的研究センター内だ。七章で言及されているとおり、水槽は水質環境研究所の部屋に置いてあった。容疑者のなかで、夜中に確認されている人物は、ひとりしかいない。その人物は、水質環境研究所の研究員である。水槽内の水が使われているゆえに、犯人が限定されるのだ。

②犯行現場以外の行為故に可不可

〔三答制Ⅱ〕三章、多目的研究センターの二階にある備品室は、だれでもはいることができた。四章、死体移動の指摘は、犯行時刻が夜中であることをあらわしている。七章、氾濫が発覚し、犯人は代替をきめている。十章、容疑者のなかで、ひとりだけ、氾濫の原因を大木だと考えていない人物がいる。十一章、成海がフェンスの異常を指摘している。十八章、寺崎の腕時計が発見される。十二時三十分は昼ではなく、夜中である。十九章、芦ヶ池の余水吐の幅は一メートル、十九章で発見されるクロマグロのぬいぐるみと同じ幅だった。清掃員の桐生は、休憩室の外から氾濫の原因を説明しているが、五人の場所によって、不理解が生じてしまった。犯人だけが休憩室の離れた場所にいた。宇田川に話しかけていた。桐生の説明をききとれなかったのだ。その人物は氾濫の原因を備品だと話している。しかし、桐生は備品とは一言も述べていない。四人とも大木だと証言している。この証言によって、犯人が判明する。また、犯人は寺崎を夜十二時三十分に突き落としているが、容疑者のなかで、夜中に施設内にいたのは、秋田しかいない。最終的にクロマグロという自白を導いているので、犯人の誘因とも言えるが、三答制の二番目なので、割愛した。

(B)仕掛けへの類推解釈

①実際にある既知から類推解釈

〔二十三章5計〕四章、ガラスの割れる音、五章、現場の確認をしている。ミステリーのトリックは、シンプルなものほど好ましい。多くの者は、人生経験のなかで、一度は、ガラス製品の壊れる音をきいたことがあるはずだ。ガラス棚を割れる音とガラス窓の割れる音に、おおきな差異はない。ゆえに、これらの既知から、とあるトリックが思いつける。

〔二十三章9計〕序章、成海の回想シーンがある。水槽内の水が、知らないうちに、海水へとかえられていた。七章、芦ヶ池には藻が大量発生していた。十一章、水槽内に電解水が加えられていることを知る。衛生面を向上させる実験である。宇田川の突発的な行動であり、ほかの者は知らなかった。二十章、成海と葵が序章を回想している。こんかいの事件と構図が似ていることをあらわしている。このトリックはサスペンスドラマの常識を利用した仕掛けとも言える。サスペンスドラマの定番展開に、解剖による新証拠がある。溺死した場合、被害者の体内から植物の藻などが見つかる。この成分は場所によって、ことなる。どこで殺害されたのか、わかるというものだ。この前提を犯人が利用した。しかし、失敗したことで、致命的な手掛かりがのこってしまった。サスペンスドラマの定番から一歩、進んだ展開をとったものだ。作者がサスペンスドラマの定番である既知を利用したとも言える。

②作中の言及から類推解釈

〔二十三章1計〕一章に右腕の遺棄、三章に左脚の遺棄、四章に左腕の遺棄が起きている。五章と六章では、天井裏をとおり、密室内に侵入できることが判明した。十四章は、のこりの部位の発見だ。ゴミ袋には死体の部位がはいっていた。遺棄したのは白い蠍だが、分解したのは犯人である。伏線は多数あるが、基本的には、ふたつの情報を組み合わせることで、五指の痕跡がトリックであることを推理できる。ひとつは寺崎の身体が分解されていたこと。もうひとつは開閉口の前後にしか指紋が付着していないことだ。

〔二十三章2計〕五章、割れたガラス窓のあいだから水がはいっている。八章、監視カメラにガラスの破片が映っており、加古が桐生に防虫対策をたのんでいる。十章、秋田の部屋の冷房をつけると、外の地面に水が落ちる。十九章、問題の防虫ネットを成海がたしかめている。とくに、わかりやすい伏線は十九章である。桐生の張った防虫ネットの網の目はこまかく、ガラスの破片がとおらないことを確認している。そうなると、監視カメラの映像に対して、密室の状況があてはまらないことになる。ゆえに、犯人の作為だと推測できるのだ。外の濡れた地面、密室内の水たまり、ガラスの破片の三つは、部屋の直上にいた者だけしか実行できない。部屋の位置関係によって、犯人とトリックを推理できる。

〔二十三章3計〕十章、秋田と武部は試料の郵送について話している。秋田はみずからの車で本部へと向かい、郵送の手続きをしている。同章、部屋のダンボールに出荷の時刻が書かれており、当人がおくっている事実を補強している。秋田のアリバイは多目的研究センター内の作業量で成立している。完璧なアリバイだ。しかし、十章でわかるとおり、研究所から郵送しているのは秋田であることが示されている。本部には個室があった。秋田の姿は見られていない。ここから、ほかの方法が推理できる。彼は翌日にとどくように、はやめに研究所へと行っている。十分に時間の猶予があることが着目点だ。

〔二十三章7計〕四章、左脚にハエの卵が付着していた。野外に放置された可能性が高く、孵化していないゆえに、あとで熱湯で洗われたことがわかる。七章、事件のまえに、氾濫が起きていたことを知る。十一章、屋上のフェンスが壊れている。十八章、犯人が寺崎をべつの場所で殺害したあと、屋上から芦ヶ池に投下したことがわかる。十九章、寺崎の指紋がのこった缶ビールを発見する。あきらかな犯人の偽装工作であり、死体の移動を裏付けている。壊れた時計の十二時半は、安全に死体を運ぶことを考えれば、夜中のほうが自然だ。いままでの言及を考えれば、夜中のうちに、多目的研究センターの部屋から屋上へと運び、芦ヶ池に落としたという推理ができる。

〔二十三章8計〕七章、亜紀の話によって、桐生が芦ヶ池の水を水質環境研究所へと運び、水槽にいれていたことがわかる。十一章、シンポジウムの動画に、水槽が登場している。十八章、犯人は敷地内ではなく、芦ヶ池のなかに突き落としている。この行動は隠された凶器を意味している。十八章のくだりによって、犯人は寺崎が誤って芦ヶ池に落下し、事故死したと見せかけたかったことがわかる。つまり、落下死か溺死か、犯人はどちらかを死因に考えたはずである。成海は、屋上からとおくに投げている事実は、芦ヶ池にいれることが目的だったからだと説明している。ゆえに、寺崎の死因は溺死の可能性が高い。そうなると、べつの場所の現場で溺死させたという結論にいたる。それが、水槽の使用である。

③言及箇所の推理から類推解釈

〔二十三章4計〕五章、脚立と書棚がガラス窓のほうに倒れる場面がはいる。十章では、秋田の部屋が、事件の部屋の直上にあることを確認している。簡単にいえば、このふたつが密室を解きあかす主体伏線になっている。真実、犯人は自分自身の割った窓から脱出している。しかし、密室内の窓は、犯行時、割れていないことを示している。この後者の前提をくつがえせば、密室は崩れることになる。密室構成の前提は、室内の水たまり、室外の濡れた地面、破片の写真の三つである。

〔二十三章6計〕三章、備品室の存在が提示されている。十章、容疑者のなかで、ひとりだけ、氾濫の原因を備品だと答えている。十九章、芦ヶ池の氾濫の原因になったクロマグロのぬいぐるみを発見している。二十一章、多目的研究センターの備品室で、クロマグロのぬいぐるみを発見する。備品というワードとあからさまなイコールを描写している。とくにわかりやすいのは、やはり、十章だ。秋田は氾濫の原因を備品だと答えている。ほかの容疑者は大木だと答えていた。十九章、成海が大木の山を調べた際、黒く汚れたクロマグロのぬいぐるみを発見している。二十一章、備品室にはクロマグロのぬいぐるみのストックが置かれていた。ほかのトリックとの兼ね合いを考えれば、なんらかの目的で、このぬいぐるみが使われたことが推理できる。つまり、寺崎の死体とぬいぐるみの交換である。

〔二十三章10計〕序章、死んだメダカの体内には海水がはいっている前例が提示されている。七章、宇田川は水槽内に電解水をいれている。これで特徴が加わった。十一章、電解水を水槽内の水にいれても、見た目やにおいはかわらず、犯人は気がつけなかったことをあらわしている。メダカが海水に順応できるゆえに、気がつかなかった工藤葵と照応している。十四章、白い蠍のアジトで、ゴミ袋が発見される。ばらばら死体が部位ごとにはいっている。とくに重要なのは、臓器である。十七章、犯人は死体の部位がはいったゴミ袋を探し、燃やしている。臓器に対する証拠隠滅だ。十八章、成海は回収済みのゴミ袋を分析させている。記者会見で言及されなかった臓器のはいったゴミ袋の分析である。二十章、メダカは海水を飲みこんでいたが、死体はどうなのかという比較が行われる。こちらはカサイ袋の最愛のなかでも、主軸のトリックになるため、多めの伏線を張っている。犯人はとある秘密を守るために、寺崎の身体を分解した。序章の回想、シンポジウムのスピーチ、桜井への殺人を組み合わせることで、なにを隠そうとしたのか、わかるはずだ。メダカのはいった水槽から海水が発見されることを恐れた成海と同じ状況である。

〔六番一京〕一つ目の叙述トリック、人間と動物の誤認は、ユウタイホンヤクの根幹を成している。ゆえに、もっとも多くの主体伏線、四つを張っている。題名ユウタイホンヤクの意味、三番の蹴り、四番のお腹のした、五番の顔を出したぼく。どれも、とある動物の特性をあらわしている。直接的に人間ではないという言及をいれていないので、言及箇所から推理する必要はあるだろう。真相を知ったあとならば、わかりやすいのではないか。

〔六番2京〕ユウタイホンヤクの舞台は、多くの人が一度は、おとずれたことのある場所である。その真相を隠している。言及箇所から推理する必要はあるが、ワラビーよりは簡単だと思われる。とくにおおきな伏線は、二番の外堀が五番にて比喩ではなく、ほんとうに存在していること、子どもがその外堀に落ちていたという事実だろう。この穴は視点者たちが快適に暮らせるようにととのえられている。作中の言及をまとめれば、以下になる。①敷地内に外堀がある。②分けられるようなフェンスがある。③外に紹介文が置かれている。これらと種類の誤認を組み合わせれば、作中の舞台が動物園だと推理できる。カサイ袋の最愛で、動物園におとずれている点もヒントになる。


カテゴリー論およびミステリー類別の系譜における参考文献の明記

「弁論術、詩学、分析論など――アリストテレス」「三つの棺――ジョン・ディクスン・カー」「探偵小説の歴史と技巧――フランソワ・フォスカ」「探偵作家論――ヘンリー・ダグラス・トムソン」「続・幻影城――江戸川乱歩」

作品名および作者

「大尖塔――不束三探」


『スリーアクト』


【第十一】一章必殺の序幕プロット


(A)殺人の伝聞に関する展開

①未解決の殺人事件

②解決済みの殺人事件

③逸話上の殺人事件

(B)死体の発見に関する展開

①直接的な死体の発見

〔一章1形〕カサイ袋の最愛における一章必殺は、切断済みの右腕の発見である。右腕が風車から飛んでくるという幻想的な恐怖演出をとった。四肢連続遺棄事件のはじまりである。

②目撃者の通報に準ずる急転

③その他の殺人に関した目撃


【第十二】サスペンスリーダビリティ・スリルの中幕プロット


(A)想像喚起のホラー

①非日常・死体・殺人の見聞

〔四章9形〕三浦の死体を目撃した直後、藤堂が電話を終えて、もどってくる。まだ、目のまえの死体を見ていない藤堂の口から左腕の発見が伝えられる。教習所のちかくだった。つぎつぎと殺人事件が起きていく展開をつくりあげた。この左腕がどのように見つかったのかは、あとで語られる。

〔七章15形〕成海は行船公園のちかくにある交番をおとずれる。警察官に左腕が発見されたときの状況をきいた。教習所のちかく、神社のまえに立てかけられていたのだ。

〔七章17形〕五年まえ、行船公園で流血の金魚祭りが起きた。相川会と白い蠍のいざこざによって、一般市民が巻きこまれた。ここではじめて、死人が出たことをあきらかにしている。なお、当時の担当刑事は、藤堂のパートナーとなっている沼田であり、過去の事件との繋ぎ役を担っている。

