性悪の免罪符
夜中の環八は、割と静かだ。
いや、夜中はどこでも静かなのかもしれない。
昔、父の友人が車でお台場に連れていってくれた。遊び尽くして、夕飯も食べて、辺りが真っ暗になった。その頃には、もう誰もいなかった。とにかく静かだった。
静かすぎる海辺で、砂浜で山を作った。作る度に、波が攫っていく。
それでも良かった。そんな事でも幸福を味わえるほどの純粋な子供だった。
「優しくできないなら生きるな」
自分の顔立ちとか、スタイルとか、気にしたことは一度もなかった。だって、それで気にし始めたら、自分に優しくなくなるでしょう?
ただ、優しい人でいたいだけ。
砂の山を波に攫われても気にしないような、優しい人でいたいだけ。
誰かを傷つけるって、とても怖いもの。優しくしていれば誰も傷つかないなら、空気の抜けたボールのように誰にも当たらない者になりたい。ふよふよと浮いて、時に誰かに触れて貰えるような……そういう人間になりたかったんだけれども、上手くは行かなかった。
砂浜でお城を作った翌日の事だった。
「俺、春乃のこと、ずっと好き…………付き合ってくれる?」
誰も傷つけたくない。優しい人でいたい。優しい人のままでいなくちゃ終わる。
夕焼けが影を作っていた。委員会の帰りだったと思う。みんながチャリやキックボードで遊びに行く中、私達だけがランドセルを背負っていた。思えばその帰り道は、小学生の告白には適しすぎていたと思う。
「春乃は……俺の事……」
世界も、音も、飛行船も、街中のガラケーの着信音も、何もかもがスローモーションに感じた。
「……付き合おっか」
傷つけたくなかった。優しい人でいたくて、付き合うことにした。
「ふんふふん、ふーん」
鼻歌を歌いながら、宙で天井の木目をなぞる。黄ばんだ扇風機はつかなかったりするもんだから、何度もボタンを押したり、コードの位置を調節したりしてなんとかつけている。5年くらい買い替えてないキャミソールはもうボロボロ。特にアンダーバストのゴムの部分が緩くて、機能していない。
それでも不満も文句もない。
みんなに優しく生きている証拠だから。
10年前、初めて告白された。
好きでもない男子に、委員会の帰り道に。
誰にでも優しくありたかった私は、今思えば笑えていたかは怪しいが――笑顔で承諾した。「付き合ってることは内緒ね」なんて言われたが、向こうが耐えきれず話しちゃったらしくクラス中に広まった。
別の日の昼休みに仲の良かった男子から呼び出され、「本当はあいつより前からお前のことが好きなんだ」なんて言われたんだ。
なんて返せばいいのかわからなくて、「そうなんだ。ありがとう、嬉しい」と嘘をついた。それが相手にとっては交際の承諾だったらしく、その年以降私は「二股女」の烙印を押され、友達が友達ではなくなり、友達ができることもなかった。それは地元を離れるまで――中学を卒業するまでも、ずっと続いた。
双方からもクラスメイトからも嫌われたけど、それでも良かった。だってみんな、幸せでしょう?悪口も言えてスッキリするだろうし、私なんかと長期間付き合わずに済んだんだから。みんなに優しくした結果がこれなら、それでいいの。だって、優しくないわたしには価値がないから。
クーラーのついてない1Kの部屋は、親に優しくする為。自分の収入に余裕があっても贅沢な暮らしはせず、親に仕送りをするの。
ボロボロの扇風機は、近所のおばあちゃんのものを引き取ったもの。困っているって言ってたから、優しくしたくて。キャミソールも節約のためにずっと変えてない。
息をするだけでも世界に優しくないけど、それはちゃんと理解ってる。優しくできるラインと、できないラインはちゃんと弁えてる。
ただ私は、自分が他人に優しくできる最大限まで優しくしたいだけ。
―――優しくない人間になるのが怖いだけ。
父は言った。誰にでも優しくあれと。
母は言った。大切な人には優しくあれと。
父と母は優しくはなかった。
無垢な子供に「優しくないと価値がない」なんて価値観を教育する人間は、優しくはない。
「優しいってなんだっけ」
会社でもニコニコニコニコ、誰にでも優しく、残業大歓迎。友達の前でも笑顔。彼氏には些細なことでプレゼント。優しく、優しく。
両親には感謝を込めて、実家に帰る時は手料理を振る舞い掃除もする。会社の花瓶の花は誰も世話をしないから、私が世話をしている。給湯器の掃除も、清掃員の仕事ではないらしく、昼休みに私が掃除している。
優しくしていれば、告白もされる。
優しくしたいから断らない。承諾する。
優しくありたい、優しく、誰にでも優しく。
優しくないと、私という人間の価値が無くなるからだ。
鼻歌は止まらない。
気がつけば涙も止まらなくなる。
優しさで友人を失う、それは自分には優しくないのではないか。傷つける優しさは、優しさなんかじゃないんだと、薄々はわかっているんだ。
声を上げたって、誰も来ない。
家族も地位も友達も希望も全て、優しさで売ってしまったから。
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