第4話

三、カイとサラとキスとそれから


 立運とは、節入り日から計算する。

 王子の場合、1432年11月18日0時35分生まれ、この月の節入り日は1432年11月29日17時55分。節入り日とは、その月が始まった日にちを表す。中国などで、一年の始まりが春節と言われているのが、節入りの考え方だ。

 年干が陽で男(陽)の場合、あるいは陰で女(陰)の場合、順行運といって、生まれ日から次の節入り日までの日数を三で割った数が立運日。余りは一なら切り捨て、二なら切り上げだ。

 年干が陰で男(陽)の場合、あるいは陽で女(陰)の場合、逆行運となり、生まれた日から前の節入り日までの日数を三で割る。

 沙良の場合、1995年7月5日19時11分生まれの順行運、翌月節入り日は1995年7月7日23時18分。

 2日÷3で0余り二。余りは一捨二入なので一歳となる。

 カイの立運は三歳で、沙良の立運は一歳だ。

 ちなみに、逆行運と順行運にいい悪いはなく、大運の干支と通変星が順行するか、逆行するかの違いだ。


 沙良はやきもきしていた。

「えっと、ええ、足がこんがらがる」

「掴まれ。なぜよける」

「だ、だって」

 ドレスを頼んでイルの家に帰って、さっそく沙良はダンスの練習に駆り出された。

 イルは一時魔力の修行を中断して、カイのダンスの練習を優先させた。

 こんなことなら修行のほうが気が楽だったと沙良は思う。

 ワン・ツー・スリー。王子がリズムを刻むも、どうにも沙良の足は思うように動かない。王子の足を蹴ったり踏んだり、もうどこかあながあったら入りたかった。

「ほら、また足を間違えた」

「も、申し訳ありません」

「よい。ほら、右足、左足」

 それはもう、手取り足取り教えられて、沙良は本当に気まずくて仕方がない。

 そもそも、自分が太ったのがよくない。そんなに食べている実感はなかったのだが、いかんせん、カイがわざわざ新調してくれたドレスが着られないとなると、落ち込んでしまう。

「うう、お風呂の鏡でよく見てみよう」

 一日目のダンス練習を終えて、沙良は風呂場へと直行するのだった。


 風呂場の鏡でまじまじと自分を見てみる。

 この世界に着て四か月、確かにいささか肉がついた。

「この、このお肉め」

「サラ? なにか言ったか?」

「ひぇ、いえ、なんでも!」

 基本的に、沙良はどこに行くにも王子がついてくる。魔物に襲われないためだ。

 だからといって、風呂場までついてこられたら気の休まる日がない。

 沙良はふっと息を吐いて、鏡を今一度見る。

 見慣れない顔だ。自分の顔のはずなのに、この世界の自分はひどく儚い。

「それにしても」

 なぜこの世界に転生してきてしまったのか。自分はもう、元の世界に戻れないのだろうか。

 泣けてくる。

「はあ、早く体洗って出よう」

 幾分か、肉はついた。胸や腰に。

 日本人は諸外国に比べて背は低いしスタイルものっぺりしているが、やはり西洋の血筋は怖いと沙良は思った。

 四か月でこうも体型が変わる体験なんて、この世界に来なければできなかったに違いない。


「お風呂お先でした」

「ああ」

 お風呂を上がり、濡れた髪を拭きながら部屋に戻る。カイは何食わぬ顔でベッドに座り、剣の手入れをしていた。

 そもそも、年ごろの女の子の風呂場の前で見張りをしても、なにも感じないのだろうか。

「王子さま……は」

「なんだ」

「女性には興味がない、のかなぁ」

 聞こえないようにつぶやいたつもりが、しっかり聞こえていたようで、王子があきれたよう

にため息をついた。

「俺だって、好いた女性くらいはいる」

「ええ、だれだれ。誰ですか?」

 女性、と称するからには、大人の女性なのだろう。沙良ではなく。

「……ソナタには関係のない話だ」

「ケチですね。別に話しても減るものじゃないでしょうに」

「……昔、な。迷子になった俺を助けてくれた女性がいた。うんと年上で、最初はあこがれのようなものだった」

「へえ、お優しい女性なんですね」

「ああ。その女性に――母と同じことを言われたよ」

 同じこと? 沙良が首をかしげる。

「ほら、ソナタはところどころ雑だな」

 カイは立ち上がって、沙良が手に持っていたタオルを受け取る。そのまま、沙良の後ろに回り込んで、沙良の髪の毛をポスポスとタオルで挟む。

「や、王子さま」

「ソナタの髪は、美しいな」

「……それ、子供にいうみたいですよね」

「実際に子供だろう?」

「わ、私だって!」

 むきになった。自分だって、中身は二十八の大人だ。王子よりも年上の、女性だ。そう思ってしまうのは、先ほどカイが『女性』の話をしたからだろうか。

「わかっている。ソナタを子ども扱いしているつもりはない」

「じゃあ、これはなんですか」

 ポンポンと、髪をタオルドライしながら、時折頭を撫でている。

「すまん。小動物のようで、つい」

「小動物? 私が?」

「ああ。食事をすればリスのようで、ダンスをすれば生まれたての小鹿、風呂上りは子犬のようだ」

「ほらもう、やっぱり子ども扱い!」

 ぷりぷりしながら振り返る、と、間近にカイの顔があり、沙良は思いきり後ろに退き、ベッドから落ちそうになる。

「わ、」

「っと、ソナタはほんとうにそそっかしい」

 カイは沙良を抱き留めた。慣れた手つきで。カイは困ったように笑って沙良を見下ろしている。

 しかし、自分の失態に気づいたのか「すまぬ」また、謝って、沙良から離れた。

「今日はもう、夕餉にしよう」

「そう、ですね」

「あとの護衛は師匠に任せるゆえ。くつろぐがよい」

 そう言って、カイはキッチンへと歩いて行った。


 肉とジャガイモをしょうゆのようなもので煮込む料理は、沙良だけでなく師匠のイルのお気に入りでもあった。

「これは酒に合うからなあ」

「お師匠さまは飲みすぎなんです」

「いやいや、サラにはかなわんな」

 言いながらも、またワインを一瓶あけた。お酒の味が懐かしい。沙良が酒を見つめていると、

「飲むか?」

 イルが酒を勧めてくる。

 沙良はぱっと顔を明るくして、自分のグラスをイルのほうに傾けた。しかし、その手をカイが制止する。

「ソナタ、ホットワインの件を忘れたのか?」

「え。えー、そんなお堅いことを」

「そもそもそなたは未成年。酒はまだ早い」

「うっ、それを言われると言い返す言葉がないです」

 沙良が渋々グラスを引っ込める。カイのあきれたような顔。

「そう言わずに。カイ、ソナタも飲め」

「俺はいいです。サラの護衛がある故」

「なに、今日は俺がかわる。たまにはソナタも、羽目を外せ」

 かたくなに飲もうとしないカイに、沙良はぶつくさと文句を言う。

「ああ、きっと王子さまはご自分が下戸だから、お酒を飲ませてくれないんだわ」

「なに、俺が下戸だと?」

 ピクリ、片眉を上げてカイが沙良をにらんだ。別に、にらまれたって怖くない。

 沙良がふん、と顔をそらした。

「いいだろう。俺は決して下戸ではない」

 たまにカイはこういうところがある。沙良に張り合って、むきになる一面。

 カイがグラスをイルのほうに差し出す。イルはワインをなみなみとグラスに注ぎ、カイはそれを一気に飲み干した。

「……っは。うまい」

「いいなあ、いいなあ。私も飲みたい」

「子供はもう寝る時間だ」

 食事を平らげて、沙良はしっし、とカイに追い払われる。

 カイとイルは楽しそうに昔話に花を咲かせている。

「はあ。入り込めない……」

 沙良のことなんて眼中にないようで、イルとカイは声を大きくしてカイが小さかった頃の話をする。

 聞きたい気持ちもあったのだが、なぜだか自分はここにふさわしくない気がして、沙良はダイニングを離れて自室へと戻った。


 深夜零時を回ったころ、沙良の部屋のドアが開いた。

「ねたか?」

 酒の匂いがふっとにおう。かなり近くにカイがいるらしく、なのに睡魔に負けて沙良は起き上がれない。

「ふ、可愛い寝顔だな」

 ふに、と頬を撫ぜられる。沙良が身じろぐ。

「サラ」

「おうじさま……さけくさい……」

「すまぬ。サラ」

 沙良の前髪をいじって、カイが笑う。穏やかな笑みだ。カイの本来の笑みのようにも思う。気の抜けた、柔らかな笑み。

 沙良は思わずカイの手を握って、頬に摺り寄せた。

「わたし、おうじさまの手、好きです」

 大きくて、あたたかい。沙良よりも体温の高い手が。

 カイが沙良の頬をまた、撫ぜる。

「俺も、そなたの――」

 眠気に襲われて、カイの言葉は届かなかった。カイが自分に優しくしてくれる理由を、沙良は知らない。知らないけれど、いつか教えてくれたらな、と思った。


 翌朝、カイとイルは二人して二日酔いで、今日のダンスレッスンはかなりの鬼コーチだった。

「また間違える。ソナタ、やる気はあるのか?」

「だ、だって、まだ二日目ですし」

「俺は二日目くらいには、もう踊れた」

「だ、だから、私は感覚で覚える勉強は苦手なんです……!」

 心底あきれた、というような顔に見えた。実際は、二日酔いで気持ちが悪いだけなのだが、沙良はひどくショックを受けた。

 そんなにあきれなくてもいいじゃないか。

「おうじさまなんて……」

「なんだ?」

「王子さまなんて、知りません!」

 ぱし! とカイの手を振り払って、沙良は走った。もうこんな家にいるのすら嫌だ。こんな家、出て行ってやる。聖女もやめる。もういい。帰りたい。

 ここにきて、異世界でひとりぽっちである自分が、嫌になった。


 カイが追ってこないことに落胆する。

「なによ。なっぱり邪魔者だったんじゃない」

 沙良だって社会人の経験がある。だからひとりなんて慣れっこだと思っていた。けれど実際、異世界で知り合いもおらず、腹のうちを明かせるものもいないとなると、そろそろ精神的にきつくなるのも当たり前だ。