〔十七章38形〕わたしのいままでの作品群のなかでは、珍しい手法、犯人視点による殺人場面である。犯人視点ゆえに、もっともちかくで見ることになる。不束三探サスペンスの特徴である。犯人は桜井を背後から刺殺している。物語上、成海の危惧した『未来』の事件であり、今作の『最後』の殺人事件である。

②名前在りの幻想

〔五章12形〕架空の犯人に対して、天井裏の散歩者という幻想的な名称をつけている。インパクトを強めことが目的だ。じっさいには、成海の言うとおり、散歩者の正体は透明である。誤認させるためのネーミングになっている。

③事件性の高い逸話

〔四章7形〕五年まえに流血の金魚祭りという事件が起きている。この時点では、まだ、だれが殺されたのかは提示していない。相川会と白い蠍の衝突があった。のちに発覚する連続殺人事件の動機となる。

④大きく逸脱した挿入場面

〔十七章37形〕不束三探サスペンスでは、テレビドラマの定型の展開をいれている。それは殺人事件の直前に、犯人視点となり、殺害の場面が挿入されることだ。前章、成海の否定をさらに否定するプロット構成により、サスペンス性を高めている。

⑤被害者たり得る孤立

⑥閉ざされた場所・危険な一帯

(B)直接展開のテラー

①異常な死体の目撃・移動直後に死体の発見

〔一章2形〕成海は一章にて、人間の右腕を発見している。ミステリーには定型プロットが数多く、存在しているが、そのうちの人気題材である『ばらばら殺人』がカサイ袋の最愛の主題である。四肢の四回とプラスアルファの臓器などが目撃される。長く素晴らしいミステリーの歴史のなかで、犯人が死体を分解した理由は様々だが、この作品では、きっちり路線の解決をとっている。

〔三章6形〕こんどは斬りとられた左脚を発見する。二つ目である。銅像の手のうえに置かれている。右手もそうだったが、基本的にミステリーのつかみとなる死体は、章内の末尾に登場させている。これは読者がつぎの章を読みたくなるような展開を担っているからだ。不束三探の作家努力のひとつである。

〔五章11形〕藤堂と成海が死体の状況をあらためて、指摘している。三浦は異様な死に方をしていた。首を一周している縄は、天井裏の梁にむすばれている。顔が天井へと突っこまれている。上衣を巻きこんでおり、顔が袋のようにつつまれている。主題のひとつである顔袋だ。

〔十四章25形〕成海は小松川インターチェンジのしたにて、右脚の遺棄される瞬間を目撃する。影になった右脚を描写することで、異常性を表現した。ホラー演出である。

〔十四章30形〕ほかの部位、すべての発見になる。頭部、胴体、臀部が縦にならんでいる。インパクトのあるホラー演出である。ただ、ミステリーとしては、そのしたに置かれたゴミ袋のほうが重要となっている。意図的に、ホラー面を濃く、ミステリー面を薄く描写した。

〔十八章40形〕前日の廃工場と同じ所有者を調べて、べつの廃工場へと到着する。成海たちの到着よりさきに火事が起きていた。成海はガレージの隙間をぞきこみ、桜井の足を見つける。

②連続殺人・連続死体

〔四章8形〕三浦の死体を発見する。一章では葛西駅の右腕、三章では銅像の左脚、どちらも死体を意味している。その目撃につぐ二つ目の事件のために、連続死体となる。

〔七章16形〕左腕の発見である。三つ目の部位となっている。四章に藤堂から伝えられているが、その時点では三浦が殺害された事件が優先されている。七章にて、左腕の遺棄についての詳細が語られる。

〔七章18形〕被害者は緑川大学の学生だったとあかされる。背中から刺殺されていた。この緑川大学は多目的研究センター、イノベーション室を抱えている大学である。カサイ袋の最愛では、物語が進むごとに、流血の金魚祭りとの関係性がふかまるという展開をとっている。

〔十四章26形〕作中の捜査本部にて、このばらばら死体は四肢連続遺棄事件と命名されている。この名前のとおり、右腕、左脚、左腕、右脚は、ひとつずつ回収させている。右脚は四肢の最後の回収である。

〔十四章31形〕ひとりの死体がばらばらとされ、連続的な部位の発見がつづいたが、死人としては、これでひとつとなる。寺崎恭吾の死体である。同一犯による殺人事件の時系列的には、もっとも最初となる。

③証拠隠滅および参考人・仲間への殺人

〔四章10形〕白い蠍の話をきくまえに、三浦は殺された。殺人事件にかんする重要な情報を知っている人物があと一歩というところで、殺害される。こういった展開は、ミステリーの定型となっている。

〔十八章41形〕同一犯による三人目の殺人、身体換算の死体としては、四人目の死体となる。全体の70パーセントほどの場面である。最後の事件としては、ちょうどいい位置かと思われる。桜井の死体は、燃える廃工場から運び出される。

④登場人物の暴走および変貌

⑤口論・喧嘩・破損

〔二章4形〕不束三探の作品群は、エラリー・クイーンとならんで、横溝正史の作品の影響がおおきい。横溝作品といえば、地方の風習や凄惨な事件の導入がクローズアップされがちだが、個人的には登場人物同士の口論にプロットの妙があると考えている。遺産相続、一族団らん、遺言書、隠し子……。いざこざのシーンは複数あるが、その騒動のなかに、疑問、否定、新事実、仮説が含まれている場合が多く、その割合が多いほど読みやすかった。このミステリー論が正しいかどうかはわからない。ただ、この作品では、その口論をはやめに挿入している。自分にとって、横溝正史氏をリスペクトした展開である。

〔六章14形〕そば屋の女将と客が言い争いをしている。この口論から流血の金魚祭りにて、盗みの被害が多額に出ており、いまだ、未回収であることを知る。十九章で犬飼が捕まるが、その際、このお金が回収されることが言及されている。こういったバックグラウンドの伏線回収も重要である。

⑥異性間の問題

(C)未確認のサプライズ

①スパイ・内通者

〔十二章22形〕寺崎と三浦は白い蠍の一員だった。多目的研究センターの研究員という立場でありながら、白い蠍のために盗みを働いていた。内通者である。

②誤逮捕・誤取調・誤情報

③脅迫・操りの発覚

〔十六章36形〕白い蠍の逮捕によって、五年まえの事件があきらかにされる。寺崎と三浦は殺人に関与し、脅迫されていたことが推理される。寺崎は学生のころ、補導された経験があった。違法薬物を買った疑いがあり、こちらも白い蠍による脅迫へと繋がっている。

④意外な人物の意外な登場

⑤その他の意外な事実

〔十三章23形〕ばらばら死体の正体は、一章から十三章まで未確認のままだったが、十三章の終わりにて、ようやく、その正体がただの第三者ではなく、容疑者のひとりだったことをあかしている。おおきなサプライズだ。天井裏の指紋がばらばら死体と一致する言及は、ホラー演出を意識した。事実上、三浦を殺した犯人が、ばらばら死体であることを示してしまい、現実離れするからだ。五章に使った「透明な散歩者」を修辞技法の複数隠喩を用いて、回収している。藤堂は十三章の冒頭で、死体が犯人になることは、ありえないと言っているが、この激高は、そのまま、メイントリックへの指摘になる。あらゆる点で、サスペンスリーダビリティ以上の意味をもつ場面である。


【第十三】サスペンスリーダビリティ・アクションの中幕プロット


(A)プレアクション

①発見劇

〔十二章20形〕重要な手掛かり、暗号の書かれた新聞を発見するまでの試行錯誤を示している。水族園を地下へとくだる描写をいれて、一度、成海を諦めさせたあとに、ふたたび、立ちあがらせている。衛生実習室からはじまり、ダンプ車にて、新聞を発見している。

〔十四章24形〕十三章を切っ掛けに、ばらばら死体が遺棄される場所を突きとめる。十四章、成海はホテルからタクシーにのり、小松川インターチェンジに向かった。高架下で、右脚を発見する。ここから、あたらしいサスペンスシーンのはじまりとなる。広い範囲でいえば、廃工場で、ほかの部位が見つかるまでの長い発見劇とも言える。

②突入劇

〔十四章29形〕安藤のヴェルファイアは廃工場へとはいった。成海と藤堂は、刑事たちといっしょに、廃工場のガレージ側へと突入する。斬りとられた頭部、胴体、臀部が置かれているという衝撃的な目撃へと繋がる。

③追跡劇

〔十四章28形〕追跡そのものは、成海が安藤を走って追いかけるところからはじまっている。隠密とまではいかないが、アジトを突きとめるために、隠れた追跡とかわる。スカイラインによる追跡だ。成海たちはサイレンを鳴らさずに、一般車に混ざって、追うことにした。この決断は隠し缶蹴りに起因する。この作戦が成功する類推解釈を、四章にいれた。事実上、サスペンスにおける伏線回収である。

④脱出劇

⑤逃走劇

(B)セントラルアクション

①格闘戦

〔十四章33形〕トイレにいた桜井と遭遇する。成海のうしろに逃げ場はなかった。桜井と格闘戦になる。二章の竜頭蛇尾の言及、同章の回想によって、成海の勝利に説得力を与えている。サスペンスの伏線回収である。もっといえば、探偵助手犯人の三すくみによって、成海が悪側に負けることはない。

②射撃戦

③隠密戦

④走行戦

〔十四章27形〕安藤はヴェルファイアにのりこんだ。比較的、車体のおおきいバンだ。車同士の走行戦に繋がる。ヴェルファイアは江戸川区を一周した挙げ句、パトカーを大破させている。

⑤心理戦

(C)ダイアクション

①クリフハンガー・ハードボイルド

②大爆発・崩壊劇・屋体崩し

〔十八章39形〕廃工場が火事となっている。事務室のほうは半壊している。まだ、火のとどいていない場所に、成海と藤堂がはいり、桜井の死体を出そうとしている。白煙がとどき、成海たちを急かしている。こういったカウントダウンの屋体崩しは、自分の好みである。

③感染・汚染・伝染

④阿鼻叫喚・死屍累々


【第十四】サスペンスリーダビリティ・ドラマの中幕プロット


(A)クライム

①誘拐劇・人質救出

②犯罪集団の悪事・対峙

〔十四章32形〕藤堂を含む刑事たちと成海がわかれる。藤堂たちは白い蠍の捕縛を強行していた。いっぽうで、成海は白い蠍のリーダー桜井と対峙してしまった。同時に戦闘がはじまる。遠方の集団戦と手前の個人戦を、対極に置いている。

③詐欺・窃盗などの犯罪全般

〔十二章21形〕新聞にブラックライトを照らすことで、白い蠍の指示が判明する。物品や金銭などをゴミ袋にいれて、盗み出すことが書かれてあった。

④消滅時効・法廷関係など

(B)アドベンチャー

①未知・有事・旅情の冒険

〔二章3形〕不束三探サスペンスのシリーズは、東京観光をおおきなテーマとしている。カサイ袋の最愛は江戸川区を広くカバーしている。葛西臨海公園をパークトレインでまわっている。公園内の施設が注目されがちだが、風景を楽しむというのも重要な要素である。

〔三章5形〕三日間のうち、殺人事件の捜査と各地の観光が跨がっている。一日目は二章の葛西臨海公園、三章の総合レクリエーション公園のふたつが中心となっている。成海と葵は総合レクリエーション公園、フラワーガーデン、富士公園、なぎさ公園、なぎさポニーランド、左近川親水緑道へと歩いている。その緑道の出口で、四肢の一部が発見される。ミステリーパートへと移行させた。緩から急の展開である。

〔六章13形〕旅情の冒険は、不束作品のなかでは、緩急の緩の役割を果たしている。成海と葵は行船公園、自然動物園、平成庭園をまわった。二日目の観光取材だ。行船公園は流血の金魚祭りと左腕の遺棄が起きた場所でもある。成海は観光取材を終えたあと、交番による。ききこみをしている。自然な形で、ミステリーパートへと移行させた。

〔十五章34形〕二日目の観光取材である。地下鉄博物館、ボートレース江戸川、小岩菖蒲園とまわっている。成海と葵の恋愛感情の進展が見られるが、同時に、葵のトラウマを浮上させている。不束三探サスペンスでは特定の観光エリア以外に、東京全体のランドマークをかならず、登場させている。東京駅はそのひとつである。

