第31話
「……コネを使う気か」
忘れていたわけではない。あまりにも当たり前になっていた。
栗飯原に言質を取られないために。逃げ込める場所がない理由に。その面倒でややこしいことに。すべてに共通しているし、ラツェナドにも説明した。痛切に分かりきっていたのだ。だからこそ、逆に思い出しもしなかった。
栗飯原は我が意を得たりとばかりに頷く。
「お役に立てることですもの。利用しない手はありませんわ」
栗飯原はさも当然とばかりの顔をしていた。
いいのか、それは。浮かんだ疑問が、栗飯原の立場を利用する考えが浮かばなかった理由かもしれない。
ラツェナドが知れば、お人好しだと評するのだろうか。だが、どうしても他人のふんどしで挑むことへの躊躇いが抜けない。自分の身分であれば、同じ考えができるのだろうか。
「躊躇うことはありません」
俺の考えを読んでいるかのような追撃がきた。ラツェナドが事あるごとに言う分かりやすさなんてものは、栗飯原だって分かっているのだろう。
「栗飯原の地位を危うくすることはないか」
「一切の成果が出せなければ、責任問題が生じる可能性はありますわね」
「……それは」
「それは、伴様のことがなくとも変わりはありませんわ。わたくしたちの仕事の評価が危ういのは同じでしょう? でしたら、使える手は使うものですわ。伴様をお助けできるのでしたら、わたくしに躊躇う理由なんてありませんもの」
「ラツェナドのためになるぞ」
公私に跨がり、栗飯原の度胸を試しているようなものだ。そんなつもりはなかったが、自身の逡巡の尻拭いをさせてしまっていたかもしれない。
栗飯原は苦虫を噛み潰したような顔になる。ほとほと嫌気が差している。それだけを見れば、とても色よい返事があるとは思えないものだ。
しかし、栗飯原はダブスタを引き起こさない。矛盾した願わぬ結果が待とうとも、俺のためという柱が折れることもなければ、揺れることすらなかった。これが仕事の信頼だけで成り立っているのなら、俺だってもっと楽な気持ちで身を預けられると言うのに。
「構いませんわ。わたくし、伴様とのことに卑怯な手口を持ち込む気はありませんの。ラツェナドよりもわたくしを優先するように堂々と勝負を挑みますから」
それはそれ、これはこれ。そうけじめをつけているわけでもない。絡み合った糸を解く気すらない。すべてを飲み込んだ上で譲らないのだ。
それが自分への想いに支えられているというのは、くすぐったくもあり、申し訳なくもある。お礼のひとつでもしなければならないのかもしれない。
「……栗飯原、頼んでもいいか」
「では、ひとつだけご褒美いただます?」
何でも、と言えば迂闊なことは分かっていた。けれども、ここは頷くより他にない。いくら栗飯原からの提案で、頑として譲らないのも栗飯原だとしても、助けてもらう事実は曲がらないのだから。
「抱きしめてくださいませ」
「は?」
いや、分かってはいた。なにがしか、俺の心に付け入るような願いを口にすることは分かりきっていた。
しかし、こうも即物的だとは思わなかったのだ。いや、抱いてくださいではないだけいいことなのか。
栗飯原は自分の地位を保持するかのようなポーズを解いた。そして、俺の黒いコートの裾をきゅっと握り締めてくる。指先だけに力の入った遠慮具合。黒に引っかかる白い肌色。コントラストが目を焼いた。
「一瞬で、構いませんわ」
俯くのを止められないのだろう。伏せた睫毛が長い。影の落ちた瞳が、緩くこちらを上目に見上げてくる。薄く開いた唇は桜色に艶めいていた。頬と言わず、耳まで赤い。
積極的過ぎて手を焼いていた。そのくせ、肝心なところで照れ屋になる。まったくもって、性質が悪い。これにほだされずにいるというのは、なかなか根性がいる。……残念ながら、俺は無情であるようだったが。
栗飯原は、身を固めて俺の反応を待っていた。石像のように硬直している。これは頑丈な意志で俺の抱擁を搾取しようとしているのか。それとも、緊張感でいっぱいいっぱいなのか。どちらにしても、俺のことをひたむきに待ちわびていた。
ふぅと吐き出した息に、栗飯原の肩が大きく揺れる。やはり、緊張感のほうが高いようだ。
可愛くないとは思わない。ここまで一途に思われることに、心の底から無関心でいられるはずもなかった。けれども、反応してしまうことと感情が傾くことには差がある。
そして、俺のそれは強固で、どうしても栗飯原への愛情を抱くことはできなかった。我が事ながら、どうしてこうも頑固でいるのか。疑問は尽きないが、芽生えてこない感情はどうしようもない。
見下ろす栗飯原は身を縮めている。躊躇いはいくらでもあった。だが、これは恋愛感情のみの話ではない。俺だって鬼でもないし、自分からはいいように接触を利用している。逆を許さないというのは性悪だろう。
俺は手を伸ばして、その肩を抱き寄せて胸に抱え込んだ。栗飯原がひゅっと喉を鳴らしたのが腕の中から聞こえた。
自分から言い出したんだろう。そう思いはしたが、本当にやるとは思っていなかったのかもしれない。栗飯原からすれば、当たって砕けろ精神だった可能性はある。それを掬ったものだから、驚天動地だったらしい。
ソファに押し付けて拘束したこともあるというのに、そこまでのものか。
「助かる。ありがとう、栗飯原」
意図したわけではない。抱き寄せているのだから、どうしても耳元に吹き込むことになった。
過去、何度かやったことはある。都合の良いように利用しただけだ。だが、今回は紛れもない本心だった。
栗飯原はそれにトドメを刺されたのか。湯気が出そうなほどに真っ赤な顔になって、そのまま意識を失った。ソファでの一連を思い出せば、こうなることも想像の範疇だった。
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