「お嬢さん、ひとりかい?」

 考え事をしていたからか、怪しい老人が近くにいるのに気づかなかった。しかも人通りの少ない道だ。

「や、あの」

「いいね、上玉だ。高く売れそうだな?」

 げひひ、と下卑だ笑いを浮かべて、老人が沙良の手をつかんだ。

「離して!」

「離すものか。見たところ家出のようだが。ひひ、年ごろの娘は無防備だなあ?」

「やめて!」

 じたばた抵抗するも。まるで無駄だった。

 沙良の目にしずくがたまる。自分はなにをしてもダメな人間だ。カイがいなければ、イルがいなければ、こんな老人にまで負けてしまう。

「サラ!」

 まるでどこかのヒーローのようだった。颯爽と現れたカイが、老人を追い払う。

「ちっ、付き添い人がいたのか!」

「離れろ。これは俺の人だ!」

「あーあー、はいはい。そんなに大事なら、つかんで離すな。喜び損だ」

 老人が舌打ちして去っていく。

 沙良の体から力が抜けて、その場にへたり込んだ。怖かった。

「サラ、なにかされなかったか?」

「だいじょぶ、です……ごめんなさい」

「なぜ謝る……それは俺のほうだ。二日酔いなんかのためにソナタを失うところだった」

 腕を取り、沙良を立ち上がらせて、カイは沙良を抱きしめた。

 時々この王子はこういうことをする。西洋ならハグなんて挨拶も同然なのだろうが、こうやって優しくされると錯覚してしまう。自分は大事にされている、その価値がある。

 だが実際は、沙良が聖女だから優しくしてくれるだけで、沙良が聖女でなかったのなら、カイも、イルも、沙良に優しくなんてしてくれないのだろう。そもそも、沙良を許嫁になんてしなかっただろう。

「……帰るか」

「……はい」

 カイに手を握られたまま、帰路を歩く。ばつが悪くてなにも話せないのは、沙良だけでなくカイも同じだった。


 新調したドレスが届き、イルの家に届けられた。

 沙良はさっそくドレスを着ようと奮闘する。特にコルセットは一人でしめるのが難しい。かといって、この家に女はいないから、自分で着付けるほかにないのだが。

「これくらいでいいかな。苦しいし」

 適度にコルセットを締め付けて、鏡を見る。

「いや、もう少し絞ろう」

 カイに太っただなんて言われたら、沙良はまた家出をしてしまいそうだった。

「できたか?」

「はい、王子さま」

 沙良の言葉とともに、カイが部屋に入ってくる。ターコイズブルーのシルクのドレスに、銀色の靴。

「よく似合っている」

「お世辞はいいです」

 少しコルセットをきつくしすぎたかもしれない。おなかだけでなく、胸がはみ出しそうだ。

「その……」

 カイがもごもごと言葉を濁した。

「なんですか?」

「……ソナタ、大人になったな」

 どこを見てそう判断したのか、沙良にはわからない。この王子は時々デレる。しかもデレポイントが分からない。

「あ、ありがとうございます」

「んん。さあ、行くか」

 この家に踊れる場所なんてない。ふたりは晩夏の森の中で、いつもダンスの練習をしている。


 この世界の夏はあまり暑くない。特に、沙良はドレスだからそう感じるのかもしれない。カイはいつも、かっちりとした服を身に着けているから、ダンスの練習だけでも暑そうだ。

「王子さま、休憩しませんか」

「ああ」

 カイを気遣うふりをして休憩を提案したのは、靴擦れを起こしたからだった。新しい靴はどうしても靴擦れを起こす。今日届いた靴はことさら繊細で、しかも今日は朝から夕方までひっきりなしにダンスの練習をしていた。足がもうくたくただ。

「……あし」

「……え?」

 急にカイがかしずいて、沙良の足に手を触れた。

「やだ、汚いです」

「汚くなどない。見せてみろ」

 靴を脱がされ、カイが沙良の足をそっと手に取った。まるでガラスの靴を扱うかのように、沙良の小さな足を、大事に、丁寧に。

「なぜ言わなかった」

 靴擦れを見て、カイが顔をしかめた。

「いえ。王子さまのお時間を頂戴しているので、無駄にはしたくなくて……」

「はあ。ソナタ、そういうところがあるな」

「そういうところ?」

「自分を大事にしない」

 それは、と言い訳を考えて、だがなにも思い浮かばない。確かに言う通りだった。

 沙良は自分を大事にしない。されるべき人間だなんて思っていない。

「すみません。私の管理不足なんです」

「はあ。ソナタはいつもそうやって」

 ハンカチを取り出して、王子が沙良のかかとに巻いた。巻いたせいで、靴に足が入らなくなる。

「王子さま、これでは歩けません」

「歩けなければ、こうすればよい」

 カイは沙良の靴を片手にもって、そのまま立ち上がって沙良を横抱きにした。

「ひゃ!? え、王子さま、私太りましたし」

「太っていない。むしろ羽のように軽い」

「でも、王子さまに抱き上げられるなんて、恐れ多くて……」

「いい。そもそもダンスの練習は、俺のせいでこうなったからな」

「いえ……ダンスの練習は、お礼もかねて始めたものですし」

 そもそもそうなのだ。沙良はカイにお礼としてこのダンス練習に付き合っている。

 それに、ダンスの練習は沙良の為でもある。沙良はこのあと、王の生誕祭で舞踏会に出なければならない。

「王子さま、王子さまのお気持ちはうれしいのですが、私は自分で歩けるので」

「……ならば、命令だ。ソナタの傷が大事になれば、俺との舞踏会に出られなくなる。それは困るだろう? ソナタは俺の許嫁なのだから」

 そう言われては、言い返す言葉がない。

 沙良はカイの許嫁だ。そう、世間に知らしめなければ、沙良はこの世界で生きていけない。偽の聖女だと処刑されてしまう。

 それだけは避けなければならなかった。

 そう言い訳して、沙良はカイの腕の中で、カイに身をゆだねて帰路につくのだった。


 ダンス練習も一週間が過ぎた。

「一ハウスが自我、二ハウスが金銭や才能、三ハウスが兄弟や義務教育、四ハウスが家・家庭、五ハウスが趣味や恋人、六ハウスが仕事や健康、七ハウスが結婚・パートナー、八ハウスが家庭などの身近なコミュニティ、九ハウスが高等教育や海外、十ハウスが仕事や肩書、十一ハウスが友達、十二ハウスが目に見えない世界、を表します」

 一ハウスは一番左の下側から、反時計回りに進んでいく。

「なるほど」

「あとはどのハウスに天体が入っているかで占います」

「なれど、ハウスに天体がない場合は、才能がないということか?」

 カイの第七ハウス――結婚を示すハウスには天体がない。

「その場合は、星座の守護星からみます。王子さまの場合七ハウスがみずがめ座なので、みずが座の守護星は天王星。天王星は九ハウスにあるので、結婚やパートナーには知識の深さ、あるいは海外の人を求めるかもしれませんね」

 占いをしている時の沙良は生き生きしている。

「そして、四柱推命にも十二運星というものがあります。日本独自とも言われていて、その人の生き方を表します」

「ほう、生きかた」

 胎・胎内の赤ん坊。純粋さ、何事にも挑戦する姿勢。

 養・生まれたばかりの子供。

 長生・子供。好奇心旺盛。

 沐浴・小学生くらい。感受性が豊か。

 冠帯・働き盛り。力強さ。若さ。

 建禄・丁寧に積み重ねていく。

 帝旺・最もエネルギーがある時期。

 衰・本質を見極める。

 病・創造性や感受性。

 死・内面を見つめる。

 墓・自分の世界の探求。

 絶・自由な発想。


「なるほど、わからぬな」

「そうでしょう。両方一気に覚えるのは無理なので、王子さまはまず四柱推命を覚えたほうがいいと思います」

 今日も今日で、仕事の合間に沙良はカイに占いを教えている。

 先ほどの街人に、あなたは「絶」だから、自由な発想ができる人です。沙良がそう言っていたのがカイは気になったようだ。

 また、その客が四柱推命を怖がったため、とっかかりとして西洋占星術も見たのだ。

 この時代にパソコンやスマホはないから、命式やホロスコープを書くのにも一苦労だ。

 現代ならば、パソコンがあればものの数秒で導き出せる。

 ちなみに、ホロスコープの天体にはそれぞれ意味があって、その天体同士がどのようなアスペクト(角度)を取るかで占っていく。ハードアスペクトはキツい角度と言われる。180度(オポジション)、90度(スクエア)。互いに衝突したり、引っ張りあったりする。