〔二十章42形〕三日目の夜の観光取材となっている。船堀タワー、江戸川花火大会、大観覧車の順番にまわる。とくに、大観覧車の場面は、クライマックスだ。ミステリーと恋愛、両方の伏線を大回収している。示唆急文の二十回目である。

②時間制限・タイムリミット

〔十二章19形〕成海は多目的研究センターから水族園へと急いでいる。暗号の書かれた新聞が収集されることを恐れたからだ。じっさい、すでにゴミ収集車に積まれている段階であり、間一髪、間に合っている。

③同時進行・リアルタイム

④動機・追憶の捜査

〔十五章35形〕大石の婚約者である早苗と東京駅で会っている。三人が殺害された動機にかかわる。五年まえ、流血の金魚祭りに巻きこまれた大石には、ひとり、血縁者がいた。この人物がのちの犯人となる。

⑤遺言書・隠し物の在処

(C)バイオレンス

①犯行声明・劇場型犯罪

②デスゲーム

③無差別殺人およびテロ事件


【第十五】落ち生まれ結びの終幕プロット


(A)最終主題の落ち

①前半の落ち

(イ)出落ち

(ロ)拍子落ち

②後半の落ち

(イ)後日談落ち

〔二十四章43形〕二十四章は殺人事件が解決してから、二ヶ月後になる。有明単探社のある国際展示場の駅周辺が舞台となる。殺人事件と恋愛、どちらに対しても、後日談となっている。裏設定として、幕間がさらなる後日談というニュアンスを含んでいるが、本編としては、こちらが後日談である。

(ロ)捌け落ち

〔六番1景〕六番の最初、ゆかりとたきが、人間ではなく、ワラビーであることをあかした。六番には、合わせて、三つの落ちがある。視点者がいること。ワラビーたちの子どもであること。ユウタイホンヤクの舞台が動物園のなかであること。この三つである。

(B)最終展開の生まれ

①人間性

(イ)恋愛の進展

〔二十四章45形〕成海が告白して、葵が受けいれる。最後の場面になって、ふたりは同級生ではなく、恋人同士になる。人間関係における、おおきな変化を描写した。

(ロ)愛情の確認

〔六番2景〕たきとゆかりは、ワラビーの夫婦である。四番五番で、仲違いしていたが、観光客からゆかりを守ろうとしたことで、六番にて、仲直りしている。たきとゆかりの愛情の確認となる。ここの「かわいいワラビーね」は本編とリンクしたシーンである。

②文学性

(イ)登場人物の成長

〔二十四章44形〕青色は進む。このフレーズは作中にて、複数回、反復している。二十四章は最後のパートである。このレトリックの完成が葵の成長をあらわしている。つまり、引っ込み思案の解消だ。この成長によって、最後の告白を決断できるようになったというプロットラインになっている。

(ロ)社会性の変化

(C)最終段落の結び

①修辞技法の利用

(イ)比喩結び

(ロ)レトリック結び

②物語の利用

(イ)考え結び

(ロ)逆さ結び

〔二十四章46形〕序章は黒板の目撃で、終わっている。この意味深なカットを後日談にて回収している。序章の時点で、葵のほうが明確な恋心をもっていたのだ。この真相が逆さ結びとなっている。彼女は小学三年生の時点で、告白へと繋がる行動をとろうとしていた。最初の場面は成海の片思いだった。しかし、最後に場面になって、葵のほうが成海を強く好いており、両思いだったことがわかる。葵からの告白という逆向きの変化でむすんだ。典型的な恋愛の成就だが、その考えられることばのなかで、もっともシンプルなものを選んだ。『アイラブユー』だ。476回の炎は、最後に結実し、この一行を巡り合わせたという構図である。

③登場人物の利用

(イ)仕草・行動結び

(ロ)台詞・題名結び

〔六番3景〕二番と四番でワナビーワナビーをくりかえしている。この歌詞は、最後の変更のためにリフレインさせている。六番では、最後のことばをかえて、ワナビー『ワラビー』にしている。ワナビーには、「……になりたい」という意味がある。このリフレインは、子どもの台詞である。つまり、子どものワラビーが大人のワラビーになりたい。作品内に登場したいという意味合いをあらわしている。視点の叙述トリックにならざるをえなかった、その子ども側からの言及をむすびに選んだ。


『リーダビリティレトリック/不束式レトリック』


【第十六】受動―能動に関するレトリック


(A)列挙法

〔二章6型〕成海と葵は、バスにのった。死体の発見により、ほんらいの予定に、おくれが出ていた。成海はセントラルのチェックリストを見た。葛西臨海公園に到着すると書かれていた。十分ほどで、目的地が見えてきた。「おおきな公園だね」「ええ。海面を埋め立てた公園で、都内でも有数の大規模公園なの」葵はあかるく、振る舞った。「敷地内には水族園、鳥類園、観覧車、広場、レストラン、展望台がある。丸一日、遊びとおせる一大観光施設になっているのよ」「それは楽しみだね」成海は表側のチェックリストを×で消した。ようやく、観光本の取材がはじまったのだ。成海たちが三日間、泊まるホテルも公園内にあった。成海たちの本拠地である。

〔四章8型〕藤堂は左脚に視線を向けた。「せめて、犯行のあった時刻、殺された場所、被害者の特定ができれば、捜査方針もきまるのだが……」成海も身体を横に向けた。藤堂と同じように両目を細めた。女性の銅像、しぼんだ左脚、骨の断面、黒ずんだ肌、徐々に下腿部へと焦点が移っていった。そのとき、成海の足が勝手にまえに進んだ。一気に目を見開いた。

〔四章10型〕成海もあとを追うつもりで、ひらいているドアのさきを二歩、進んだ。しかし、ドアの裏側に、向かうことはできなかった。成海の息が一瞬、とまった。「な、なに……」成海は空中の異変にふれてしまった。目のまえをサンドバックのようにゆれている。左から右へ。右から左へ。おおきな、てるてる坊主がゆれはじめた。実験用の白衣、首元の縄、引きずりこまれた襟、異変の正体が視界にはいった。急速に、戦慄がのたうちまわった。成海の思考は固まり、四肢は総毛立ち、身体は混乱している。血液が驚きのあまり、沸騰しているようだった。はげしい動悸は成海の肺を圧迫した。あらあらしく、息を吐きつづけた。

〔九章15型〕桐生は清掃用の作業服を着ていた。成海は頭のさきから足下まで、じっくりと見つめた。白髪交じりの黒髪、無精髭、灰色のブルゾン、カーゴパンツ、泥だらけの安全靴。身長は177センチといったところだ。成海と背の高さはかわらないが、肩幅はずっと広かった。中肉中背だ。

〔十章17型〕エアコンのリモコンを押した。二十度に設定されていた。秋田は暑がりのようだ。カーテンといっしょに窓をあけた。正面には照明ポールが見えている。フェンス、木々、地面、順番に見おろしていった。外壁には、室外機がついている。一分もしないうちに、真下に水滴がこぼれはじめた。ドレンホースから漏れている。室内と室外のあいだに温度差があると、水滴が発生する。余分な水は、配水管に流れるように設置されているが、ホースの接合部分がゆるいと、その隙間から垂れるのである。水滴は殺害現場の窓ガラスへと向かっていた。殺害現場と同じ状況になった。成海は、窓とカーテンをしめた。

〔十一章21型〕成海は教えてもらったとおり、両脇にあるドアのひとつをあけた。眼前に立派な大ホールが広がっていた。プロセニアム・アーチだ。客席と舞台のあいだに段差がある。赤いカーペット、足掛け台のついた座席、行きとどいた空調、巨大な映写スクリーン、どれも、シンポジウムを開催するのにふさわしいホールだった。成海はステージ階段をのぼり、舞台袖へとはいった。プロジェクター、ホワイトボード、水槽、ダンボール、台車、撮影カメラがならべられていた。きのうのシンポジウムの名残だ。なにもふれないようにとおり抜けた。

〔十四章31型〕「……だれか、いる」うごめく影は、踊っているようだった。両手をあげては、さげている。土台を確認しているようだ。フードのなかに手をいれた。ビニール袋をとり出した。慎重に破っている。つかんだ。高くかかげられた。長細い。ビニール袋の中身だ。はしごの踏み場に置いていた。電灯との距離もあって、その禍々しい影は、側壁におおきく映し出されている。くの字の折れ線、骨の飛び出した断面、くぼんだ膝頭、五本の指、思わず、口元に手をあてた。「……右脚だ」フードをかぶった男の両手から右脚が離れる。はしごをおりる。地面に着地した。

〔十五章36型〕成海の期待がふくらんだ。胸を躍らせて、エレベーターにのった。ガイドの案内を受けるのは、成海と葵のふたりだけのようだ。ていねいな案内のもと、三階の隠し扉のような入り口をとおった。いっそう、昭和時代の雰囲気にかわった。展示物が一昔まえの時代にそろえられているからだろう。「懐かしい」葵はそうそうに、尻尾をふった。「おばあちゃんの家のちかくに、のこっていた。これも、あれも!」「ほんとうだ。薬局や駄菓子屋に置いてあった。見たことないものもあるけど、懐かしいと思っちゃうな」ガイドの説明に耳をかたむけながら、順々に視線を投げた。等身大キャラクター人形、古き良き商品看板、妖怪たちの息づく木版画、折り紙による龍神、写真を絵の具にした絵画。普通の美術館には、なかなか見ることのできない、工芸品が鎮座していた。肝胆による感嘆だ。成海の期待を完全にうわまわっていた。

〔十五章37型〕ふたりはベンチにすわった。電車の通過、蝉の声、川のせせらぎ、すべての音が、成海と葵だけの世界をつくっていた。静かな時間だった。なによりも、お互いの吐息が心地よかった。耽美な時間はあっというまである。隣接した駐車場から、ききおぼえのある声がとどいた。藤堂だ。「時間みたいだ」セントラルスケジュールのリストを消した。江戸川区の観光取材は、夜の船堀タワーだけになった。「工藤さんはどうする?」成海は立ちあがった。

〔十七章40型〕殺意は伝播していた。犯人の身体のなかを伝播していた。――この手で、寺崎と三浦を殺した。ふたりの窒息死の感触を、犯人は忘れていなかった。斬り刻んだ頭部、胸部、臀部……。すべて、目に焼きついていた。絞め殺した頸部、嗚咽、痙攣……。なにもかも、耳にのこっていた。――恐ろしかったのは、最初だけだ。――人間は、簡単に殺害できる。――ひとりを殺害すれば、何人、殺害してもかわらない。殺意は全身に広がるものだ。一度、血の味をおぼえてしまえば、両手両足がさきに動いた。理性が効かなくなるのだ。

〔二十一章50型〕ふたりは二階へとおりた。宿泊客が休むことのできる空間が広がっていた。「ラウンジみたいだね」大浴場の手前だ。広いスペースの中央に、ソファー席、テーブル席、ベンチ席、一人席が置かれていた。廊下側には、水、お茶、ジュース、ビールの自販機が兄弟のように立っていた。成海は大浴場の案内看板を辿った。男湯と女湯の暖簾を見つけた。青色と赤色の分かれ道だ。古くは清潔を保つためだったが、現在の浴場は、まったく、べつの世界へとはいるアミューズメントになっている。もっとも、胸の高鳴る瞬間でもある。ちまたで、スーパー銭湯がふえているのも納得だ。戸口に手をかけた。ゆっくりとあけた。

(B)列叙法

〔一章5型〕共通の話題は尽きなかった。五年生のころの話だ。べつのクラスだったが、見ていたものは同じだった。成海は楽しくなってきた。成海の思い出は、少しずつ、白黒から桃色に色づけられていた。「あれ……。でも。魚には見えない」しかし、葵のことばと同時に、成海の考えがかわる。ペンキが倒れたのだ。一瞬で、白黒にもどった。成海の目は鋭くなっていた。口角はさがっていた。全身は総毛立っていた。背筋が凍っていた。息を呑んだ。成海は彼女にさがるように合図をおくった。「魚じゃない。これは……斬りとられた……」片膝を立てる。「男性の右腕だ……」成海の思考は、一気に、赤色に染まりきった。

