第二章
第7話
不思議な感覚がした。それ以外に言いようがない。
それは吸血鬼――ラツェナドがそう言ったからとも言えるし、俺のノミのような語彙力では表現のしようがなかったとも言える。何より、自分でも自分のことが分からなかった。
初対面でもその異質性は露わになっていただろう。ラツェナドに乗せられたと言えばそれまでだが、吸血鬼と人間の関わり方について語るなんてのは、初対面の相手にはリスキーだ。
それは相手が吸血鬼であろうと、人間であろうと変わりない。一般人であろうと、ハンターであろうと一緒だ。何の関わりもない相手に政治や野球の話を足がかりにすれば地雷を踏みかねないので避けるべき、という処世術と変わりない。その術を投げ打っていた。
もちろん、一事が万事、一般論で物事が成り立っているわけではない。イレギュラーなんていくらだってある。それこそ、イレギュラーの塊のような存在を相手にしているのだから、特殊な経験のほうが多いくらいだ。
だが、だからこそ最初からリスクを負うのを避けようという危機意識くらいは持っている。それを手放して、ラツェナドとの語らいに乗っていた。
ラツェナドが友好的なことを肌で感じていたからと言っても、それは言い訳にはならない。
人間の血を吸うため。吸血鬼はさまざまな技を磨いていた。中には優しい声音で誘い出して、という籠絡の手順を踏むものもいる。いくら、すべての吸血鬼を同一視してはいないとしても、種族の性質としてあり得る生態を無視できるわけではない。心を許すにしても、時間をかけた交流があってこそだ。
昨日今日。ましてや、数十分で警戒を怠るなどハンターの風上にも置けない。だというのに。初対面の失態に反省をしていたというのに。二度目においても、俺はまたぞろ同じ失態を繰り返した。
いや、正式には違うものであるかもしれない。しかし、ハンターらしからぬやり方であったことに違いはなかった。
確かに、俺は観察対象を増やした。これはハンターとして間違ってはいない。なので、表面上。結果だけを見れば、ラツェナドに宣言したように勝利。もしくは成果に数えられてもいいだろう。
だが、内情を見れば、そんなものではなかった。ラツェナドとの会話は、柄にもなく舌が回る。自分の制御下を離れたような言葉が飛び出した。
とても、たった数十分。道端で話したことのあるものへ対するものではない。少なくとも、俺は他の誰かに同じような言葉を投げかけたことはなかった。二度目ましての相手に、これほど流暢な態度を取れるものでもない。
ハンターは客商売でもある。愛想のいいトークの引き出しはあるし、仕事である以上、こなしていた。だから、赤の他人だろうとも、交流が持てないわけではない。
だが、ラツェナドとのそれは他のものとは違うものだった。具体例を求められると困るが、自分の中では明確に区切られている。
特殊な事態がありふれているとはいえ、これはおかしなことだった。いつも特殊なのは、俺ではない。仮に応戦したとしたって、俺自身が特殊な状態になるわけではなかった。
しかし、ラツェナドの前でおかしなのは俺だ。ラツェナドが困っているからと言って、手を貸し出そうとするのも異例だった。
打算がなかったわけではない。実際、業績に繋がっているのだから、自分のマイナスにならないことは無意識的に計算できていたのだろう。
だが、その理由が不明瞭だ。おかしい。分からない。ラツェナドへ思いやりを持つことを自然としていた。
あのときの自分が分からない。ラツェナドを前にすると、どうにも自分が自分でないような感覚に陥る。愉悦を説くラツェナドの姿に、心がざわざわした。意味も分からなければ気持ちが悪くて、遠ざけてしまいたいものだ。
そのくせ、どうにもセンチメンタルさが混在している。言葉にならないマーブル模様の感情は、そのひとつひとつを感じることが難しい。混ざり合い絡み合い重なり合い。目を回して酔ってしまいそうになる。
そして、自覚のない行動を取り、見えるはずのないものを幻視するのだ。ラツェナドが片手を広げて空気を払った瞬間。俺はそこにマントを見ていた。
吸血鬼が好んで使う正装。その存在感を主張するためのアイテム。つけている吸血鬼を見たことは幾度もある。けれど、ラツェナドは前回も今回も軽めのジャケットにスラックスというどこにでもいるような人間の格好だった。
身長が高く目立つし、なびくひとつに結ばれた髪が特徴的ではあるが、それだけのことだ。若者の街へ行けば、ラツェナドなど可愛いほど、個性豊かでエネルギッシュな色に度肝を抜かれるだろう。
それほど没個性と言ってもいいラツェナドに、マントの気配など微塵もなかった。マントを外したスーツのような格好であるなら、まだ想像力であると切り捨てられただろう。だが、ラツェナドの格好はカジュアルで似ても似つかない。幻視するような要素は何もなかった。
ただ、ラツェナドが吸血鬼らしかった、というだけの話なのか。深い意味を求め過ぎているだけか。だが、吸血鬼だから、という解決法も、都合が良いような気がした。思考停止の責任転嫁でしかないだろう。
とにかく、イメージできたものはできたものということだ。それは、デジャブや既視感と呼ぶのかもしれない。
今までだって、感じたことはある。けれど、それは過去の経験によるものであって、面影のないものを唐突に思い起こすのは別物のはずだ。じゃあ、何か、と言われると答えは持たないけれど。
細胞の記憶だなんてホラーはあるまい。
伝承には元となった物語がある。どれだけ盛られていようと、くだらない発端だろうと。火のないところに煙は立たない。炎上目的の放火魔もいることにはいるが、長く残っているもの。それも長命種が口伝しているものは、一笑に付せるものではないと聞く。
かといって、眉唾も多い。審美眼ならぬ耳を磨く必要がある。それでも、中にはしつこいカビのように繰り返される伝承というのはあるのだ。
それは、かつて存在していた伝説的なハンターだとか。生まれ変わりであるだとか。姿を変えて襲ってくる妖怪の正体は吸血鬼であるだとか。いつの間にか、真実が解き明かされたものもあるほどに、馬鹿にはできぬものもある。
そのひとつが煌々と光を持ち、思考に鎮座していた。いつか、どこかで。俺は……俺ではない俺は、あの吸血鬼を知っているのではないか、と。そうでなければ分からないような感覚だった。
不思議な感覚としか言いようのない。
吸血鬼と握手だなんて、考えたこともなかった。口や頭でどれだけ思っていても、実際に対峙する吸血鬼は取り締まるものばかりだ。職業柄、それは免れない。
事件を起こしたわけではない吸血鬼にしても、関わり方は事情聴取になる。そんな業務的な関係で、握手という発想は出てこない。ラツェナドがその常識から外れたことは、特例というより他になかった。
どれだけ振り返ってみても、どうしてという疑問符に脳内が埋め尽くされる。十割を埋め尽くされてしまっては、他の何かが生まれる間があるわけもない。答えの端緒すらどこにもなかった。
結局、着地するのは不思議な感覚がしているということしかない。それはラツェナドを前にしているときが一番強いが、それでなくても一向に拭えなかった。
仕事上……というよりは、関わりを持ってしまった以上、相手のことをなかったことにはできない。こういうと、どうにも気色が悪い気がしてしまう。けれど、他に言いようもなくて、俺はほとほと参っていた。
あれ以来、ラツェナドのことばかりを考えている。
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