 ソフトアスペクトは互いによい作用を及ぼす。0度(コンジャクション)、60度(セクスタイル)、120度(トライン)。

 天体の意味はそれぞれ、月・ありのままの自分。母親。

 水星・知性やコミュニケーション・表現力。

 金星・金銭や感受性、愛。なにに価値を見いだすか。芸術、バランス、調和。

 太陽・社会から見た自分。父親。

 木星・拡大と発展の星。

 土星・試練、課題の星。

 天王星・変革。

 海王星・制限を超え、理想の拡大。インスピレーション。

 冥王星・破壊と再生。今までにないものを作り出す。

「今日のお客さま。結構気に病んでいたけど、大丈夫でしょうか」

「なに。そんなに悪い内容でもなかっただろう」

「そうなんです、けど」

 いい結果を伝えても、悪い結果ばかり目に行く人間はどこにでもいる。今日の客はそんな気がして、沙良は少し気落ちした。

「空亡だって、伝えないほうがよかったんでしょうか」

「いや。別に。ソナタも言っていただろう。いいことはよく、悪いことは悪く起こりやすいだけだと」

「そうなんですけど」

 またその言葉だ。そうなんですけど、なんだというのだろうか。

「さあ、今日の仕事はもう終わりだ。ダンスの練習に行くぞ」

「あ、はい。わかりました」

 ダンスは正直苦手なままだ。ワルツのステップなんて、踊れるわけがない。ここに音楽がついたら、さらに足がもつれそうだと沙良は思った。


 ワン・ツー・スリー。

 今日もあまり足がうまく動かない。

 靴擦れはもう治ってきたのだが、何分、ステップは沙良には苦手分野のままだった。かろうじて王子の動きに合わせて、足を動かせる程度だ。

「よし、だんだん動けるようになってきたな」

「いえ、まだまだ足を引っ張るばかりで」

「……なぜソナタは、いつも自分のことを卑下する?」

「卑下なんて……だって実際、今の私じゃ王子さまのお役に立てるか」

 ダンスなんてもの、生まれてこのかたしたことがない。だから、沙良はまるでうまく踊れる自信がないのだ。

 このまま練習したとしても、自分なんかじゃ王子に釣り合わないと思ってしまう。

「大丈夫だ。ソナタはうまくなっている」

「そう、ですか?」

「そうだ」

「……なら、いいんですけどね」

 ほらまた。そう言いかけてやめた。この沙良という人間のいいところでもあるのだ。奥ゆかしさとでもいうのだろうか。

 沙良は自分を大きく見せようとはしない。しかし、小さく見せようとする癖がある。

「ソナタはどうやったら、自信をつけるのだ」

 ぼそり、つぶやく。沙良には聞こえないように。

 休憩中の沙良の背中を見ながら、カイはふっと表情を緩めた。


 ダンスの練習も終盤、夕刻、日が傾きかけた森で、それは現れた。

『ぐぉおおおおお!』

 魔物だ。魔物がふたりを襲わんと口を開いて走ってくる。

 すぐさまカイは、傍に置いてあった剣を手に取る。

「王子さま!」

 殺していいのだろうか。エルフ族は、魔物にも理性や知性があると言っていた。

「なんだ、」

 シュ、キン! とカイの剣が魔物に交わされる。かなりの強さの魔物だ。

「あの、あの……!」

「手加減せよ、というのなら無理だ。この魔物は、俺たちを殺すために向かってきている」

 ザシュ、とカイの剣が魔物を貫いた。いつからいたのか、イルも傍にいる。

 傷を負った魔物がカイに今一度牙をむく。

 カイの瞳が、きらりと光った。

「これは……!」

 見える。見える。魔物の動きが、魔力が。魔力の流れが。

 カイの魔法が開花する。他者の魔力を増減させる、魔法だ。

『グギギ……』

 魔物の魔力を減退させる。魔物の動きが一気に鈍った。そこをカイが切りつける。

 魔物の断末魔とともに、戦いに決着がつく。カイの圧勝だった。

「王子さま……?」

 魔物に勝ち、笑う王子に、沙良は少しだけ恐怖を覚えた。


 どうやら先の魔物は沙良を狙ってきているようだった。これは、沙良の魔法の修行がうまくいっていることを表す。

「聖女サラの魔力が一時的に上がったり下がったりしているようだ」

「今なら俺にもそれが分かります」

「え。私のせいであの魔物を引き寄せ……」

 カイがそれ以上は言うなと沙良の唇を人差し指でふさいだ。

「それゆえ、カイの魔法で魔力を押さえておく必要がある」

「俺の……? しかし師匠。俺にはまだそんな繊細な使い方は」

「できないと? できるできないの話ではない。できなければ聖女サラが危険な目に合うだけだ」

「……それは……」

 カイがむっと口を結んだ。

 自分にそんなことできるはずがない。そう思うも、現状、沙良を助けられるのはカイの魔法だけだ。

「やって、みます」

「ソナタならできる。なにせ、俺の弟子だからな」

 そうはいっても、全くできる気がしなかった。


 部屋に戻る。もはやカイとの相部屋もなれたもので、沙良は髪に髪留めを挿しながらドレッサーの鏡を見ている。このドレッサーはイルが買ってくれたものだ。イルはまるで、沙良に孫か子供の様に接してくるところがある。

「サラ」

 髪を梳く沙良に、カイが改まった様子で話しかける。

「なんですか」

 沙良が椅子のうえでくるりと体を回転させた。

「俺はまだ、うまく魔法が使えない」

「わかってます」

 だが、今日ので核心はわかった気がする。あと一息だ。カイの魔法は。

「それでも、ソナタを危険から救わねばならない。ゆえに、今からソナタに触れて、俺の魔法――魔力を抑える魔法を試しても、よいか?」

「かしこまって言わなくとも大丈夫です」

 沙良はドレッサーから離れ、ベッドの上にいるカイの隣に腰かけた。

「別に、電気を流されるとか、火で焼かれるとかではないんですから、大丈夫ですよ」

 そうはいっても、未知数だ。カイの魔法がどうすれば沙良にかけられるのか、皆目見当がつかない。

 カイが沙良の手を握り、目を瞑った。

「……やっぱ前言撤回。はずかしいですね、これ」

 体温の高いカイの手のひら。それが、沙良の両手をすっぽりと包み込んでいる。

 沙良の手に、カイの体温が伝わってくる。心音も伝わってくるようだった。

 トク、トク、トク。

 カイが目を開ける。

「できました――か?」

 カイがそのまま、沙良の手を引き寄せる。沙良の体が傾き、しかしカイが、沙良の顎に手を添えて、上を向かされる。

 そのまま沙良の唇がカイのものに触れて、瞬間、ずずず、と沙良のなかのなにかが抑え込まれるのが分かった。

 カイの魔法だ。しかし、それどころではない。なにを、今、なにをされた?

「や……!」

 ばし、っとカイを押しのけて、沙良は唇に手の甲を当てて顔を真っ赤にカイを見た。

「な、なに、なにを……」

「……! す、まぬ……体が勝手に……」

「……勝手に、って……いや、もしかして、魔法の条件が、き……す、とか……?」

 おろおろする沙良に、カイは立ち上がって沙良から距離をとる。

「頭を冷やしてくる。その間、ソナタは師匠のもとへ」

「……はい」

 ふらりと立ち上がって、沙良はイルの部屋へと歩いていく。もう、なにがなんだかわからない。沙良はカイの心が全く分からず、だけれどこのことを、イルには知られてはならないと思った。


 翌朝、カイはいつものように沙良に接してきた。昨夜のキスのことはもう忘れたのだろうか。沙良はいまだに動揺しているというのに。

「おはよう、聖女サラ」

「あ。おはようございます、お師匠さま。……おうじさまも」

 しかし、カイの返事はない。いつも通りだ。

 各々に席につき朝餉を取る。今日のカイのご飯もまた、おいしい。

 今日はほかほかのパンにジャガイモのスープ、ポーチドエッグなど、盛りだくさんだ。

「サラ。食事が終わったら、今日もダンスの練習に行くぞ」

「はい」

「あと、占いだが、今日も同席する故」

「わかり、ました」

 やはり、カイは昨日のことを医療行為かなにかだと思っているに違いない。


 ダンスの練習なんて、身が入るわけがない。密着すると、昨日のことが思い出されて、沙良はいてもたってもいられなかった。早く時間よ過ぎてくれ。早く占いに行きたい。

 沙良はそればかり考えて、結果、今日もまたうまく踊れない。

「やる気はあるのか?」

「あ、ありますよ」

「そうか? 今日は特にひどいが」

「それは……それは、王子さまのせいでしょう!」

 思わず当たってしまう。もう、なにがなんだかわからない。カイのことが頭から離れない。どうしてくれるんだ。

「俺のせい……?」

「そうですよ、昨夜王子さまが私に触れるから、私はそれが忘れられなく――」

 つらつらと文句を垂れて、しかし沙良は口を結んだ。カイが耳を赤くして沙良を見ていたからだ。

「そんなに嫌だったか」

「や、嫌、とかではなく」

 そうだ、なんで自分はこんなに動揺している? カイとのキスが嫌だった? カイが嫌い? カイとは許嫁なのだから、カイが沙良になにをしても、世間的にはおかしくない。

 だったらなんで、自分はこんなに怒っているのだ?

