第34話

 通常通りのパトロールに戻っただけに過ぎず、誰も油断などはしていなかっただろう。しかし、過剰な警戒から通常に戻った安堵感は拭い去れるものではなかった。

 そして、吸血鬼というのはそうしたときに限って姿を現すものらしい。それも速攻で、翌日のことだ。

 俺の心境に折り合いはつかないまま、気ままにするといっていた通りにラツェナドの散歩に行き会った。

 バイトは捕縛という名の保護の際に、辞めてしまったようだ。世知辛いがやむを得ないことだろう。裏方であるならまだしも、コンビニスタッフとなると接客しなくてはならない。人々の不安を煽るわけにも、評判を落とすわけにもいかないだろう。

 ラツェナドがそう判断して退職していると聞いていた。次を探さなければとは言っていたが、昨日の今日だ。久方ぶりの開放感に浸っているところにケチをつけるつもりもなかった。そうでなくても、俺が何かを言う権利などない。

 俺はラツェナドに対しての境界線が緩いのではないか。そんなことがふっと浮かんだが、次の瞬間には消え去った。空気の変化が肌を撫でたからだ。

 それと同時に、ラツェナドが能面のように真顔になる。どちらが先だったかは、正直微妙だ。俺の感覚というよりは、ラツェナドの反応に過敏に反応していたというほうが正しかったのかもしれない。


「あちらだ」


 俺が何かを言うよりも先に、ラツェナドが鋭い目線で行く先を示す。

 コンタクトによって押さえられているはずの瞳が、赤く染まっているような気がした。緊急のサインを連想させる色味に、俺はすぐさま地面を蹴り出す。

 後ろから滑るようにラツェナドがついてきていた。現場に同行するのはまずいのではないか。その思考がわずかなりとも擡げなかったわけではない。それこそ、昨日の今日だ。いくら俺に庇護されていて、協力を申し出ているとしても、こうも現場に立ち会っていると弁明も難しくなる。

 だが、それを先回りするかのように


「油断しないように」


 と忠告を促された。

 横目に確認した顔は、見てきた中で一番厳しい。これをついてこないように言い含めている時間はなさそうだった。

 現場に近付いていくにつれて、人々が騒然としているのが見えた。すれ違うように、こちらへ逃げてきているものもいる。悲鳴が響いていた。


「ラツェナド、どこだ」


 人がごった返している現場で、加害者を見つけるのは苦労する。

 夜に慣れているといっても、夜目が利くと言っても、人間である以上限界があった。吸血鬼ならば、暗闇でも隅々まで見える。そばにいるラツェナドに場所を求めると、その指先が空を指した。

 見上げると夜闇の中に、何かが浮いている輪郭が薄らと浮かび上がっている。目を眇めれば、どうにか届く街灯の明かりに、人型を視認することができた。

 しかし、その影はすぐにブレる。瞬間移動のような動きに、ごくりと喉仏が鳴った。びゅんびゅんと飛び回る吸血鬼に、路上を逃げ惑う人間。こうも錯乱したような図は、そう起こることではない。

 かつては、こうした襲撃もあったと聞いている。そう、聞いている、だけである。俺たちがそれを知っているのは、伝聞されているからに過ぎない。現場経験がないのだ。

 現着しているハンターたちも頭上を見上げて、歯を噛み締めていた。その中に、栗飯原の姿はない。昨日までは働きづめだったはずだから、休みなのだろう。


「かなり吸血をしているかもしれない」

「気配は濃いか?」

「シェラよりもよほどね。彼女は何だかんだ言っても満腹の範囲を超えていなかったが、彼の吸血は食事という感覚ではないな」

「……快楽ってやつか」

「そうだね。そうして吸血するタイプの吸血鬼は、自分の能力を誇示したがるものが多い」

「どれくらいの割合だ」

「ほぼ九割以上」

「それはもう十割」

「だから、このままはかなりまずいだろうね」

「そうは言ってもな」


 相手は遥か頭上だ。捕縛することにも手間取る。誰も彼もが手をこまねいていた。

 俺はすぐに拳を握り締めた。訓練は十分しているが、実は魔術を使う頻度は多くはない。俺の得手不得手もあるだろうが、全体的にそういうものだった。

 ハンターをやっていても、吸血鬼を殺す覚悟を決められているのか、自信は持てない。命を刈り取る。その覚悟は並大抵ではなかった。現代人としては遠いものだ。ハンターになると将来を決めてもなお、吸血鬼殺しの覚悟を決めているとは言い難い。

 ふぅと息を吐き出して、魔力を拳に込めていく。そこから撃つことだけに限れば、経験はあった。吸血鬼相手へ対してもだ。しかし、慣れているとは言い難い。

 こちらが狙いを定めている間に、協会のハンターたちは住民たちの避難誘導を行っている。撃つにしても、周囲の安全が得られなければ誤射が怖い。下手をすると、火の海だ。

 そこまで下手くそのつもりはないが、戦闘で何が起こるかなんて誰にも分からない。人命がかかっているのだから、危ない橋を渡るわけにはいかなかった。


「ちゃんと見えているか」

「なんとかな」


 大丈夫だと豪語はできそうにもない。それでも、街灯の明かりで見つけた影を追うことはできている。

 かろうじて、だとか。なんとか、だとか。そうした前置詞を消すことはできないが、それでも夜の中で相手を見定める方法が絶無というわけではない。

 あちらは人間を標的にしているのだ。移動先を推測することは可能だ。速度についていけない問題は大いにあるが。周囲の安全がある程度確保できたであろうタイミングで、俺は標準を合わせた。

 拳を振るって炎を撃つまで時間はかけない。自信がなくても、躊躇うことが悪手であることはよく分かる。抑えた威力では、そう殺すことはない。

 それだけを指標に俺は拳を振るった。魔術の炎が軌道を残して夜空を照らす。

 戦闘に対するざわめきが遠く聞こえていた。しかし、瞬間移動並みの動きを平然とするものが相手だ。こっちだって、出遅れるわけにもいかない。外したことを確認するまでもなく、何発も続けざまにぶっ放した。

 しかし、そのどれも掠りもしない。自分の練度に疑問を抱くところであるが、そうではないという冷静な目も持てている。俺が極度に下手なのではなく、あちらの異能が図抜けているのだ。

 ただ、そんな冷静な目があったところで、実力不足に違いはない。舌打ちを鳴らした瞬間、吸血鬼の赤い瞳がこちらを捉えた。俺が一般人ならば、逃げ出すときなのだろう。

 しかし、俺はハンターだ。

 標的にされると言うのなら、こちら側からも狙いやすくなる。そのときの俺は、そのことしか考えていなかった。

 久々の魔術戦。連続殺人犯における消化不良。答えのでない懊悩からの回避。吸血鬼の強さ。さまざまの要因でアドレナリンが出ていたのかもしない。

 そうした集中力が、必ずしも良い効果をもたらすとは限らないものだ。視野狭窄という言葉もある。俺は近付いてくる吸血鬼のスピードを見誤った。

 飛んで火に入る、とさえ思って拳を直に叩き込もうというときには、吸血鬼は眼前にまで迫っていた。

 それでも、殴ってしまえばそれでいい。ただし、それは向こうが何もしてこないことが前提になる。あちらから迫ってきておいて、無策であるはずもなかった。

 剥き出しの牙が星々の煌めきに鈍い色を光らせる。まずいと警鐘が鳴ったときにはもう遅い。派手に視界がブレて歪む。横っ腹が痛んだ。足元が浮いて吹っ飛ぶ。受け身を、と思考が働く前に、現状への認識が追いついた。

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