〔十一章20型〕「まるで、難攻不落の城だな」一目、見た藤堂がぼやいた。たしかに、成海も城壁にちかい印象をおぼえた。外廊下の床にはすべて、ホワイトバーチのタイルが張られていた。足を踏みこむたびに、小気味よい音が鳴り、異国にいる気分になった。玄関口はカバードポーチのように、長細い屋根におおわれていた。目を凝らすと、四隅の柱には、展示ホールの名称と施工日が刻印されていた。完成日は三年まえだった。建てられてから日があさかった。白いモルタルの壁に、傷ひとつないことも、うなずけた。展示ホールの全高は、多目的研究センターとかわらなかったが、その印象は、まるでことなっていた。屋上がない分、軒がのびているからだ。菱形の大屋根は、太陽を完全に隠していた。見る者に、圧迫感を与えていた。一階部分には窓ひとつなく、点在する配水管も相まって、狭間のある石垣に見えた。やはり、城塞のようだ。ただし、攻めいるための城ではなく、抜け出すための城だ。藤堂の気がめいるのもとうぜんだった。この時点で、宇田川が気軽に出ることが、むずかしいとわかったからだ。

〔十四章30型〕「葛西臨海公園駅まで行けば、タクシーがとまっているはずだ」右手の肩掛け鞄をかかげた。肩にかけた。左手の携帯電話と財布を両ポケットにいれた。自由になった両手をふって、廊下を走った。エレベーターは一階で、とまっていた。ボタンを押した。ここは三階だ。「階段のほうがはやい」成海は落ちるように、段差をくだっていった。窓ガラスの外は、暗闇につつまれていた。ひとつ、またひとつと、文明の光が消えはじめていた。カウントダウンのようだった。成海の気持ちをいっそう、逸らせた。階段をときに踏み外しながら、一階に着いた。着地と同時に、うしろのエレベーターのひらく音がした。エントランスのアトリウム広場を進めば、外への出入り口だ。爪先に力がはいった。しかし、ロビーを駆け抜けるまえに、成海の服がつかまれた。足をとめた。ふり向いた。勢いそのままに、女性が成海の胸に飛びこんできた。成海の鼻先は、彼女の頭頂部に埋もれた。アルガンオイルとセサミオイルの配合された、ホテル用シャンプーのにおいが鼻孔をくすぐった。瑞々しい黒髪は、放射状に舞いあがり、一本一本が、波打っていた。あまりの美しさに、成海の息はとまった。羽化したばかりの蝶々のような羽ばたきだった。成海は思わず、右手で、後ろ髪をうなじへと押しつけた。柔らかくて、細い首だ。人差し指の爪跡が心配になるほど、青白い肌に食いこんだ。成海の力が加わり、女性の身体が流れた。このままでは転倒すると思い、左手を脇のしたにいれた。くびれた腰を五指でつかみ、ようやく、動きがとまった。きのうの夜にも抱きとめた。成海の知っている身体付きだった。「……工藤さん?」成海の両手に支えられ、工藤葵は顔をあげた。成海を心配して、追いかけてきたようだ。

〔十六章39型〕「だれでも、午後には、現在の状況を知ることができた」成海は、どこか、引っかかりをおぼえていた。胸中に、言い知れない不安が生まれていた。自然と呼吸はあらくなった。「一般市民にも、遺体の遺棄と警察の回収は、周知の事実になった。犯人にも同じことが言える。自分の捨てたゴミ袋をひろった者がいたことを、いま、はじめて、知ったはずだ」そもそも、なぜ、犯人は寺崎の身体を、ばらばらにしたのか。あたりまえの前提が、埋められていなかった。隙間を認識しても、正体はつかめていなかった。成海の不安は恐怖となって、胸中を圧迫していた。はげしい焦りは、青ざめた顔色にあらわれていた。「記者会見のなかで、意図的に言及を避けた話題は多かった。捜査上の機密が含まれている。とうぜんだ」署長は、四肢を遺棄した犯人と寺崎を殺害した犯人は、べつだと明言しなかった。まだ、真犯人が捕まっていないと伝われば、市民に混乱を招いてしまうからだ。「ほかにも、署長の伝えていないことで、ぼくらの知っていることがあった。それが引っかかっているんだ。いった、なにがあった?」……考えろ。巡らせるんだ。もっと、ならび立てるんだ。一瞬、息がとまった。思いあたった。「そうだ! ゴミ袋だ。内容物の一部が省かれているんだ!」膝を打った。

〔十八章43型〕「なんということだ!」藤堂は天をあおいだ。あたらしい証拠品が見つかったにもかかわらず、よろこびはない。悲壮な面持ちで、夕闇を見ていた。頭上のそらは赤く、流れる雲は暗かった。藤堂の内面と同じだ。藤堂には、連日の捜査の疲れもあった。疑問の声は、正直だった。「壊れた腕時計は、寺崎の転落をあらわしている」距離と状況から、事故ではなく、他殺ということだ。「だが、われわれの知っている寺崎は、五体満足ではなかった。ばらばらに分解されていた」この事件において、共犯の可能性はない。同一犯、ひとりの犯行である。べつの人物が殺害し、それを目撃したべつの人物が勝手に処分する。そういった罪の肩代わりは、ありえない。ゆえに、藤堂は混乱していた。「いったい、どういうことだ。屋上から突き落としたのならば、なぜ、あとになって、回収したんだ。どうして、斬り刻んだ? ……意味がわからない」藤堂は、ますます、ふかまっていく謎に、苦しんでいた。終わりのない捜査を感じていたのだ。連続遺棄事件は、記者会見によって、広く報じられた。すべての市民に知られることになった。区内には、恐怖が渦巻いていた。迅速な解決が求められていた。その刑事の責任は、成海の想像を絶するほど、おもいのだ。みずからの身体を支えられないほどである。藤堂の黒い靴は、泥濘みに、ふかく囚われていた。土のうえは乾いていない。周囲に池の水が染みこんでいた。まるで、沼である。ずぶり、ずぶり……。藤堂の身体は、おおきな疑問といっしょに、地の底へと沈んでいくのだった。

〔二十章46型〕千輪が終わったのち、十五秒間、静寂につつまれた。意図的に、花火がとまったのだ。突然、断続的な音がとまり、注目が集まった。アクシデントかと心配になった。しかし、これも誘いだった。視線を集中させた瞬間、一気呵成に、光線が走り出したのだ。「おお! スターマインだ。連続花火がはじまった」「いまは夜の七時四十分だから……」「ああ。半分の時間まで来た。もう一度、盛りあげるつもりなんだ」圧巻のスターマインだった。花火の音に釣られて、成海の心臓の鼓動音もはやくなっていた。早鐘を打った。月や星は、もう見えなくなっていた。四層の花火によって、夜空のすべてが占拠されていたのだ。成海は、真下から真上まで、じっくりと見た。花火の最下層には蝶々の型物が広がり、中段には七色の先輪と五連続の牡丹があった。最上層には、四尺の大菊が、ほかの花火を食べ尽くすように炸裂していた。最高潮である。展望室には、歓声が響きわたった。これぞ、歴史のある花火大会だと実感した。

〔二十三章55型〕成海は口をとざした。だれも動かない。なにも話さない。無音だ。しかし、果てしない轟音が全員の耳に鳴り響いていた。犯人だと名指しされる重圧は、みなの身体の自由を奪っていた。殺人鬼への戦慄は、喉を絞めていた。幾層に切迫した空気は、等しく幻聴を引き起こしていた。いまか、いまかと、呼気の解放を待っている。成海は左腕にセントラルをもっていた。いつのまにか、右腕をふりあげている。すぐに加速した。たった十秒の沈黙だった。許可が出る。成海の鋭い声は、陰鬱な空気を切り裂き、ひとりの顔を指した。

〔二十四章57型〕連続殺人事件を解決してから、ひとつの季節がかわっていた。有明の風はときおり、冬の白色を纏っていた。直射日光は弱かった。セミの声はしなかった。テニスの森公園に緑葉はなかった。風が吹くたびに、成海の身体はふるえた。寒かった。鳥肌が立っていた。上着のボタンをとめた。頭上には、赤トンボの群れが飛んでいた。ケヤキの葉は、赤みがかっていた。秋だ。もう十月だった。


【第十七】同語―照応に関するレトリック


(A)反復法

〔十四章32型〕いまは懐中電灯しか、光源はない。とおくから、目視はむずかしい。じっくりと確認しなければならない。刑事たちはお互いに合図をおくる。ちかづいた。懐中電灯をもつ手に力がはいった。床の一点に集中させる。ゆれる。あがった。薄茶色の肌に、股関節を思わせるくぼみがふたつ、沈んでいる。――臀部だ。腰回りと付け根が切断されていた。両脚に接合する骨頭と大転子だけがのこっている。お尻を戸棚にのせていた。すわりこんでいた。成海の頬に、恐怖のにじんだ冷や汗が浮かぶ。また、ゆれる。また、あがった。赤茶色の肌に、肋骨の横線が刻まれている。――胴体だ。頸部と腰回りが切断されていた。臓器と血液が抜けている。両胸に死斑が転々とのこっていた。裸体なのに、まだら模様の洋服を着ているようだった。背中を壁につけて、脊椎を垂らしていた。成海の首筋を大粒の恐怖が落ちていった。もう、とまらない。ゆれつづけた。あがりつづけた。焦茶色の肌に、目と鼻と口がくっついていた。――頭部だ。喉仏が切断されていた。穏やかな表情だ。微笑んでいる。幸せそう顔で、転た寝していた。戸棚は彼にとっては、ベッドのようだった。しかし、顔だけしかない。首よりしたは、隔たりがあった。この差異が全身に怖気を走らせるのだ。成海の汗水は、とうとう、身体から離れた。落ちていった。床に衝突した。恐怖が四方に弾け飛んだ。声にもならない声が空気をふるわしていた。懐中電灯の光は、複数の円を描いている。全員、動転していた。声を出さずとも、手のふるえが、光源に伝わっている。まるでヘイロウだ。最大級のゆれを引き起こしていた。全身にもかかわらず、全身ではない姿が照らされている。「……まるで達磨だ」

〔二十一章53型〕制服警官は立ちどまる。出入り口の警備をまかされているようだ。彼らは仕事の一部かのように、渋面を保ちつづけていた。この事件の関係者八人は、藤堂につれられ、四方にわかれた。だれもかれもが苦しそうに、呼吸をしていた。刑事と顔を合わせないように、顔をさげていた。加古ですら、目立った動きをとろうとしていない。全員一律の無表情は、異様な雰囲気作りを担っていた。彼らの緊張は刑事にも連鎖しているようだ。ほかの刑事は自然と、あとずさりした。長いテーブルから離れて、部屋のすみにならんだ。証拠品のまえには、成海しかいない。その成海は、全員の着席を待っていた。ひとりひとりが、案内されるまま、テーブル席へと向かった。椅子を引く音さえ、無音だった。窓際の席に桐生と亜紀がすわり、中央には加古、廊下側には宇田川、もっともとおい席に、秋田が腰をおろした。入り口にちかいソファー席には、葵、武部、小百合の三人がすわっている。これで、八人全員、そろった。彼らにとっては見慣れた休憩室のはずだが、リラックスしている雰囲気は、まるでない。あまりにも緊迫しすぎた沈黙は、はげしい息切れをうながしていた。いつ、だれが発狂してもおかしくない様子だった。二十人以上の男女が休憩室につめられている。お互いが緊密しているにもかかわらず、みな、無言だった。成海は努めて、笑顔で言った。「みなさん、突然、多目的研究センターに集められて、たいへん、困惑していることでしょう」

(B)複数反復

〔序章2型〕成海は校庭をまわった。いない。体育館を歩いた。いない。三階の教室へと向かった。いない。……いいや。一気に心臓が高鳴った。いた。白いカーテンのまえだ。白いシャツとかさなっている。見えにくいが、ひとりの少女が背中を向けていた。工藤葵だ。窓のまえに立っている。肩の長さほどの髪が目にとまった。濡れ羽色の髪は、太陽の光に反射して、輝いている。彼女の髪は海風で、なびいていた。長い髪をたおやかな指先で、ゆっくりと、かきあげている。彼女は背中をくの字に曲げはじめた。窓側に前のめりになっていた。成海は教室にはいれなかった。ドアの隙間からのぞいていた。話しかけられなかった。見とれていたのだ。葵は成海の存在に気がついていないようだった。彼女は急に動き出した。なにかを抱えているようだった。成海の反対側のドアから出ていった。本項目→一章4型