「や、あの。王子さま。は、慣れているかもしれないんですが」

「なれてなどいない」

「あ。え?」

「いや、いい。ソナタの気持ちはよく分かった」

 なにか誤解をされていそうだ。しかし、訂正するのもはばかられた。もしここで沙良がカイとのキスを肯定すれば、沙良はカイが好き、だということになる。

 嫌いではない、嫌いではないのだが。沙良は自分の気持ちがわからなくなった。

「私なんかに好かれても、王子さまは混乱するだけ、だし」

 そもそも、沙良がカイの許嫁とされたのは、沙良が聖女だからだ。だったら自分の価値なんて、それだけだ。聖女である自分には価値はあるが、それ以外はてんでダメ。

 ダンスもできない、聖女の力も使えない、制御できない。取り柄と言ったら占いくらいで、沙良にはなにもない。

「なんか、落ち込むなあ」

 沙良のつぶやきを、カイは聞いていた。すべて。一言一句逃さずに。

 カイは思う。沙良は自分を卑下しすぎなのだ。

 そのうえで、わかったことがある。沙良は自己肯定感が低くなんでも否定的にものを見る。それは、カイ自身も同じことが言えるのだと、カイは沙良を通して自分を見ることができた。

 だからこそ、カイは沙良より先に魔力の核心を見た。


 翌日、カイは沙良に一日の休暇を提案した。ここのところ毎日のようにダンスの練習をしていたし、そのほかの時間は占いに時間を当ててばかりで、沙良には休日が必要なのではとの心遣いであった。

 占いも休んで、沙良はこの世界に来て初めて、なにもしない一日を過ごすことになった。

「暇……」

 だからと言って、沙良にやりたいことがあるわけでもなく、そもそも元の世界では、休日にも占いの勉強や仲間内での勉強会で忙しく、思えば沙良の人生は占いに始まり占いに終わるようなものだったのだと思い知る。

「休日、っていっても……王子さまが必ず傍にいるし」

 そうなのだ。休日と言っても、部屋の外には王子はいるし、出かけるにしても少し離れたところに王子が護衛でついてくることになるだろう。それは休日と言えるのだろうか。

「うーん、暇だし街に行ってみようかな」

 今もなお、部屋の外でカイが気を張って見張りをしている。沙良が街に出ればカイの護衛は家のようにはいかなくなるだろうが、いかんせん息抜きがしたい。

 カイが傍で見守っていようが、外出は外出だ。気分転換に沙良は、この家を離れたかった。

 それは、この部屋にいると、カイが沙良にキスしたことを思い出してしまうからかもしれない。


 街に繰り出す。

 市場には活気があり、人々でにぎわっている。

「あ、占い師さま。今日はおひとりで?」

「あ。はい。今日はお休みをいただきまして」

「そうかい。うちの女房が、感謝してました。最初は自分の人生を盗み見られているようで気味が悪かったって言ってたけど、でも、占い師さまのいう通り、自分のことが分かると生きやすくなったって」

「へへ……それは占い師みょうりに尽きます」

 沙良は照れたようにおくれ毛を耳にかけた。

 その背後五メートルほどの場所に、カイが外套をまとって沙良を見守っている。

 沙良からカイは見えないのだが、沙良はカイを無意識に信用しているため、ひとりで出歩くことに恐怖はない。

「でも」

 しかし、現状沙良は、魔物に狙われている。自分が街に長居すれば、ヨルの魔物や、そうでなくても魔物を引き付ける沙良の体質だ、魔物が現れる前に街の散策は切り上げるべきだろうと今になって気づく。

「……そうだ、そうだよ……」

 そもそも、魔物を引き寄せる自分が、こうやって自由に出歩くことなんてありえない。

 少し考えたらわかることだろうに、沙良は足早に街を後にする。早くひとけのない場所に移らねば、またいつ魔物が現れてもおかしくない。


 とはいえ、イルの家に戻るのも気が引けた沙良は、街の外れにある湖に足を向けた。

 前々から、占いのお客さんにお勧めされていた絶景スポットだ。

「本当にきれい」

 琵琶湖ほどの大きさはないが、水が澄んでいて、魚が泳いでいる。

 晩夏ということもあり、沙良は靴を脱いで湖のほとりに座り、足を水につける。

 冷たくて気持ちよくて、なのに涙が出た。

「なんで私……異世界なんかに」

 ひとりはよくない。ひとりになるとより一層孤独を感じて泣きたくなる。

 正確には、カイが傍にいるのだからひとりではないのだが、沙良はあふれる涙をこらえきれなかった。もしかしたら本当は、カイに自分が悲しんでいるところをわざと見せつけたかったのかもしれない。自分は最低だ。

「見つけた、見つけた、この!」

 沙良が感傷に浸る間もなく、カイの護衛をすり抜けて、ひとりの男が沙良に走り寄る。

 沙良はとっさのことに足がもつれ、立ち上がれずに湖に足をすくわれ、転んだ。湖の水に体が半分浸かり、ひやりとした。

「アナタは……」

「そうだ、覚えてるか? 俺の運勢が凶だって? オマエのせいで、俺は不幸になった。占いのせいで、怖くて怖くて、毎日おびえて暮らしてるんだ。くうぼう? てんちゅうさつ? オマエは占い師じゃない。魔女だ。人の運命を弄ぶ、魔女だ!」

 この手の言いがかりは慣れている。慣れているが、それがイコール悲しくないわけでは決してない。

 心無い言葉には当たり前に傷つくし、自分の占いでひとの人生を狂わせれば、後悔の念にだってさいなまれる。占い師だって人間なのだ。感情だってある。

「わ、わたし」

 沙良は水に足をすくわれて立ち上がれない。男が沙良に危害を加えんばかりの勢いで迫ってくる。

 おかしい。

 あのカイの護衛をすり抜けるなんて。

 しかし、沙良を害することはなかった。

「おい、オマエ。俺の女性になにをしている?」

 カイが男と沙良の間に割って入ったからだった。

 男は以前、沙良の占いに足を運んだ客で、だからこそ、沙良には責任がある。この男の人生を預かる責任。自分の占いの結果を正しく伝える責任。

 だけれど、どうあがいたって、占いと相性の悪い人間はいる。そういう人間に理屈も理論も通じないのは、前の世界で痛いほど思い知らされた。

 カイが男の手をつかみ、威嚇している。

「なんだ? オマエは確か、この占い師とともにいた男……」

「そうだ。そしてこの娘は俺の許嫁だ」

「はっ。占い師さま。アンタ自分の男と一緒に俺の占いをしてたのか? そんな不埒な気持ちで俺にくうぼうだのなんだのって言ってたのか?」

「そうじゃ、そういうわけじゃ……不埒なんか……私はいつだって、占いには真摯にむき、あって……」

「じゃあなんで、この男が占いの席に同席したんだよ?」

「それ、は……」

 カイが占いの勉強をしたいと言ったからだ。そして、沙良の護衛も兼ねている。

 しかし、男の言い分ももっともなのだ。カイは毎回占いの席に同席するわけじゃない。

 まず、相談者に許可を得てから、同席してもらうようにしているのだ。

「はっ。この魔石を使って正解だった。占い師、オマエの男はただの占い師見習いではないな?」

 赤い魔石をチラつかせ、男がカイをみてニヤリと笑った。魔石。沙良の髪留めも魔石の一種だが、男の魔石はそれこそ、禍々しい光を宿していた。

「ソナタ、それをどこで」

「さあ。王子を名乗る子供にもらった」

 ヨルのことだ。

 カイが顔を歪める。ヨルは魔物を兵にするだけでは飽き足らず、市民に怪しいものまで売りつけているのだろうか。

 恐らく、魔石の力でこの男は、カイの護衛をすり抜けたのだろう。

「オマエ、占いなんて嘘だろ。俺の人生を奪った魔女が!」

 カイに腕を掴まれてなお、男は沙良を責めるのをやめない。

「……私。は。言いました。空亡と言って、良いことはよく、悪いことは悪く出やすい時期だと。でもそれは、例えば風邪を引いたなら、普通の年なら軽く済むところを、空亡の年は風邪をこじらせやすいようなものだと。だからこそ、普段から風邪をひかないように丁寧な暮らしをすれば怖いことなんてないと」

「……だが、もし風邪をこじらせたらどうする?」

 マイナス思考に陥る人間には、占いは向かない。一昔前は、占いでは、相談者を依存させろ、なんて言う占い師もいたくらいだ。

 だが、それは違うと沙良は思う。沙良は、占いを正しく人生に役立ててほしい。

「空亡だからと怖がっていては逆効果です。空亡でも何事もなく過ごせるように、あらかじめ対策を講じられるのが占いの長所です」

「だから、対策したって空亡は来る」

「……空亡でもなにも起こらない人はたくさんいます。私はアナタに、いたずらに占いを怖がってほしくないんです」

 沙良の言葉は、きっと一生男には通じないのだろう。男は今にも沙良につかみかからん勢いである。カイが抑え込んでいるからそうできないだけで、この男は最初から占いを受けるべきではなかった。

