第33話

 栗飯原は何も非常識なことをしてはいない。大袈裟でどうしようもないところはあるが、きちんと業務に基づいて、ラツェナドを事務所まで連れてきてくれた。栗飯原にしてみれば、これをこなすことすら好ましくはないだろう。

 しかし、栗飯原はその点においてひとつの文句も吐いていない。日頃のしつこさを思えば、それは奇跡にも等しい空気の読み方だ。

 そうだというのに、吐息が零れるのはどういうわけか。それが栗飯原だと言えばそれまでだ。そして、そうして片付けてしまわなければ、とてもじゃないが相手をしていられない。ラツェナドも同じだろう。


「素晴らしい子であるのだけどね。彼女が私のために尽くしてくれたことはようよう理解しているけど、君も大変だったんだな」

「俺は仕事しただけだ」

「仕事だから大変じゃないってことはないだろう。警察と協力するのは簡単じゃないってのは、協会にいれば分かることも増えるよ。君が全力を賭してくれたことはよく分かるさ。それに、栗飯原さんに何かご褒美となるものをあげたのだろう? 大丈夫かい?」


 俺が何をしたのか。どういう類のものか想像ができているのだろう。心配しているように見せかけて、どこか面白そうに口角が上がっていた。

 ラツェナドは面倒くさがっているように見せかけて、栗飯原のアピールの仕方を面白がっている節がある。他人事ではいられないと話していたが、当事者になりきれてもいない。


「その心配はどういう心配だよ」

「君がほだされていないかどうか」

「そんなにチョロく見えているのか?」

「まったく見えていないよ」

「じゃあ、何の心配をしているんだ」

「それほどのことを求められたんじゃないのかって話をしているんだよ」

「お前がどこまで想像しているのかは知らないけど、常識の範疇だよ」

「栗飯原さんの常識に合わせるとセックスまで余裕で片足突っ込むと思うんだけど」

「ソファに押し倒しただけで倒れる女がそれ以上を望めると思うのか?」

「納得させるためとはいえ、もう少しマシな言い方できないのか?」

「事実だろ」

「説得力だけは満載だね」


 ひょいっと笑うラツェナドに、こちらも肩を竦める。

 栗飯原相手では盾にもならなかったが、ラツェナドは流れに身を任せてくれた。しかし、栗飯原のことが流れたことで現れたのは、決まりの悪さだ。

 俺とラツェナドがこうして顔を合わせたのは、解放を約束して握手を交わしたあの夜以来だった。解放後に顔を合わすのであれば、もう少し充足感を持っているものだと思っていたのだ。それは、恐らくはお互いに。

 あちらも、俺が事件を解決して迎えに来るものと思っていたことだろう。それが、このざまだ。

 俺は駒として動いただけに過ぎない。何もしていないわけではないが、誇れるものではなかった。手応えがないことがすべてだ。そのために、一方的な気まずさが胸に重なっている。

 ぎゅっと拳を握ると、それを見計らっていたかのようにラツェナドが小さく笑みを零した。


「大きく出たわりに、大したことができなかったなぁ、って?」


 微笑みと呼ぶような。大人の余裕というような。長命種だからこその態度で、俺を見下ろしてくる。


「……その通りだろ」


 反駁するのも馬鹿らしい。真実であるし、認めている。俺はだらりと背中をソファに沈めてへこんだ。

 もちろん、ラツェナドが無事に解放されたのは喜ばしい。そうした前向きな言葉をかけたい気持ちはあった。祝うべきなのだろう。それを行うこともせず、自省ばかりに気を取られているところも嘆かわしい。

 ラツェナドは気にしていないような緩い顔をしていた。


「君が働きかけたんだろう」

「最初はな。主導できたとは思えないし、最終的な逮捕だって周辺警護に携わっただけだ」

「なるほど。自分が勝ちどきを上げられなかったことが不服だということか」


 分かっているとばかりに零されて、俺は曖昧な顔になる。

 腑に落ちない、ということを分析すれば、そうなるはずだ。しかし、勝負にこだわっているとは思いたくはない。自分の手柄に固執するなど、見苦しいだろう。

 俺は元々、そういうタイプでもなかったはずだ。だが、ラツェナドへ啖呵を切ったのだから、という気持ちが燻っている。救ってやれなかった。そんな殊勝な感情を抱く相手か。

 吸血鬼でしかない。それも、一ヶ月半にも満たない時間しかともにしていないのだ。その相手に抱くにしては、執着心が大きい気がする。その違和感が燻っていて、単純な勝負事へ対するものとして納得がしづらい。