〔一章4型〕もう来ているらしい。正面のテーブルが視界に飛びこんできた。窓から陽光が差しこんでいる。日溜まりの裏だった。「……工藤さん」暗い影のなかだった。黒いブラウスとかさなっている。見えにくいが、ひとりの女性が成海へと顔を向けていた。工藤葵だった。テーブルのうしろに立っている。――まるで、……思い出と逆だ。目が合った。彼女は成海のほうに頭をさげはじめた。背中をくの字に曲げていた。長い髪は身体の動きで、素早く、ゆれている。ふたりの緊張から来る脈動で、動きつづけていた。彼女の薄墨色の髪は、日影に吸いこまれ、夜の海のようだった。大人の女性になっていた。異性の色があまりにも濃く、成海の理性など構いもせず、いまにも恋心という渦のなかに、呑まれていきそうだった。教室で見ていたときとすべてが逆だった。成海を見て、両胸を向け、さきに待っている。肩の長さほどの髪だけがかわらなかった。美しくなった、そのことばを口にすることはなく、混濁した意識のなかに沈んでいった。身体の奥で、密かに、発熱するだけだった。彼女のぎこちないふるえもまた、成海と同じ症状を引き起こしていることをあらわしていた。数十秒間の沈黙のあと、成海は、ようやく、向かいの席にすわった。序章2型←本項目

〔十五章34型〕「なにがあったのか知らない。だが、いまのままだと、友達以上に、進展しそうにないな。停止線をこえられない」そうこうしているうちに、葛西臨海公園の駐車場に着いた。「ただ、彼女が成海の行動の真意に気がついたら、ちがうかもな。停止したままではいられなくなる。工藤さんのほうがな」助手席のドアをあけた。「そのときは、小学生から溜めた分、成海がことばにするんだぞ。仕事上の間柄なんだろう? つぎの機会はないと思え」藤堂は予言めいたことを言って、スカイラインで去っていった。本項目→二十章48型→二十四章59型

〔二十章48型〕「成海くんは……知っていた。知ったうえで、水槽を落とした……。あのとき、わたしのために……!」葵のふるえは、完全にとまっていた。「……同級生が集まっていた。いつものように水槽をのぞくにちがいない。真水と海水は、においがちがう。死んでいるメダカを見たら、気づかれる。なによりも、死んだメダカをきみに見せたくなかった」葵は校門をとおっていた。時間はなかった。「自分が辛い目にあっても……。成海くんは。黙りつづけて……」葵は自分を責めるのをやめていた。足下ばかり見ていた目線が、やっと、そらを見あげたのである。成海の真意を知った。その瞬間、葵の身体は、停止線をこえていた。成海の両手を強く、握りかえしていた。もう、とまらなかった。十五章34型←本項目→二十四章59型

〔二十四章59型〕「成海くんだけじゃない」彼女は青いそらを見た。「人間はみんな、万能にはなれない」上空ではない。成海の目のなかにある青い光、瞳に映ったそらを見ていた。ほんの少し、首をかしげる。自分も失敗ばかりだった。彼女の仕草と表情がそう物語っている。「すべて、上手くいくことなんてない。みんな、口にしないだけで、挫折、否定、諦めばかり。でも……」葵は一歩まえに出た。「それでも、人間はあたらしく、積みかさねることができる。ひとつひとつ、まえに……まえに……」成海の顔を正面から、しっかりと見ている。「それが素晴らしいんだって、二ヶ月まえにわかった」この二ヶ月のあいだ、葵の心は整理されていた。真意を知ったことで、さらに、前方へと、すすんでいた。もう、停止しない。「わたしは、成海くんから全力を尽くすことを知った」葵は最初のころの態度とは、まるで、ことなっていた。人間はかわることができる。いまよりも、変化できる。彼女が、ほかのだれよりも、示していた。成海は葵の表情に、強い生命力を感じた。いままでにない、強いことばに、胸を打たれていた。ふと、藤堂の予言がよぎった。――ぼくからことばにする。こんどは、成海のほうが彼女の瞳に、青色の前進を見ていた。十五章34型←二十章48型←本項目

 

【第十八】高揚―緊張に関するレトリック


(A)漸層法

〔序章1型〕初恋のはじまりは、雲だった。みなと同じ、雲だった。彼の恋心は、いまだ、切れ目のない雲にすぎなかった。少しずつ、幼き時計の針が進んでいくと、雲の表情はかわるのだ。雲の顔を思うと、雨になり、雲のことばを考えると、雷になり、雲の出会いを願うと、嵐になった。やがて、そらに晴れ間があらわれたとき、ひとりの異性が思い浮かぶのだ。成海与一もそうだった。みなと同じだった。雲の終わりは、初恋だった。成実与一の目には、常に四人の少女が映っていたが、雲が切れたあと、心のそらに見た少女は、ひとりだった。

〔三章7型〕「成海くん、ほら、あそこ。みんな、なにかを見ているみたいね」断続的に、甲高い声が響いていた。成海には、歓声にきこえた。急いで走りまわるような足音は、歓迎をあらわしていると感じた。「緑道のさきに、あたらしいお店でも、できたのかもしれない」「だったら、ちょうどいいわね。あいていたら、はいりましょう?」「ああ。すっかり喉が渇いてしまった。ペットボトルもからだ。なにか飲みたい」「ふふっ。わたしも同じ! 喉が渇いちゃって。声が出なくなってきた」成海と葵はずっと話していた。堰きとめていたダムが壊れたかのように、ふたりの話は、とまらなかった。話題が湯水のようにあふれていた。喉が渇くのも、とうぜんだった。ダムのなかの水は、とっくに流れ去っている。ふたりには、あたらしい雨が必要だった。しかし、雲行きは、雨どころか、嵐を呼んでいた。いまかいまかと、雷を待っている。「なんだ。様子がおかしいな。人集りが円になっている」「うそでしょ」主婦が口を押さえていた。「うわ!」会社員がとまった。「ねえ、あれって……」女子高生が人差し指を向けた。「作り物じゃないのか」老人は目を細めていた。「警察に通報を」警備員が携帯電話をもっていた。「えーん。えーん」子どもが泣いている。成海の意識は、葵ではなく、その異常事態へと向けられていった。「まさか……こんなことって!」葵はあとずさった。成海はまえがかりになった。「ああ……。今朝と同じだ」緑道の出口だった。女性の銅像が置かれている。銅像は両手を差し出している。成海は群集のまえに出た。ゆっくりと銅像にちかづいた。両手のうえには、長細い、異形の物体が置かれていた。あきらかに、メッキではなかった。「まちがいない。死体の一部だ」成海の渇いた声は、雷となった。周囲の人集りは、一気に、悲鳴を張りあげる。阿鼻叫喚がはじまった。絶叫の連鎖は、成海の高ぶった感情を急速に冷やしていった。恐怖で四肢が麻痺をはじめる。成海はふるえながら、片膝をついた。目を凝らした。「こんどは左脚だ……」葛西駅で見た右腕と骨の長さに相違ない。同じ死体にちがいない。死後、二、三日ほど経っている。同じだ。固まった血液以外の水分は、すでに失われている。成海たちの喉よりも、はるかに渇いた左脚の発見であった。「いったい、葛西の街で、なにが起きているんだ……」

〔十四章33型〕迷えば、死ぬ。迷ったときは……。自分から選ぶ。……竜頭蛇尾だ。張りつめた空気が割れた。成海の足が地球を蹴った。おおきな足音が響きわたった。――竜頭蛇尾、身を守るには、いいことばだ。どうしても、逃げられないときこそ、攻撃が最大の防御になるからな。それが竜だ。いちばんのチャンスは、相手が凶器を手にするときだ。最初に上下の牙で叩けば、状況は一変する。――まず、思いっきり、相手の持ち手を蹴りなさい。ナイフをもち歩いているほうが、その怖さをよく知っている。ゆえに、弱みになるんだ。成海は教官の教えのとおり、全力で男のポケットのうえを蹴った。不安はなかった。なぜならば……。――ナイフがまだ、ポケットのなかならば、チャンスだ。ポケット内では、完全にひらくことがない。こちらは靴を履いている。リスクがない。いっぽう、相手はナイフの刃が自分に向いてもおかしくないと思っている。うえから蹴られたら、一溜まりもない。男は右手を急いで、離した。手のひらの無事を確認している。――持ち手を蹴れば、ナイフが外に落ちる可能性も高い。林の奥に、ナイフが転がっていった。男は身体をさげた。探そうとしている。真夜中の林のなかだ。すぐに見つかるわけがない。成海は恐怖を押し殺した。足に力をこめる。――地面が土だったら、なおさらいい。踏ん張りが利かないからな。もう一本の牙の出番だ。相手のかかと側から真上に向けて、蹴りあげる。素早く、慎重に、確実にあてるんだ。しかし、成海の下段蹴りは、上手くあたらなかった。稽古と本番はちがう。かすっただけだった。背筋が凍る。しかし、男が中腰の姿勢だったおかげで、体勢は崩れている。――つぎは頭だ。相手の両脇のあいだに、成海くんの両腕をとおして、地面に倒すんだ。背中裏で自分の手を握りなさい。これで動けない。お互いに体力を削り合うだけだ。最初にナイフごと蹴られたことで、男は手をうえにあげていた。組むのは簡単だった。いっしょに、地面に倒れこんだ。――そして、蛇のように、相手の足をからませる。踏ん張れる姿勢をとられてしまえば、そのまま、立ちあがる男もいる。壁を蹴って、背中を叩きつけてくるかもしれない。反撃を防ぐためには、足を固めるのがいちばんだ。誤算があった。成海と男に身長差があったことだ。可動部までとどかない。男は目一杯、身体を左右に動かしている。正面にのれない。ふり切られそうだった。頭突きもしてきた。両手の力がゆるんでくる。思い出せ。つぎの行動は……。――最後の尾は、簡単だ。叫ぶことだ。助けを求めるんだ。成海くんは、敵を倒す必要はない。自分が攻撃されない状態にするだけでいい。あとは、まわりに気づいてもらうんだ。竜頭蛇尾はすでに、完成していた。成海の勝ちだった。

〔十七章41型〕白い蠍のもうひとつの拠点だった。上空からは、疎雨が落ちはじめていた。夕立の予兆だ。天候は曇り空にかわっていた。徐々に、日の光が奪われていた。口角をあげた。話し声がした。外まできこえていた。ふたりの男の声だ。足音を押さえ、廃工場のうしろにまわりこんだ。窓を見つけた。ひらいたままだった。のぞいた。目のまえに、白い蠍のタトゥーがあった。その人物にとって、見たことのない男が椅子にすわっていた。上半身は裸だった。桜井と呼ばれていた。ふたりの男は、今後について話し合っていた。いっぽうは、事情を把握していないようだった。桜井はいままで、葛西署の取調室にいたようで、ひどく苛立っていた。愚痴るように話していた。はじめて知る情報もあった。流血の金魚祭りは、辺見という男だけではなく、この桜井も参画していたらしい。寺崎と三浦を利用し、大石を殺害させたのだ。相川会の壊滅と活動資金の獲得が狙いだったらしい。犯人の知らない事実まで、饒舌に語っていた。……許せない。疎らだった雨粒は、細雨にかわっていた。暗く黒い雨雲は、犯人の殺意の高まりに呼応するように、伝播していた。怒り眼を吊りあげた。視線を向けた。桜井のすぐうしろに立っていたが、気がつく素振りもなかった。彼の口は、その終わりまで、再生をつづける蓄音機のようだった。――警察には無関係を装ったが、どこまで信用したか、わからねえ。――せっかく、辺見が死んで、使える金がふえたってのによ。――手広くやってきたが、そろそろ、引き時だ。――三日後、再出頭を命じられている。応じるつもりだ。もっていけ。のこった金の在処が書かれている。――あしたまでに、集めてこい。おまえにも、分け前をくれてやる。いいな。あした、同じ時間だ。レインコートに、大雨がふりそそいでいた。雨粒は空気すらおもくしていた。数歩、さきも見えなかった。室内から外は見えないが、外から室内は見えている。邪悪な意志は、すぐうしろで、顔をあげていた。手をくだす機会を伺っていた。雨音に混じって、ひとりの男の足音が離れていった。桜井は、だれもいなくなったあとでも、身勝手な不満を吐き出していた。雨音は鍵盤をはげしく叩きつづけていた。背負っていたリュックが落とされた。ジッパーをひらく音も響かない。手にとった。女性、老人、だれでも扱える、サバイバルナイフだった。刃は雨に濡れていた。鈍い光をゆらし、高らかと笑っていた。夕立は最高潮だった。豪雨は土を叩きつけ、白煙をのぼらせていた。照明は点いていない。昼間にもかかわらず、夜中とかわりない、暗闇につつまれていた。窓のうしろに立っていても、影すら、のびなかった。両腕をそっと、あげた。ナイフが一段と光った。雨音はドレミファソラシドと、音階を駆け抜けていった。刃先の狙いは、白い蠍のタトゥーの頭だった。背中である。心臓の裏側だった。身体のうえから、一気にさげた。グロウタトゥーは、一瞬で、鮮血に染まった。桜井の悲鳴すらも、夕立の拍手喝采で消されていた。後押しされるように、何度も何度もふりおろした。鼓膜が破裂するほどの雨音だ。あまりにも、高音すぎて、無音にすら感じていた。犯人の呼吸だけが生きている。三回、六回、九回、十回、十一回……。ようやく、両腕をとめた。桜井はぴくりとも動いていなかった。雨足が弱くなってきたらしい。犯人の耳に、周囲の雨音がもどってきた。――白い蠍の頭は死んだ。この巣はお終いだ。