「痛っ、はなせ、」

「ここを去るなら離してやるが」

「ぐっ、くそ、くそ、くそ! 魔女め、魔女。悪魔、この、くそ女!」

 最終的に、男はなにを納得するわけでもなく、カイに脅される形でその場を去った。魔石はカイが男から取り上げた。

 後味の悪い沙良は、湖の水に浸かった体を起こせないでいた。

「ほら、立て」

 見かねたカイが沙良に手を差し伸べるまで、沙良はただぼうっと、その場に座り込むだけだった。

 カイが沙良の手を取り立ち上がらせる。ドレスがびしょびしょだった。

 カイが自分の上着を沙良の肩にかけてやる。

「寒くないか?」

「いえ……」

「震えているが?」

「……! それ、は……」

 怖くなかった、と言えばうそになる。沙良は自分が震えていることに気づき、自己嫌悪した。

 占いはしょせん占いだ。すべてを信じる必要はない。その人にとって有益な部分だけを参考にして、人生の役に立ててほしい。

 それでも、全員が全員、そうはいかないようだ。

 沙良はここにきて、やはり自分には占い師は向いていないのではないかと迷いを見せた。

「大丈夫だ」

 ふと、カイが沙良を抱きしめた。

「なにが、ですか?」

「ソナタの占いは、みなの人生を豊かにしている」

「……でも、全員が幸せになれるわけじゃないです」

 ハッとする。沙良はきっと、自分の占いで誰かを幸せにしたかった。いや、『誰か』ではない。沙良は、自分が手の届く範囲の人間すべてに、幸せになってほしい。

「サラ。帰ろう」

「王子さま、は」

 カイは今、幸せなのだろうか。自分を許嫁にして、あまつさえ沙良は、カイを王に据えようとしている。

「どうした?」

 カイが沙良に笑いかける。そのままカイは、沙良を軽々と抱き上げた。

「わ、王子さま、重いですので」

「いや。ソナタ、震えていてまともに歩けまい。それでサラ、俺になにか言いたいことがあるのではなかったのか?」

 また、ふわりとした笑みを向けられて、沙良はなにも言えなくなってしまった。

 こんな風に笑う人だっただろうか。カイはもっと、冷静沈着で人生をあきらめて、自分を嘲笑するような、陰のある人間だったと沙良は記憶している。

「王子さま、変わりました?」

「ん? 変わったのはソナタのほうだろう?」

 こつ、と沙良のおでことおでこを合わせて、カイは湖のほとりから離れていく。

 夕日に染まるカイの銀色の髪が美しくて、沙良はカイを直視することができなかった。


 イルの家に戻ると、びしょ濡れの沙良を見てイルが眼を真ん丸にしていた。

「どうした、そのかっこうは」

「いや、ちょっと足を滑らせました」

 沙良が嘘をつく。しかし、そんな嘘、イルでなくても見抜けるだろう。しかし、沙良の表情に、イルはそれ以上追及することはなかった。


 濡れたドレスを脱いで、お風呂に直行する。

「王子さま、いますか?」

「いる。なにか用か?」

「いえ、なんでも!」

 普段なら風呂場の外にカイがいることが嫌だったが、今日はなぜだか怖くて、定期的に外に声をかけて確認してしまう。

「王子さま?」

「いる。どうした、なにかあったか?」

「いえ。シャンプーが切れそうで」

 それは本当だ。断じて嘘ではない。

 カイはふっとため息をついて、沙良は風呂場のドアを少しだけ開けて、シャンプーの容器を外に出した。

「お手数おかけします」

「ああ……。! なん!?」

 ボトルだけ手に取るはずが、沙良がカイの手をきゅっと握ってくる。どどどど、カイの心臓がわなないた。なにを。

「王子さま、私」

「……ああ」

 湿った小さな手が、自分の手を握りしめている。風呂にいるからか、沙良の手は熱い。

 カイは自分の心音がバレるのではないかとはらはらした。この娘は、いつもこうして自分の平常心を奪っていく。

「王子さまが『私の占いが、みんなの人生を豊かにしている』って言ってくれて、本当はものすごくうれしかったんです。うれしかったのに」

 素直に受け入れられない。自分にはそんな価値がないのだと、どうしてもそう思ってしまう。

 沙良がカイの手をより強く握りしめる。

「サラ?」

「私、最初は王子さまって、私とおんなじだと思っていました」

 そもそも、カイのほうから沙良に言ったのだ。カイと沙良は似ていると。どちらも出来損ないだから、と。

 なのに最近のカイは頼もしくて、さっきだって、あんな風に柔らかに笑う人だなんて知らなかった。どきどきした、認めたくないが。

「王子さまに、おいていかれるのが嫌。なんて、私、嫌な人間ですよね」

 沙良はどこかで、カイに魔法が使えることが悔しくてたまらなかった。自分だってやればできると思っていた。なのにカイが先に魔力を扱えるようになって。そのうえ、あんなこと――キスされて、沙良は自分の気持ちも、聖女として頑張ろうと思っていた気持ちも、なにもかも信じられなくなった。

「悪かった、と思っている」

「王子さま?」

「キスしたことは……無意識だったとはいえ、悪かったとは思っている。だが俺は、後悔はしていない」

「それは、私を許嫁にしたことに対してですか? キスに対してですか? 自分のほうが先に魔法が使えるようになったことに対してですか?」

 矢継ぎ早に言われて、カイは言葉を詰まらせた。

「……ぜんぶだ」

 小さく、消え入りそうな声だった。カイらしくない、緊張の入り混じった声。

 カイは濡れた沙良の手を握り返し、離す。

「シャンプーを詰めてくるゆえ、ソナタはいましばしそこで待っていろ」

「……ずるいですね、王子さまは」

 沙良のほうこそ、とカイは思った。沙良がずるいと言ったのは、カイのどの態度に対してなんだろうか。カイはそれを、ついぞ聞くことができなかった。


 沙良が風呂を終えて出てくると、カイとイルは真剣な面持ちで魔石を見ていた。

「師匠? 王子さま?」

「ん。ああ、サラ。出たのか」

「はい……その魔石」

 現状沙良は、魔力が扱えない。感知もできない。なのに魔石に感じるひやりとした違和感に、沙良は魔石を直視したくなかった。

「この魔石は、普通の魔石とは違う」

 だから嫌な感じがするのか。

「俺はこの魔石を扱うことができぬ。ゆえに一時的に師匠が魔石の力を封じる。が、最終的にはサラ」

 カイの言葉は、最後まで聞かずともわかった。

 魔石の力を解放するのも正すのも、浄化するのも聖女にしかできない。

 沙良はよりいっそう修行に打ち込まねばと決意する。だからといって、それがそう簡単に行かないこともわきまえていた。


「ええ、王子さまの修行は終わり?」

 わかっていたことだが、実際に告げられると沙良はどうしても驚かずにはいられなかった。昨日のこともあって、沙良はカイに普段通りには接することができない。

「ああ。この馬鹿弟子も、ようやく魔力のなんたるかを分かったようだからな」

 魔力は体の中を巡る血液のようなもの。目でも耳でも鼻でもなく、心で感じ取るものだ。

 流れに身を任せると、自分の中に魔力が流れていることに気づく。感じる。それはにおいたつようでもあり、全身を満たすあたたかさでもあった。

「私はまだ……魔力を全然感知できないのに」

 くわえて、明日からカイと沙良は、王都へ向かう。王の生誕祭の舞踏会に参加するためだ。正直言えば、気が重い。沙良はいまだに、カイを意識してしまっているのだ。

 だから沙良は乗り気ではない。ダンスの練習も、修行も、どちらもうまくいっていないからだ。これではカイの足を引っ張ってしまう。

「いた、あ、すみません」

「いい。ステップは覚えた。あとは本番で慌てなければ大丈夫だ」

「うう、自信ないです」

 そもそも、男性と体を密着させてダンスを踊るなんてこと、恥ずかしくて出来ないのだ。カイはいいにおいがした。香水だろうか。

 手の温度は思ったよりも高く、熱いくらいだった。腰に添えられた手は、優しく、まるで割れ物を触るかのように繊細な手つき。

 リードして踊られると、錯覚してしまう。この人は自分の許嫁なんだ、と。

 しかし、実際は沙良とカイはそんな甘い関係ではないのだから、このダンスの練習も、あまつさえ本番の舞踏会も、油断だけはしてはいけない。

「はあ」

 休憩時間、沙良はことさら落ち込みを見せた。こんな気まずい状態で、カイとダンスなんて披露できる自信がない。それに、明日は王の生誕パーティだと聞く。それならばなおさら、粗相するわけにもいかなかった。

 なのに沙良は、いまだにダンスがうまくならない。自分でも常々言っているが、沙良は感覚的なことが苦手なのだ。だから、タロット占いではなく、四柱推命や西洋占星術に興味を持ったのだから。

「サラ。ため息をつくと幸せが逃げるぞ」

「や。あ……」

「……まあ、そのため息の原因が俺なのだろうが」

 自覚はあるようで、カイは沙良の隣に座り、沙良に水の水筒を渡してくる。

「わ、え?」

「飲まないのか? いつもは飲んでいただろう?」

「あ、はい」

 それは確かに、飲んではいた。だが、今、ふいに突然気づいてしまったのだ。これは、間接キスなのでは。

 そもそも、カイにとってキスなんてものはあいさつ程度のものなのかもしれないが、日本育ちの沙良にとってそれは、かなり重大な意味を持つ。

「サラ? 俺の顔になにかついているか?」

「や、いえ。あの」

「……まあ、俺だって、社交場は緊張する……嫌いな男と踊るとなれば、なおさらだ」

「違う! んです!」

「違う?」

「や、いえ、あの」

 とっさに否定してしまったが、なにをむきになっているのだろう。『嫌い』という言葉は確かに違う。ならば好き?