「……違うのかい?」

「かっこ悪いだろ」

「ちっぽけなプライドだな」


 情け容赦ない感想だ。自分でも思っているところを突かれて、ますます項垂れた。

 ラツェナドはくつりと笑いを零す。へこんでいる人間を前にする態度か。人情がないのか。不意に思うが、吸血鬼だったと何とも馬鹿みたいな感想が浮かんだ。

 笑いながらも、ラツェナドが俺の頭を叩くように撫でてくる。柔らかい手つきは、慰めるつもりはあるらしい。


「私は君の手柄であると認識している。駒であったとしても、動き出すこと自体がかっこいいとも」

「……下手な慰めはいらない」

「まったく。君がそんなに自罰的だったとは知らなかったな」

「そこまで悲観してない」

「じゃあ、何か飲み込めない具体的なことがあるのかい?」


 こちらの髪を緩々と弄りながら話を詰めてくる。

 いい歳をした……少なくとも、外見上同じくらいの青年と思しき男同士でやる慰めではない。しかし、内容は極めて普遍的だ。相談に乗ってくれているとさえ言える。

 俺は黙り込んでしまったが、ラツェナドは慌てる様子もなく待ち続けていた。


「……ラツェナドを救うのは俺だろう」


 口にすると、何ともむず痒い。というよりも、ありていにいって気色が悪い。

 自分自身でも、ラツェナドを救いたいと願っているとは思ってもみなかった。口にすると、輪郭が際立つ。物量を持ったような気がして、その重みに押しつぶされてそうになった。


「救ってくれたではないか。既に伝えた通り、私は君が尽力してくれたことを理解しているつもりだ」

「だからって」

「それとも何か? 逮捕した足で私を迎えにくる算段でもあったのか? 私は君に大人しく守られている囚われの姫でも何でもないんだが?」


 これもやはり、口にされると自分の異常性が分かる。だが、それに強く反駁を抱くこともできないのだ。

 吸血鬼を特別視して、庇護対象にしようなどと思ったことはない。いや、現実として観察対象として庇護していると言ってもいいが。だが、形式的に庇護者になるのと、そのことを心の奥底から願うことはまた意味が違ってくる。

 不思議という不透明さで見て見ぬ振りをしていた。その塊が引きずり出されるような感覚だ。そのくせ、不透明で得体の知れないものであることには、なんら変化がない。だからこそ、形を確かめられなくて、気持ちが悪い。

 困惑を隠せずに唇を引き結んでいる俺に、ラツェナドは呆れたようにとんとんと俺の頭を叩いて離れた。視線を投げると、ラツェナドは伸びをするように立ち上がっている。


「私を大事にしてくれるのは大変結構だが、君には感情を整理する時間が必要なようだな」

「……大事になんて」

「分かっていないものをやたらと否定するものではないよ。後で自分の首を絞めるのは自分だ。私も今日はもう帰るから、君はゆっくりと思考を深めればいい」

「……」


 それで答えが出るのか。先々は読めない。現在を見つめていると、出ない公算のほうが高いまである。

 というよりも、こんな不透明なものをどう可視化して納得すればいいのか。俺には手立てが見つからない。

 筋力で解決すればいい。実際、それだけではどうにもならないから頭を使うこともあるけれど、俺の元来の性質はそちらだ。経験して体感して納得する。そのためには、事象は確固としていなければならない。それが不明であるのだから、俺は掴んで確かめることができそうになかった。自信がない。

 またぞろ黙ったままの俺に、ラツェナドは仕方がないとばかりの顔を浮かべる。

 痩身の同年代。それがラツェナドの外見の印象だ。吸血鬼の特徴も抑えられているものだから、普段は年上の吸血鬼だと認識していない。同格で会話をしてくれるというのもあるだろう。

 それが、穏やかに見守られてしまうと、途端に自分が小さな子どもになったような気がした。心許ない心境が、余計に不安を増幅させるのだろう。


「何か分からなくても、私は気ままに会いに来るよ。伴君は、伴君らしくいればいいさ。それじゃあね。ずっと働きっぱなしで疲れているだろうし、休んでみたら案外さくっと答えが見つかるかもしれないしね。おやすみ」


 動揺は欠片も見当たらない。本当にさくっと答えが見つかるのではないかと言うほどに、さくっとした口調だ。

 本当にそうなればいいが、と思いながら、俺にはラツェナドを引き止める口実もない。栗飯原を見送ったのと同じように、ラツェナドが去って行くのを見送ることしかできなかった。

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