(B)反漸層法

〔十二章25型〕「ぼくは一階に行く。藤堂たちは二階と三階を見てくれ」「わかった」藤堂は同行している警察官に指示を出した。ふたり分の足音がへる。彼らはガラスドームにのこった。三階部分は屋外だ。成海は名残惜しく、周囲を見た。昼間ならば、大勢の観光客がガラスドームに背を向けて、写真を撮っているにちがいない。絶好の撮影スポットだ。ガラスドームの裏手には、噴水池が広がっていた。この噴水池が素晴らしい情景を映し出すのである。三十メートル以上のガラス張りの人工物が、冨嶽三十六景の逆さ富士のように、水面に映る。その背景は常に、大空でみたされているのだ。圧巻である。いまもガラスドームには、LEDライトが照射されている。うえとした、両方に赤いそらがあった。どこを見ても、大空がある。ゆえに、空の広場と呼ばれていた。葛西臨海公園でも、屈指の観光スポットだ。しかし、 ゆっくりと見ていられなかった。成海と藤堂は、ガラスドーム内のエスカレーターをくだっていった。二階のテーマは海だ。エリア全体、太平洋を模している。正面にはサメ、背後にはマグロの水槽が置いてあった。大洋の航海者、アクアシアターと名づけられていた。大洋の航海者では、アカシュモクザメ、スミツキザメ、ツマグロ、ウシバナトビエイ、マイワシが泳いでいる。うしろのアクアシアターでは、ドーナツ型の大水槽を大量のマグロが遊泳していた。クロマグロ、ハガツオ、スマが確認できた。全面ガラス張りの水槽のまえには、長椅子が置かれている。百人はすわれるだろう。もっとも、人気のあるエリアである。となりにはクロマグロの等身大ぬいぐるみが置かれていた。人気の高さが伺える。「ここはまかせておけ」藤堂は足をとめた。成海は藤堂の肩を叩き、一階におりた。一階は陸地に隣接した水場が演出されている。二階とはことなり、ちいさい水槽がならんでいた。太平洋、インド洋、大西洋、北極海、南極海。世界の海域ごとの水槽が置かれている。そのまま、弧を描くように進むと、屋外のエリアへと出る。渚の生物エリアだった。浅瀬の再現だ。手のとどく距離に、ヒトデやヤドカリが沈んでいる。わずかに、鳴き声がきこえてきた。正面は、ペンギンの遊び場だった。フンボルトペンギン、イワトビペンギン、フェアリーペンギン、オウサマペンギンが群れていた。幼稚園児のように順番にならんでいる。つぎつぎと跳ねながら、海中に飛びこんでいた。ふだんならば、さぞ満喫できただろう。しかし、いまの成海には、ペンギンたちを見る余裕はなかった。四方に目を向けながら、走りつづけている。――いったい、どこにあるんだ! 成海は、ふたたび、屋内にはいった。左側に巨大水槽があった。世界最大の海藻であるジャイアントケルプが成海を見おろしていた。水槽内では、気ままに、サンゴ礁や海藻がゆれている。ゴミ箱は見当たらない。すでに、葛西臨海水族園は終わりにちかづいている。最後の曲がり道に、差しかかっていた。帰り道にふさわしく、絵画のように美しい、正方形の水槽が側壁に埋めこまれていた。東京の海にいる魚たちだ。外湾部や内湾部だけではなく、小笠原、伊豆七島などにいる熱帯魚が泳いでいる。その熱帯魚はやがて、深海生物、浮遊生物へとかわり、最後には海鳥まで姿をあらわした。流石に鳥類園に隣接している水族園だ。エトピリカとウミガラスが水面を漂っている。海鳥たちは成海の必死な形相を見て、威嚇してきた。それでも、成海の足はとまらなかった。とうとう、帰り道の順路と書かれた立て札が見えてくる。上り階段につづいていた。「……見落としたのか」成海はようやく、速度をゆるめた。下り階段のしたに、レストランシーウィンドの座席が広がっている。その階段の手前だった。成海の懸命な行動が実をむすんだ。「見つけた! ゴミ箱だ」成海は脇目もふらず、円形のゴミ箱を倒した。ふたをあけた。ビニール袋ごと、外に出した。しかし、膝をつくことになった。「なにも……はいっていない。からだ」一瞬、心が折れた。しかし、簡単には諦められない。一呼吸を置いて、ふたたび、立ちあがった。「衛生面の問題がある。つぎの日にもちこさない。閉園時間に、ゴミを回収するのは、とうぜんだ。従業員はゴミ袋をひとつの場所に集めているはずだ」成海は手すりからシーウィンドを見た。「考えられるとしたら……」レストランフロアにもゴミ箱はある。そして、調理場には、かならず、食材を運ぶ運搬口がある。調理場は、どこよりもゴミが出る場所だ。「ゴミ袋を集めるならば、レストランの裏にちがいない」成海は転げ落ちるように、階段をおりた。地下だ。目の端に白い服を捉える。従業員だ。まだ、のこっていた。「水族園の山本さんから許可をもらっています! ゴミ捨て場はどこですか?」成海は従業員の顔の向きだけで、その場所を察した。専用通路をとおる。出口のちかくに、横開きのドアを見つける。ここだ。確信した。がらがらとドアが泣いた。可燃、不燃、プラスチック、ビン、名札付きの箱が置かれている。収集場所にちがいなかった。「駄目だ。ゴミ袋はひとつもない。もう、回収されてしまったんだ」成海は自分の浅慮を嘆いていた。もっとはやく、気がついていれば、新聞を回収することができた。……もう、証拠品は失われてしまった。目にすることはできない。地下の薄汚れた壁に、もたれかかった。みずからの矮小さを、強く感じていた。自己嫌悪がとまらなかった。三階の大空、二階の太平洋、一階の陸地、そして、地下のゴミ捨て場、ここまで走りつづけて、なにも、えることはできなかった。最後は、ゴミ捨て場だ。まるで、自分自身が塵芥のように思えた。おまえの居場所に、ふさわしいと指摘されているようだった。「成海、どこだ!」藤堂の声がした。レストランからきこえている。成海は従業員の専用通路に出た。藤堂に手をあげた。駆けよってくる。「二階も三階も。ゴミ袋はなかった」「……こっちもなかったよ。すでに回収されてしまったようだ」

〔二十三章54型〕「まず、みなさんが殺人事件の発生を最初に、認識したのは、三浦さんの死体が発見されたときでしょう。三日まえの夕方、多目的研究センターの一室でした」成海は亜紀に身体を向けた。彼女の表情は凍った。ただの確認だったが、死刑宣告を受けたように、衝撃を受けていた。刑事たちの目が光る。彼女は首元に大量の汗を溜めている。冷房の真下にもかかわらず、常に発汗していた。首を背もたれのうえに、のせている。豊満な腰は、見る影もなく、椅子の奥へと追いやられていた。腰が抜けているようだ。両脚は力なく、だらりと落ちていた。授業中に退屈した子どものような姿勢だった。「容疑者のなかでは、橋口さんが、最初に三浦さんの部屋に、はいりました」成海は語気を強めた。参考人の注意が一気に向いた。「ひっ!」声にもならない声が出る。椅子にすわっていなかったら、倒れていたにちがいない。亜紀は、緊張のあまり、身体が笑っていた。さらに、奇異の目に晒される。容疑者たちまでも、疑いの目を向けた。彼女は椅子のふかくにすわり、横たわるように全身をのばしている。だれより弛緩し、リラックスしているように見えた。しかし、じっさいは、容疑者のなかのだれよりも、緊張と恐怖の真っ只中にいたのである。この世の終わりすら、感じていたのである。刑事たちの目には、亜紀の演技というよりも、罪悪感の吐露に映っていた。吹けば消える声すらも、怪しかった。「この事実に、まちがいないですね」成海は優しい口調を意識した。亜紀の身体の硬直は、ゆっくりと溶けていった。


【第十九】直接―解釈に関するレトリック


(A)直喩

〔六章12型〕成海はドアに向かって、語りかけた。「殺人事件のあとは、だれでも怖いものだ。気分が落ち着くまで、ぼくの部屋にいないか?」きこえないとわかっているからこそ、ことばを紡いだのである。葵もまた、廊下でつぶやいていた。「わたし、成海くんとまだ、いっしょにいたくて……。ほんとうは、謝りたい。わたしのせいで、あのあと、成海くんは……」背中をドアにあずけている。ひんやりとしたドアは、成海のおおきな手とはことなり、冷えきっていた。ふたりの恋愛感情は、まだ、気体のように、見えない空気のままだった。成海と葵の関係は、両者の境にあるドアのように、決定的に隔てられていた。風が吹けば、すぐに離ればなれになる。空気とかわりない。けっして、むすばれることは、保障されていなかった。殺人事件の解決と同じように、迷いつづけなければ、出口のドアは見つからない。ひらかない。交わらない。成海はドアから離れた。

〔九章16型〕洋子も話し相手まではわからないようだ。いったい、だれと電話をしていたのだろうか。こそこそと隠れて、なにをしていたのだろうか。それに新聞だ。気にならないわけがない。多目的研究センターでは、ことあるごとに、新聞が顔を出している。まるで、新聞の首元に悪意から抽出された香水がかけられ、騒動というにおいを引きつれているようだった。あちこちで、鼻につく残り香を漂わせているようである。はじまりは、広場の口論だった。新聞を犬飼から受けとった三浦は、その日のうちに、殺害されてしまった。……天井裏に吊されたのだ。無断で衛星実習室に侵入した寺崎は、隠れて新聞を読んでいた。……そして、自室にはいった亜紀に怒声を浴びせていた。さらに、とうの犬飼だ。彼は新聞を片手に、何者かの電話を受けていた。しかも、でたらめの経歴で、管理事務所の一員になっている。なんらかの目的があったにちがいない。「ああ! おかしいと思ったことが、もうひとつありました」洋子は海辺の砂礫を見つめていた。記憶を掘り起こしていた。「犬飼くん、電話しながら、新聞にペンで書きこんでいたのよね」

〔十一章22型〕成海は展示ホールのエントランスで、宇田川、武部、小百合の三人を見送った。藤堂は後方で、警察官に見張りの継続をたのんでいた。少し待った。いっしょに外に出る。夕闇が赤子をあやすように、芝生を撫ではじめていた。花々は花弁を萎ませている。木々は緑葉をさげている。虫たちは声をとめている。みな、眠りの準備にはいっているようだ。邪魔する必要はあるまい。刺激しないように、静かに多目的研究センターにはいる。休憩室にもどった。「これで全員のアリバイが確認できた」

〔十二章23型〕恐る恐る、スイッチを押した。照明スタンドは、人魂のような青い光をはなちはじめていた。青い光だ。しかし、ほんとうは、黒い光だった。成海は、この瞬間、ようやく、すべての耳垂れがとり除かれた。雨垂れがつぎつぎと、音を立てて、浮かびあがっていた。青色だが、黒い光だ……。