 いや、自分はカイを王子として尊敬はしているけれど、でもこれは、ライク? ラブ?

「いい。ソナタが俺を好いていないことは最初からわかっていた。そのうえで、俺は俺の意志でソナタを許嫁にした」

「王子さまの意志、ですか……?」

「……少ししゃべりすぎたな。さて、午後の練習に入ろうか。夕方からは占いの仕事も入っていただろう?」

 はぐらかされた気もするが、それでいいと沙良は追及しなかった。それ以上聞いてしまえば、カイに情が移りそうで怖かったからだ。

「気を付けなきゃ」

 勘違いなんかするものか。沙良は気を引き締めて、午後のダンス練習にいそしむ。

「ほら、ここはいつも間違える」

「すみま、ああ、おみ足を踏んでしまいました!」

「いい。ソナタは慌てると失敗しやすくなる。ゆっくりやってみよう。ワン・ツー」

 明日はいよいよ城での生誕祭が開催される。だというのに、カイに焦りの様子はなく、最後まで沙良のダンス練習に根気強く付き合ってくれた。それが沙良には、申し訳なかった。


 ダンスの練習後には、ひとりだけ占いをして、今日の仕事はすべて終了となった。

 カイとの相部屋ももう慣れたもので、沙良は寝る前のナイトキャップを、ベッドに座りながらかぶっている。

 傍ら、今日もカイは座ったまま護衛をしながら寝る気らしく、沙良の身支度を微笑みながら見守っていた。

「……王子さま、私になにかついてます?」

「ソナタこそ、昼間、俺の顔をまじまじと見ていただろう? それと同じ理由だと思うが?」

「え?」

「冗談だ。早く寝ろ。明日は早いぞ」

「……わかり、ました」

 うまくはぐらかされた気がする。

 沙良が昼間にカイを見つめていたのは、カイを意識してのことだった。それなのに、同じ理由で沙良を見ていた? そんなはずがない。

「おやすみなさい、王子さま」

「ああ。いい夢を」

 普段はそんなこと言わないくせに。明日のことを思うと、夢の中でまでダンス練習をしそうだな、と沙良はベッドに横になった。


 四か月半ぶりの城に赴けば、やはり白い目でカイを見る召使いたち。カイは慣れっこだろうが、沙良は威嚇するように召使いたちをにらんでいる。

「目つきが怖いぞ」

「だって、みんなが王子さまを馬鹿にするから」

「言いたい奴には言わせておけ。俺は一人でもいい、俺を理解する人間がいればそれだけで生きていける」

「一人、いるんですか?」

 きょとん、と固まった沙良を見て、無自覚なのか、とカイはため息をついた。カイを認めてくれる唯一の人間、それは今、カイの隣にいる沙良に他ならない。

「鈍いにもほどがある」

「え、なんです急に」

「いや……さて」

 ドレスの裾を踏まないように、カイと腕を組んで舞踏会の会場までを歩く。雑談をする余裕があるくらいには、ドレスにも靴にも慣れた。が、苦手なことには変わりない。

 舞踏会の会場の扉が開く。

 瞬間、きらびやかな光がふたりを迎えた。

 豪華なシャンデリア、色とりどりのドレスやタキシード、料理の数々。そして、一番高い席にいるのはこの国の王。

 この客の数が、王の人望を物語っているようだった。

「すごいですね……王さまって木星がMCにありそう」

「またソナタは占いに結び付ける」

「あ、すみません」

 カリスマ性があり強運を持つ人間は、ミディアムコエリに木星があったり、木星と冥王星がコンジャクションだったりすることが多い。また、四柱推命では一行得格局といって、かなり強い命式を持っていそうだと沙良は思った。

「挨拶に行くぞ」

「はい」

 背筋をピンと伸ばし、かつかつとヒールの音。誰もが見入っている。沙良に。

 しかし、沙良はそうは思っていない。沙良が物珍しいから注目を集めているだけだと思っている。

「第三王子は放蕩王子だと聞いていたけれど、あの許嫁……完璧すぎて怖いくらいですね」

「ええ、あの娘。気品があって堂々としていらっしゃるわ」

 ひそひそと皆が沙良に注目する。

 王の席まできて、カイは恭しくこうべを垂れた。

「この度は、お誕生日おめでとうございます、父上」

「ああ」

「あ。おめでとうございます、王さま」

 次いで沙良も頭を下げる。王が「ありがとう」とほほ笑んだ。

 ドキドキした。王のそのほほえみには、温かい、慈愛が感じられた。一国の王たるもの、威厳だけではやっていけない。この王は、聡明で慈悲深い王なのだと、沙良は占いをする中で、いろいろなうわさ話を聞いた。そのうわさ話はどれもプラスのもので、悪い噂を聞いたことはついぞなかった。

「聖女サラ、カイの世話は大変じゃないか?」

 王が立ち上がり、沙良の耳元でささやいた。

「と、とんでもございません! 私のほうが助けられて!」

 小さく、だけれど裏返った声で沙良は答えた。カイには聞こえないように、ふたりで顔を見合わせて、笑う。

「ソナタのことは、カイの手紙で聞いている。ソナタはやはり、聖女なのだな」

「や、それは、その……」

「王位継承のことも、ソナタが目指す世界も。この国の悪も。すべて聞いているよ。そのうえで、謝ろう。わたしには、今の悪を正す力がもう残っていない」

 力なくこぶしを握る王。

「わたしの余命は、持って半年」

「な……え、王子さまはご存じだったのですか?」

「知っている」

「知ってるって……ならなんで、城で暮らさないんですか!? あと半年しかないんですよ!?」

 沙良が声を荒らげたことで、周りが沙良に注目している。沙良はなりふり構わずカイを責める。

「実のお父さまなんでしょう?」

「俺が一緒に住んだところで、父上のご病気が治るわけでもあるまい」

「そういう問題じゃない、一緒にいられる時間に限りがあるのに――」

 それ以上は言うな、そう言いたげにカイが沙良に手をかざした。むっと口を結んで、沙良はカイをにらんでいる。

「親不孝だと思うか? だが、俺がこの城に居座れば、いつ魔物が襲ってくるかもわからない。そうなれば、半年もたたずに王さまが死ぬこともありうるだろう?」

 そんな、そんな、と沙良がしずくをこぼした。まぎれもなくカイは、王を愛している。そして王もまた、カイを愛している。

 カイだけじゃなく、王は四人の王子すべてを愛しているに違いない。だからこそ、四人全員に王位継承権を与えた。それが争いのタネになるとわかっていても。

「わたしは今日、この場で宣言する」

 カイと沙良が去った後で、王が席を立ち、客人全員に向けて、たからかに、

「四人の王子の王位継承権のことだ。王になるのは、国民から最も支持された王子に譲ることとする」

 わあっと会場がわいた。そんなの、カイに不利すぎる。カイは平民の母親の子供だ。この国の誰もが知っていることだ。

 平民の子供は平民。貴族にはなれない。貴族はみんなそう言うし、平民もまた、カイの味方なんてしなかった。

 王とは特別な人間がなるもの。ならば、貴族という血筋を持たぬカイは、王にふさわしくない。誰もがそう、思った。

 沙良以外は。

「王子さま。こんなことは言いたくありませんが」

 王子の手を取り、沙良が力強く笑った。

「王さまは『国民から』最も支持された、とおっしゃいました。つまり、勝機はそこです」

 沙良の言いたいところはよくわかった。貴族はどうあがいても、平民の母親を持つカイを受け入れないだろう。ならば、市民を味方につければいいだけの話。

 しかし、それがそう簡単ではないことも承知の上だ。承知の上で、沙良は王子を王にしたいと、心の底から思ったのだった。


 ダンス会場は広く、曲は生演奏。

 沙良は王子と体を密着させ、優雅にダンスを踊っている。まるで花から花に渡る可憐な蝶のようだという人間もいれば、花の妖精のようだという人間もいる。

 それくらい、今日の沙良は美しかった。それはカイも認めている。認めているからこそ、大事に大事に自分の後ろに隠したくなる。これは自分だけの花なのだ。

「ふふふ。なんだい、思ったより元気そうじゃない」

 話しかけてきたのは第一王子イセラだった。沙良のダンスを見て――いや、成長期の沙良を見て、嫌らしい笑いを浮かべている。

「胸も大きくなって、背も少し伸びたのかな? いやあ、こんなに変わるのなら、カイではなく、私の許嫁にならないか?」

「……や、です」

「……! はは、生意気な娘だこと」

 びき、とひきつった笑いを浮かべながら、イセラはずいっとカイに詰め寄った。

「残念だねえ、許嫁がもっと権力のある娘だったら、あるいはオマエも王位継承者として認められたのに」

 あれ。と、沙良は気づいた。沙良が優れていれば、カイの株が上がる。ならば、沙良は自分が有益な人間だと、この場でその証拠を示せばいい。

「イセラ王子さま。私、ひとつ申しあげていないことがありました」

「なんだい?」

 カイも意外だったらしく、目を真ん丸にして沙良を見ている。沙良はすっと息を吸い込んで、

「私、聖女なんです」

「……は? ふはは、あはは。なんだそれ、嘘をつくにしてももっとうまい嘘を」

 イセラが高笑いを漏らす。しかし沙良は大まじめだ。

「では、証拠をご覧になりますか?」

 今まで、意図して聖女の力――加護魔法や他者の傷を癒やす魔法を使えたことはない。だが、今使えなくていつ使うというのだろうか。

 沙良は髪に挿したピンを抜き取り、自分の手の甲に突き刺した。

「気でも触れたか」

 イセラの冷たい目。しかし、沙良が手の甲に自分の手のひらをあてがうと、ぽぽぽ、と緑色の光が沙良の傷を癒やしていった。

 傍ら、カイがはらはらした目で沙良を見ていた。

「なん……癒しの魔法は聖女以外には使えないはず……よもや、ソナタはまことに」

「はい。私は聖女にして、この第三王子カイさまの許嫁です」

 ぎり、とイセラが唇をかんだ。よほど悔しかったのだろう。その悔しさは沙良ではなく、カイに向いた。

「なぜ貴様が聖女を……聖女を許嫁になど、わたしが許さん」

「許すもなにも。カイ王子は私が聖女の力を発揮する前から私を許嫁としてくださいました。だから私は、私のすべてはカイ王子のものです」

 内心では、聖女の力を使えたことに安堵して、立っているのがやっとだった。言い返したのはただの意地だ。ざまあみろ。カイはその人徳ゆえに、沙良という許嫁を得た。

「この、この、この!」

 地面を何度も踏みしめて、イセラがカイをものすごい剣幕でにらみ上げる。しかし、カイは素知らぬ顔で、沙良を連れて舞踏会の会場を後にする。


「どういうつもりだ!?」

 舞踏会の会場を出て、今日泊まる部屋に沙良を連れてきて、カイはいよいよ怒った。

「ですが、王子さまのことをあんまりに言うので」

「ああ、ソナタは本当に軽率だ。ソナタが聖女だということは、明日には国中に知れ渡るだろう。そうしたらソナタは、今までのようには暮らせぬのだぞ?」

 わかっている、つもりだった。だが実際、そう話は簡単ではないようだ。

「もう師匠の家には住めない。聖女には厳重な見張りが付けられる。加護魔法を施す日まで、逃げられないように。加護魔法をかけた後も、ずっとこの国から出られない。城からもだ。本当に、どうしてくれる……」

 さあっと血の気が引く。

 沙良は少々気性が荒い。それはわかっていたはずなのに、カイもあの時、沙良がイセラに言い返すのを止められなかった。カイ自身も、本当は言い返したかったからだ。

「王子さま。私はもう、自由は望みません。でも、王子さまには王になっていただきたいです」

「……それは俺も同じ気持ちだ。だが」

「大丈夫です。私たちの会話を聞いていた人たちはいませんでしたし……」

「……今日はもう疲れただろう。対策は明日、考えることにしよう」

 ぼそ、とつぶやいて、カイはベッドに腰かけた。

 沙良も離れた壁際にあるベッドに腰を下ろす。そろりとカイを見やれば、頭を抱えてうなっていた。


 しかし、翌日になっても、沙良が聖女だということはうわさどころか、知るものすらいなかった。どうやら杞憂に終わったらしい。イセラはあの会話を、誰にも言わなかったようだ。

 なぜだろう。

 そもそも、沙良が聖女だと知られたら、カイの許嫁が聖女だということになる。つまり王位継承争いに不利になるからでは、と沙良はそう結論付けた。

「王子さま……寝てる……?」

 珍しく、王子はベッドに横になっている。寝ているのか一応確認して、返事がなかったため沙良は一人で風呂に向かう。昨日は風呂どころではなかったため、今日は朝一番で風呂に行こうと決めていたのだ。

 本来ならば、カイと別行動は絶対にしない。するなときつくカイに言い聞かされているからだ。だが沙良は、昨日自分が聖女の力をうまく扱えたからか、気持ちが大きくなっていた。

 沙良は一人で風呂場へ向かう。見張りの兵や、召使いたちが傍にいないことに、不自然さを感じることもなく。


 パッと目を開ける。体が鉛の様に重かった。カイはとっさに沙良を探す。自分が寝入ることなんてありえない。なにかの魔法をかけられた。いや、この魔法はよく知っている。

「イセラ!」

 部屋に沙良がいない。さらには、召使いも兵士たちもいない。

 カイは剣を片手に部屋を走り出た。


「知っているかい? 聖女は清らかな乙女にしか務まらない」

「……知りませんね、そんなこと」

「いやね、君がわたしのものになるというんなら、乱暴なことはしないよ?」

 風呂場に向かう途中で、沙良はイセラに拉致された。地下室で縄に縛られ、沙良はイセラに尋問されている。

「もう一度聞く。わたしのものにならないかい?」

 沙良はベッと舌を出して、

「お断りします!」

 びきびき、とイセラのこめかみに青筋が浮かぶ。

「そうかい、ならば仕方がない。君には聖女から降りてもらう」

「降りる?」

「言っただろう? 聖女は清らかな乙女にしか務まらない」

 ああ、本当にゲスな人間だ。沙良を穢す、そう言っているのだ。

 別に、沙良はそれでもかまわない。けれど、そのせいで聖女の力を失ったら、自分は王子の役に立てない。いや、そもそも、王子からも愛想をつかされていしまうのではないだろうか。自分の価値なんて、聖女であることくらいなのに。

「い、や……」

「うん?」

「いや! 助けて、誰か、誰か!」

 じたばたと抵抗するも、なにもできない。イセラの魔法は、相手を眠らせる力。

 沙良の抵抗むなしく、だんだんと瞼が重くなる。重く、おもく……。

「サラ!」

 ダン! と扉が壊される。眠気が消えて、沙良は覚醒する。

「なんだ、早かったな」

 イセラは悪びれる様子もなく、

「これはもう、聖女ではなくなった」

「なん……イセラオマエ、この娘になにをした!?」

「なにって? 考えればわかることだろう?」

 はったりに違いない。心理攻撃。沙良が叫ぶ。

「王子さま、それは嘘です!」

「嘘だという証明はどうやってする? 君はわたしに穢された。それを隠したくて君は嘘をついている」

「王子さま、信じてください、私は……!」

 す、とカイがイセラに剣先を向けた。イセラの頬を汗が伝う。

「この娘に、触れたのですか?」

「さあ、それはご想像にお任せするが」

「……! サラ!」

 カイは剣を収め、沙良に歩み寄る。震える沙良をそっと抱き上げて、カイはそのまま城を出た。あんな嘘に騙されないで、そう言いたいのに、喉がカラカラでなにも言えない。もしかしたら、イセラという人間は本当に自分になにかをしたのでは。

 そんな不安がよぎって、沙良はなにも言えなくなってしまったのだ。


 イルの家に着く前に、森の中で沙良はそっとカイの腕からおろされた。

「けがはないか?」

「はい……あの、王子さま」

 意を決して、

「イセラ王子は、私になにもしておりません」

「……ならばソナタ、聖女の力をつかえるか?」

 疑われている。しかし、無理もない。もしここで、聖女の力を失っていれば、沙良はカイにとっては用済みも同然。許嫁として傍に置く理由なんてなくなるのだから。

「わかりません」

「なら、試してみろ」

 カイがためらいなく剣を抜き、自身の腕を切りつけた。

「王子さま!?」

「治せるか? 治せないのか?」

 そうはいったって、沙良はいまだに魔法の要領を得ていない。しかし沙良は、王子の傷に手をかざし、いつものように『治れ、治れ』と念じる。

 しかし、なにも起こらない。ぼた、ぼた、と血が滴り落ちるだけで、カイの傷は治る気配すら見せない。

「ち、違うんです。いや、その前に傷の手当てを」

「イセラに乱暴されたのか?」

「違います、断じて。私は、ただ……聖女の力がまだ……使えないだけで」

 本当にそうだろうか。拉致されて一時間ほどの記憶があいまいだ。イセラの魔法で眠らされていたからだ。

 だったら、その間に自分は聖女としての力を奪われた?