〔十三章29型〕会話は不自然に、とまってしまった。成海と葵は、ぎこちない態度で、レストランを出た。蝸牛のような歩みだった。どちらが合わせたわけでもなく、ゆっくりと歩いた。成海と葵は、お互いの肩がふれ合ったまま、三階へともどった。息遣いをききながら、エレベーターをおりる。廊下のさきで、ようやく、肩同士が離れた。ふたりはドアのまえで、向かい合った。成海の肩は、まだ熱を発していた。磁石のように、葵の肩へと、もどりたい意志が生まれていた。なんとか、自制する。平静を保った。「……あしたは予定どおりで、いい?」葵がきいた。〔十九章45型〕藤堂は、つづきのことばを待ったが、成海の口はとまっていた。魂を抜かれたような表情で、防虫ネットを引っ張っていた。呼吸も、瞬きもしていなかった。十九回目、いつものことだった。観察眼があるのも、楽ではない。成海は、はるかさきまで、見通せるからこそ、底なしの思考に嵌まるときがあった。アリバイ、密室殺人、ばらばら死体、天井裏の散歩者、氾濫騒動、不可解な不可能犯罪のなかから、ひとりの犯人を見つけ出すのは簡単ではない。すべての事実に、整合性をとるには、並外れた苦労が求められる。針の穴に、連続で糸をとおすようなものである。手掛かりが見つかるたびに、針はふえていき、とおさなければならない穴はふえる。成海には、その大量の針が見えていた。戦場の墓標のように、無数の針が見えていた。すべての条件にあてはまる針の穴は、一筋だけである。不釣り合いな結論ならば、無限大に見出せるだろう。しかし、殺人事件の捜査には、わずかなまちがいすら許されない。とめどない。考察につぐ考察だ。ゆえに、解決にちかい瀬戸際ほど、多大な苦しみにつつまれるのである。十九回目、それは成海の停止となって、あらわれていた。

〔二十章47型〕大観覧車のゴンドラは、とぼとぼ、動きはじめた。彼女の声と同じように、ぎこちなく、ゆれていた。成海は左側を向いた。葛西臨海公園駅と駐車場が俯瞰できた。こんどは右側を見た。西なぎさと東なぎさが濡れそぼっていた。地上の光はすでにとおく、潤んでいた。涙を流している女性の顔のようだった。五分ほどで、成海の視界は、ビル群と東京湾のコントラストにかわった。葵の横顔のさきでは、江戸川の花火が点滅している。その明滅を見て、十年以上まえがフラッシュバックした。小学三年生のころの記憶だ。幼い姿である。登校した直後の葵が、目のまえにあらわれた。いまと同じ顔をしていた。水につつまれたように、青ざめている。――ぼくが、学校で工藤さんを追いかけた、つぎの日だ。ゴンドラは、ゆりかごのように、優しくゆれつづけた。頂上にちかづくたびに、童心をゆさぶる。成海はようやく、思い出した。

〔二十一章51型〕成海は、汗でおもくなった服を脱いだ。あっというまに裸になった。生身に汗が感じられて、余計に気持ちが悪い。脱衣所の大鏡には、露わになった身体が恥じらいもなく、映し出されている。細身の身体に、繁殖期の豹のような、しなやかな筋肉がのっていた。仕事上、歩きまわることが多い。余計な脂肪は削ぎ落とされていた。なによりも、警察四一の取材の際に、教官に鍛えられた経験がおおきかった。成海は、日々の鍛錬を疎かにしていなかった。それだけ、教官への恐怖がおおきかったとも言える。成海はちいさいタオルだけを手にもった。獲物は目のまえだ。右腕をのばした。脹ら脛は、たくましく、隆起した。大浴場の戸口が湿った音を立てる。成海の顔は、さらに、おおきな肉食獣に食べられたかのように、白い煙につつまれていった。塩素のにおいが、成海の鼻孔をくすぐった。身体中、湯気のなかである。心の垢が溶け落ちていくような気分だった。「ああ、いい気持ちだ」

〔二十三章56型〕だれも動かなかった。刑事が手錠をとることもない。成海がまだ、話しつづけていたからだ。成海の声は休憩室に行きわたっていた。全員の関心を集めている。一声、出すたびに、魔法の刃となって、ふりそそいでいた。ありとあらゆる人の影を、縫いつけてしまったようだ。魔法のような論理は、とまらない。「この事件は連続殺人事件です。三浦さんがどのように殺されたのかはぼくの話したとおりですが、まだ、事件はのこっています」二番目に判明した被害者は、寺崎恭吾である。全身の人体模型は、紙袋の外に出ていた。成海は手首と右腕をとんとん、叩いた。

(B)複数直喩


【第二十】間接―心象に関するレトリック


(A)隠喩

〔七章13型〕廊下を歩いた。目当ての場所で立ちどまった。成海はドアをひらくまえにつぶやいた。「藤堂はきっと、橋口さんが目撃されないように外へと出て、排気口から侵入したと考えるだろう」成海は両目をつぶった。頭をからっぽにした。心の整理をはじめる。殺人事件は、夜の交差点とかわりない。信号が灯っている。午後二時から午後三時のあいだ、三十分ほど目撃されていない時間があれば、青色だ。赤色のランプは消える。青色の時間のみ、殺しを進められる。密室という不可能が可能にかわる瞬間になる。犯人は青色のランプを見て、アクセルを踏んだ。三浦の首を引いた。いま、そのスピード違反に、ねずみ捕りが待っている。過去の違反を現在、取り締まろうとしている。刑事の宿命だ。成海は注意ぶかく、道路内の出来事を精査しようと決意した。じっさいの速度超過とはことなり、目にできない姿を見るのだ。それが殺人事件の捜査である。五人の容疑者が黄色に点滅している。ひとつたりとも、まちがえてはならない。にかい、ノックする。「どうぞ」という声がかかった。成海は黙って、ドアはひらいた。

〔八章14型〕「どうして、わざわざ、脚立を使って、天井裏の梁に吊したのでしょうか?」唯一、意味を与えられるのが、排気口からの侵入だった。藤堂は、さらに、もう一本の線を加えようとしている。成海は天井裏に亜紀が侵入できたかどうかという話が焦点になると踏んでいた。密室殺人という不可能性に対して、ほかの線はないように思えたからだ。しかし、藤堂はちがっていた。数時間の捜査からえられた手掛かりによって、べつの線を加えたのだ。あみだくじを辿る指の方向をかえつつあった。「あの不自然な首吊りも、貴方が犯人に協力していたとしたら、べつです。確固たる理由が生まれるのです。目にしない高さに、死体があったという釈明に使えるからです。しかも、不安因子にも対処できる」「ぼくのことだね。……死体を見つけて、足をとめた」「そう、同行者の足止めのために、死体を吊したと考えられる。この利点が生まれるのです」藤堂は亜紀に厳しい目線を向ける。「あの瞬間、室内に、もうひとり、男がいたのではないですか! 貴方はさきにはいり、ドアのうしろにまわった。割った窓から共犯者の男を逃がしたのです!」ついに、あみたくじの横線を曲がった。線の真下には犯人の名前が書いている。橋口亜紀だ。人差し指は進みつづけていた。「共犯者が逃げるときの物音は、貴方がガラスの破片を踏みしめる音で立ち消えます。あとは貴方がなにも証言しなければ、密室殺人の完成です」

〔十章18型〕ドアの正面を這いつくばった。床板に爪を立てる。どの床板も動かない。ヤコブの梯子というわけではない。「たしかに、藤堂の言うとおりだ。床がひらくことはない」成海は藤堂のもとへと向かった。

〔十二章26型〕ゴミ収集の清掃ダンプがとまっていた。いいや。走り出していた。成海は先回りした。公園内の道路に飛び出した。清掃ダンプは急ブレーキをかける。ゴムタイヤが爪を立てた。アスファルトに黒い線が描かれる。

〔十三章28型〕――綺麗だ。しかし、成海は大観覧車を見ていなかった。地上の花を見ていた。葵の横顔だ。どの花よりも美しく、どの女性よりも惹きつけられる。大輪だった。彼女が瞬きするたびに、喉がつまった。胸をゆらすたびに、脳がゆれた。しかし、その美しい花の観察は、長くもたなかった。彼女の視界に、成海の姿がはいってしまったのだ。葵は成海の目を見つめた。すぐに、ふんわりと、咲きこぼれた。その瞬間、張りつめていた緊張が一気に和らいだ。成海は自分でも驚くほどに、ほっとしていた。恋い焦がれていた小学生のころとは、まったく、べつの感情だった。理屈では計れない。実体のない心の動きだ。成海は葵の笑顔を見ながら、戸惑っていた。心のなかを悟られないように、ゆっくりと、時間をかけて、歩みよった。

〔十五章35型〕定食屋にはいった。まだ、はやい時間だ。客は少なかった。すぐに運ばれてきた。小松菜カレーも小松菜パスタも絶品だった。ふたりで、お皿を交換しながら、完食した。江戸川区の特産品である小松菜は、成海たちの血肉にかわった。「ごちそうさまでした」引き戸をあけた。葛西駅に向かった。西改札口を曲がった。バスロータリーが見えてきた。とおくで『風とともに』がまわっていた。成海はおとといの惨劇を思い出した。衝撃的な目撃は、まだ、忘れられない。目ぶたの裏に焼きついていた。――右手が飛んでくる光景だ。あの経験は、二度とないと思いたい。口にしたら、ふたたび、目にするような気がして、話題にはしなかった。……足がおもたい。凄惨な記憶の砂浜が、なかなか消えない。成海の足をからめとっていた。勢いよく、顔をあげた。柱時計に目線を向けた。「地下鉄博物館は十時から入場できる。いまは十一時だ。ちょうどいい時間になった」「ええ。でも、わたし、行ったことなくて……。このあたりに、入り口があるらしいけど……。ごめんなさい」「西船橋方面の改札口のしたにあったよ。入り口を見た」成海が先陣を切った。タクシー乗り場をおおまわりして、高架下にもどった。すぐに見つかった。タイルの壁に、地下鉄博物館の青いパネルが張られていた。葵に笑顔を向けた。葵は汗ばんだ身体も気にせず、成海によりそった。小学生のころは、葵のとなりを歩けなかった。身体の距離は、心の距離である。自由にふれることはできないが、離れてもいない。地下鉄博物館の真上を電車が通過した。青いパネルはゆれた。さざ波が起きた。ダイヤグラムが鉄の海を満ち引きしている。正面の自動ドアは、大口をあける準備を終えていた。海面に飛び出た口である。成海と葵は、進んで飲みこまれた。旧約聖書のヨナとクジラのようだった。ふたりのヨナは、受付で、入場料を払った。五百円で、おつりがかえってきた。こんどは、ふたり自身がクジラの血肉とかわったのである。

〔十五章38型〕「貴方と寺崎さんとのあいだで、恋愛関係に発展する機会は、なかったのですか?」早苗は黙った。良識があればあるほど、過去は語りたがらないものである。とくに、男女の機微にかんする問題は、口の端にかけるものだ。居合わせない相手にも影響を与えることを嫌がる。ゆえに、黙る。褒められるべき考え方だ。しかし、いまは、早苗の口をひらかせなくてはならなかった。成海は赤いニシンを含みはなった。「わたしの古い友人が多目的研究センターの事務員をしていました。寺崎さんとも、よく顔を合わせていました」事実である。しかし、誘導的なことばだった。成海はつづきを話さなかった。意図的だった。成海の沈黙は、早苗に誤認を与えた。寺崎本人が、話題にあげたのだと勘違いしたのである。「……交際するまえには、なにもありませんでした」

〔十八章42型〕姿勢を低くして、作業場へとはいった。ほかに、だれもいなかった。生命の息吹を感じなかった。咳がとまらない。黒い煙は、侵入をつづけていた。逆しまの天井を闊歩し、首を絞められる生物を探していた。ときおり、殺傷能力の高い両手を、床へとのばしていた。目を合わせたら、つれていかれる。成海と藤堂は、したを向いた。息をとめて、中腰で歩いた。死神を避けたのである。奥の窓はひらいていた。ほんの少しの煙が外へと出ていた。成海は背中をのばした。窓のふちに、わずかだが、泥土がのこっていた。犯人の侵入口にまちがいないが、個人を断定できる痕跡は見つからなかった。「死んでいる」藤堂は男の喉元をさわっていた。呼吸していなかった。死体の顔を凝視した。「……桜井三津留だ」直上にいる死神に、魅入られたのではない。犯人に殺されたあとである。「間に合わなかった」いくら、死体でも、解剖するまえに、焼かれるわけにはいかない。燻製も避けたい。藤堂は桜井の両脇に手をいれた。成海は両脚をもった。死体とともに、作業場を出るのだった。

〔十九章44型〕「ほかに証拠品は、のこっていないね」成海は芦ヶ池の確認を終えた。清掃用具の置いてある小屋へと歩を進めた。さほど離れていなかった。きのうもおとずれた。外観はかわっていない。枯れ木も積まれたままだ。すべて、黒ずんだ洋服を着ていた。「おれは小屋の室内を見てみるよ」藤堂はきのうの見落としを危惧したようだ。成海の注意は枯れ木に向けられていた。ひとつひとつ、手にとった。藻が落ちる。服を脱がしつづけ、大木の山が切り崩されていく。となりに、同じ山ができはじめた。ようやく、半分、へったころだ。成海の五指が食いこんだ。大木とは、あきらかに感触がちがっていた。手にとる。

〔二十一章52型〕いっぽう、同じホテル、すぐとなりの大浴場では、工藤葵が衣服を脱衣かごにいれていた。男性よりも着用数の多い分、成海よりも時間がかかっていた。あるいは、葵のほうが、浮き足立っていたからかもしれない。今昔の感は、すべての行動に、鮮やかな色をつけていた。昔の傷口は、成海のことばで癒やされ、あらゆるものに、艶やかな花が咲いていた。時間が経てば経つほど、古傷は愛おしくなり、成海への敬意が染みわたっていく。心情の変化は、葵を桜色の海に落としていた。「わたしだけじゃなくて、成海くんも、わたしを見ていた……。考えてくれていた」順番に脱いでいく衣服は、理性の錠前にかわらない。成海への思いが自由に泳ぎまわっている。葵の想像力はとまらなかった。上着を脱ぐたびに、いまの成海の声を思い出した。下着を外すごとに、当時の成海の顔を思い出していた。「もしかして、成海くんも……わたしと同じように……」脱衣かごに、鉄の音がした。彼女の声は、幼少期にもどっていた。しかし、身体は子どもではない。白いタオルを縦にもっても、葵の全身は、隠し切れない。タオルは彼女の両胸のあいだをとおり、太ももにふれていた。タオルの両端は、顔にも両脚にもとどかず、鼠蹊部がやっとだった。葵の瑞々しい身体は、彼女の年齢以上に、内向的な性格をあらわしていた。両胸のしたには、左右三段のくぼみが刻まれ、張力いっぱいに膨張している皮膚を、そのコルセットによって、革張りの肌へとかえていた。水滴をも弾くゴム肌である。彼女の艶やかな黒髪は、肩甲骨を疎らに隠し、背中側にも、妖艶な膨らみをつくっていた。湿気を含んだタオルは、女性らしい曲線に張りつき、弓なりになっていた。腹部からタオルが離れない。葵はタオルを内股に、はさんだ。両脚はひとつの尾にかわった。辿々しい歩き方で、脱衣所を離れた。大浴場への戸口には、ほかの女性客の影が映っていた。教室のドアにいたという成海を連想させた。「成海くん……」横切る客にも気にせず、ことばが飛び出してしまった。口にした途端、また、大病がはじまった。恋の病だ。葵の身体はすでに、湯気よりも熱かった。内側からの熱をおびている。卑しくも、成海の孤立した原因が葵にあったことすら、いまとなっては、よろこびにも、感じられていた。いっしょにいるときよりも、離れているほうが病状はおもくなった。熱が籠もれば、籠もるほど、透きとおった肌に、青白い線が浮きあがった。静脈の集中している下半身は、青さを際立たせている。成海を思い、足をひとつにして、青い肌をふるわしている。このときの葵は、人魚だった。成海に焦がれる人魚だった。葵は風呂桶をもった。湯船のお湯を身体にかけた。ようやく、タオルが離れた。タオルを四つ折りに畳んだ。左脚で身体を支える。右脚を湯船にいれた。大浴場に身体を沈めた。成海と同じ姿勢で、星空を見ていた。ふたりの考えていることは、同じだった。豹は人魚を思い、人魚は豹を思っていた。どちらも湯船の底に沈んでいた。腰を据えて、考えていた。

〔二十四章58型〕「あと、五分だ」ふたたび、水を飲んだ。さらに、気持ちが逸っていた。落ち着かない。口内は砂漠だった。オアシスはどこにもない。喉奥にはいった水は、緊張という熱気によって、茹だっていた。思考内に、蒸気が溜まっている。冷静な判断ができない。成海は、また、水を飲んだ。いっこうに、みたされない。「ぼくは彼女のことを、これほどまでに……」永劫とも思われる渇きは、逆に、求めている対象のおおきさを意味していた。成海の気持ちをあらわすように、些細な切っ掛けで、恵みの雨がふりはじめる。横断歩道を見たときだ。視界の端に、女性の影を捉えた。見知った輪郭線だった。砂漠に潤いがみちた。大水だった。一瞬で、森林が生えていった。葵を目視した途端だった。成海の全身は、よろこびで総毛立っていた。考えるよりさきに、手足が動いた。心の逸りよりも、はるかに、身体がはやかったのである。

〔二十四章60型〕成海は、顔を赤らめている彼女に、少女の面影を見ていた。大人になって、押さえてきた情動が蘇ってくる。かつての嵐がふたたび、心のなかに、吹き荒れていった。ふいに、心を乱していた。その瞬間、きょうの日まで、思い描いていた台詞、着飾ったことばは、すべて、消え去った。成海の理性は藻屑となったのだ。真に迫る感情は、綺麗なことばではなかった。成海がいままで整形してきた文脈は、はじめて、制御不能となった。とりとめもなく、乱れに乱れていた。一言を紡ぐまでに、時間と空間をこえた想いが、巡りに巡っている。工藤葵、工藤葵、工藤葵! 多くの思い出が、感情が、執心が、たった数秒で、閃光となっていた。教室にいるときの彼女。ともに会っていた。工藤葵、工藤葵。目が。空気が。場所が。どちらも同じ。室内にいた。話さずとも。そばにいることがよろこびだった。工藤葵、工藤葵、家にかえって、ふと、つぶやいた。彼女の名前。声に出すこと、とめられなかった。工藤さん、工藤さん、なにごとにもかえがたい。何者よりも愛おしい。彼女と逢いたい。ふれたい。願いたい。強い思いが。のたうちまわった。いまも。ずっと。交わして、かよって。いい。きくことが。さらに。強く。引き締めている。ことばが。息が。身体が。そこにいる。あっというまに、足りなくなった。言うんだ。望んでいること。伝えるんだ。彼女のいる場所、同じ空気、黒い目、優しいことば、ゆっくりの息、かわらぬ心。ずっと、いたい。工藤さん、彼女といっしょにすごしたい。二ヶ月まえ。偶然だった。あの身体……。抱きとめた。まだ。のこっている。感触が。もう一度……。そう心が乱される女性は、いつだって、ひとりだ。工藤葵だけだった。成海は、おおきく息を吸った。ようやく、大嵐はとまった。その瞬間、自然と、ことばが、あふれていった。「工藤さん」成海は彼女のことばを遮った。「きみが好きだ」

(B)複数隠喩

〔序章3型〕ドアが音を立てる。ゆっくりとひらいた。成海は顔を向けた。すれちがう同級生を横目に、工藤葵がはいってきた。彼女は立ち尽くしていた。顔色は極端に青い。成海が責められるごとに、彼女の肌は、冷たい水でおおわれていった。うしろに、さがりつづけている。成海は視線を床に向けることしかできなかった。本項目→四章9型→二十章49型

〔四章9型〕「どうかした?」成海は声をかけた。葵は口をひらいては、とじていた。成海に言いたいことがあるようだ。しかし、ことばとして、あらわれなかった。葵の目には、成海が自分よりも背の低い少年に見えていた。十数年が経ち、大人になった彼女の顔に、水の色はなかった。彼女はいま、氷の檻のなかにいた。内側からあけられない檻だ。冷たい檻は、葵を内向的にかえていた。成海のまえで、押し黙り、なにも話せなくなるのだ。少女のころとかわらず、一歩、二歩、さがりつづけた。「ううん。なんでもない」序章3型←本項目→二十章49型

〔五章11型〕「なるほど。捜査本部がひらかれるときに、使わせてもらうよ。それで、散歩者の目星はついているのか?」「いいや」成海は首を横にふった。「高い壁だ。セメントを塗り立てたばかり、殺人事件の発覚はちかいのに、壁はとっくに固まって、犯人はどこよりもとおい。……ぼくたちは謎ばかり、目にしているね。密室、天井裏の散歩者、アリバイ。少なくとも、この三つの壁をこえなければならない」成海はブロック塀を叩いた。「この壁は、頂上が見えないくらいに高いんだ」「まだ、見当もつかないか?」「ああ。犯人は透明なままだ。ぼくには、透明の犯人が、天井裏から忍びよっている姿しか見えないよ」――ほんとうに、犯人は天井裏を使ったのだろうか。成海はいちばんの疑問を口にしなかった。ただ、「わからない」とだけ言った。本項目→十三章27型

〔十章19型〕江戸川区をとり巻いている奇異な事件は、葛西駅のまえ、斬り落とされた右腕の投棄からはじまった。『風とともに』の羽に、飛ばされてきたのだ。その衝撃的な目撃から、たった一日しか、経っていない。だというのに、密室殺人、天井裏の散歩者、アリバイ、瞬く間に難題がふりかかっていた。いまや、成海の頭は、パンク寸前だった。膨大な量の謎に、思考ごと押し流されていた。おびただしい疑問は乱気流と化していた。不穏な事件は一陣の風となって、葛西臨海公園のまわりを渦巻いていた。成海はことの中心、多目的研究センターにいる。台風の目に立っていた。風がない。すべての手掛かりを内側から見ている。強風をとめる鎖が、そらで上下していた。もう少しで、成海の右手がとどく。簡単な切っ掛けでいい。それだけで、鎖をつかむことができる。すべての風がとまり、終わりへと進み出すにちがいない。本項目→十二章24型

〔十二章24型〕しかし、ようやく、いま、勝ち筋が見えた。葛西臨海公園をとり巻いていた円環が、はっきりと見えている。新聞、懐中電灯、照明、水族園、すべてが繋がったのだ。強風はとまっている。成海は鎖をつかんでいた。成海の知恵が台風を消し去ったのだ。この円環の中心に、殺人事件のすべてがある。そう確信できた。十章19型←本項目

〔十三章27型〕成海は深刻そうな横顔を見た。「……成海は排気ダクトのまえで、言っていたな。犯人像は透明のままだ。透明の犯人が天井裏から忍びよっている姿が見えるって……。まだ、透明なままなのか」「うん。ぼくは、いまでも幽霊だと思っている。天井裏の散歩者は幽霊だ」幽霊、死んだあとに行動された。それは藤堂が思っているよりも、ふかい意味があった。壁の頂上は見えはじめていた。「幽霊か……。ありえると思うか? その、あれだよ……」成海は手のひらを見せた。藤堂のことばをうながした。五章11型←本項目

〔二十章49型〕夜空のカムロシャワーは、葵の鼓動に比例するように、はげしくふりそそいでいた。葵のなかで、成海への熱い思いが、とめどなくあふれ出していた。氷の檻は、一欠片ものこさず、溶けている。彼女の足をとめていた大氷壁は破れた。いまや、氷菓子とかわらない。心のなかに、蕩ける甘さだけが、のこっていた。何者よりも、愛おしい。甘美な熱に浮かされていた。葵の身体は勝手に動いた。成海への想いが理性の外へと飛び出していた。一歩、二歩、三歩、ゴンドラの中央へとよせた。膝同士を突き合わせた。「成海くん……」カムロ、最後の一発が打ちあがった。大観覧車は四分の三をすぎている。序章3型←四章9型←本項目

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六点リーダー+類別ミステリー集成(カサイ袋の最愛ミステリーガイドブック上) さんたん @3tan

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