「ちが、王子さま、わたし」

「そうか、使えないのか。わかった」

「わたし、わたし、」

 捨てないで、とすがる沙良に、しかしカイは沙良を今一度抱き上げると、今度はなにも言わずに、一目散にイルの家へと向かうのだった。


 イルの家について、沙良はいつものベッドに降ろされた。

「傷を手当てしてくるゆえ、ここで待っていろ」

「あ、王子さま」

「なんだ」

「いえ……私は、ここにいていいのでしょうか」

 沙良の言いたいことはカイにもわかった。聖女でない沙良が、ここにいていいのか、という意味だ。

 しかし、沙良にしてみれば、自分が聖女の力を失ったのか、確信が持てない。本当にイセラに穢されたのだろうか。あれははったりではないのだろうか。

 しかし、何分聖女の力が使えなかったから、それがなによりの証拠なのかもしれないとさえ思う。

「大丈夫だ。ソナタは俺の許嫁。それは生涯変わらぬ」

「生涯?」

「ああ。そう決めていた。出会った時から、な」

 にこ、とカイが微笑んだ。ずき、と沙良の胸が痛む。

 そこまでカイが責任を負うことではない。そもそも、なぜ自分をそこまで庇うのか、沙良にはわからない。沙良とカイは顔見知りでもなければ、沙良は別世界から召喚された、いわば異物だ。

「わからない……」

 王子の気持ちが、これっぽっちも。


 夢を見た、まだ占い師として駆け出しだったころの、夢だ。

「ボク、迷子?」

 その日沙良は、掛け持ちのアルバイトの帰り道、妙な少年と出会った。今でも覚えている、上等な服をまとった少年は、泣きながら母親を探していた。

「お母さんはどこ?」

「天国」

「あ。ごめん。じゃあお父さんは?」

「……いない」

 みなしご? どこかの施設からはぐれてしまったのだろうか。沙良はなるべく優しく、

「じゃあ、交番行こうか」

「こうばん?」

「おまわりさん……警察のところ」

「それは怖い人? 僕はまた、捨てられるの?」

 『また』?

「えっと……そうだよね、怖いよね。じゃあ、もう少し探してみようか」

 七歳かそこらの子供だったのに、妙に大人びていたことをよく覚えている。

「お姉ちゃんは、だれ? 勇者?」

「えー、勇者じゃないかな。占い師」

「占い師? すごーい」

 へへ、と沙良が得意げに鼻を鳴らす。

「お姉ちゃんはみんなをたすけてるんだね!」

「えー、うん。そうなの。ボクも、困ってる人がいたら助けてあげるんだよ!」

「わかった!」

 ぐう、と少年のお腹が鳴った。

「へへ。お腹すいちゃった」

「じゃあ、どこかで食べようか」

「うん! あと、お姉ちゃんのウラナイも見てみたい!」


 ハッと目を開ける。夢を見た。不思議な男の子の夢だ。あの子は確か、回転寿司でおなかを満たした後家にあげて占いをする前に、ホットミルクを出してあげようと目を離したすきに、いなくなった。

「王子さま……?」

「なんだ」

「いえ……ずっとそばにいらしたんですか?」

 沙良のベッドの横に椅子を持って来て、カイはそこに座ってずっと、ずっと沙良を見守っていた。

「俺は……ソナタが聖女だろうが魔物だろうが、この世界の人間だろうがそうでなかろうが。ソナタが望むならなんでもするし、なんでも信じる」

「……っ、でも、私……」

 聖女の力は消えてしまったのだろうか。それともまだ沙良は聖女のままなのだろうか。

「すみません。王子さまが大変な時に」

 ぼた、ぼた、と涙がこぼれた。怖かった。イセラに監禁されて、沙良は本当は怖かった。怖かったのだ、なによりも。カイを裏切ることが。カイの役にたてなくなることが。

 カイに嫌われることだけが、ただ、唯一、怖かった。

「泣くな。ソナタはまだ聖女だ」

「でも、私、記憶、なくて」

「いい。怖かったんだろう? 思い出したくないのなら、無理に思い出す必要はない」

「でも、思い出さなきゃ、私は……」

 カイが沙良を優しく抱きしめる。そのせいで沙良は、なにも言えなくなってしまった。

 沙良はカイが大事だ。それはカイが、あの時の小さな男の子にそっくりだったからかもしれない。


 噂によると、第一王子イセラ、第二王子ミリム、第四王子ヨルは、各々に魔物兵を所有しているらしい。その数は数百。

「でも、魔物兵にされた魔物たちって、どうやったら解放できるんでしょう」

 今日も今日で、沙良はイルに言われた通り、魔力の修行をしている。頭に本を乗せての座禅――祈りは、もうしゃべりながらでもこなせるくらい慣れた。

「そこはソナタの出番であろう。聖女の癒しの力は、洗脳された魔物たちを解放できる」

「……ほかの手段を考える必要がありますね」

 現状沙良は、魔力を上手く扱えない。そもそも、聖女の力を失ったかも知れないのだ。

「しかし、魔物を兵として扱うには、それ相応の魔力を消費する。ゆえに、魔物を兵として使役しているときは、自身の魔法は使えない。これが俺の見解だ」

 あの日、第四王子ヨルが、魔物兵でふたりを襲わせたとき、自身の魔法を使わなかったのはこれが理由だ。ヨルには炎の魔法が生まれながらに宿っている。その力は父王も目を見張るほどで、その魔法に魅入られ、ヨルを次期王に推すものも少なくない。

 しかし、そんなヨルがなぜ魔物を兵として使うのか。

「魔物を兵として売る商人がいるってことですか?」

「ああ、そういうことになる。それに」

 それに? と沙良が続けると、カイはふと顔をそらして立ち上がる。

「そんなんだから、ソナタはいつまでたっても魔力の感知ができない」

「ええ、集中力がないのは仕方ないじゃないですか。私は感覚的な勉強が苦手なんです」

「占いは得意なのにな」

「占いは勉強みたいなものですもん。って、ああ! もうすぐ予約のお客さまが来る時間!」

 頭に乗せた本を降ろして、ばたばたと沙良が仕事場に走る。カイはそれをほほえましく見守り、同時に苦しくも思った。


 秋葉沙良は占いを信じていない。

「王子さまのホロスコープ、すごく珍しいんですよ」

「見てください。王子さまと私のホロスコープをシナストリーで見てみると、すごく重なるんですよ」

 信じていない、占いなんて。

 沙良はどこかで、占い師という自分を否定していた。

 なぜ占い師になったの? 興味があったから。

 なぜ誰かを占いたいの? 自分の勉強の為。

 なぜ「恐れを抱かせない」ように占っているの? 自分が逆恨みされたくないから。


「ソナタは占いをしているときが、一番生き生きしているな」

 ハッとした。自分は、もっとどこか奥深くで、この仕事を選んだのではないか。

 占いはその人の人生を預かる仕事だ。占い師の一言で、クライアントはその後の人生を変えることだってある。生き方を変えることだって。

 だからこそ、言葉選びは慎重にしてきたし、お礼を言われるとうれしかった。

 誰かの役に立ちたかった。

 原点はそうだ、あの日、迷子の男の子を救えなかった。あの日の出来事が忘れられない。

 もっと早く警察に連れていくべきだった。部屋になんか連れて行かずに、何時間でも街中を歩いて保護者を探すべきだった。

 あの子は今、どうしているだろうか。

「王子さま。私って、薄情、ですかね」

「薄情? むしろ逆だろう。世話好きのお人よしだ」

 占いだろうがなんだろうが、仕事に貴賤なんてない。プライドを持って臨めば、それがその人の天職になる。

 沙良はいつも、自分に言い訳していた。占いはあくまで占いだから。自分は占いなんて信じていないから。だから、占い師なんて大したことない。

 そんなこと、誰が決めた。占いを信じていようがいまいが、これだって立派な仕事だ。誰に非難されるいわれもない、沙良にとってこれが、天職だったのだと、沙良は目の覚める思いだった。

「私、昔、男の子を占ったことがあって」

「その子供は、警察には届けずに家にあげたのだろう?」

「なぜそれを?」

「わからぬか。俺だ。サラ。ずっとソナタを待っていた。ソナタがこの世界に来ることを、願ったのは俺だ、サラ」

 なにがなんだかわからなかった。あの時の子供が王子だったとして……。思い当たる節はある。「困ってる人がいたら助けなさい」王子は確か、それを誰かに言われたと言っていた。

「王子さま、が……私の世界に?」

「そうだ。あの時の子供が俺だ」

「……でも、あれは三年前のことだし」

「そうだな。俺もこんなに時間がかかるとは思わなかった」

 話によれば、あの時カイが日本に転移してきたのは、未来の聖女を視察するためだったらしい。先代の聖女が、ひとときだけ、カイに魔法をかけたのだ。

 カイが母親を亡くして四年。カイが師匠であるイルに拾われたころの出来事だ。

「でも、私が聖女じゃなかったら、私がこの世界に召喚されなかったら、王子さまはどうするつもりだったんですか」

「待つさ。いくらでも」

「待つって言っても……」

「俺にとって、ソナタの世界は夢のようだった。それに、ソナタも聖女の名にふさわしい、優しくあたたかなひとだった」

 そんなに大それたことはしていない。ただ迷子の王子を助けて、回転寿司に連れて行って、家で占いをして、ホットミルクをだし損ねただけの。

「私、本当になにもしらなくて」

「いい。俺が知られたくなかっただけだ。あのような弱弱しい子供の時分など」

「でも、可愛かったですよ」

「……男に『可愛い』はないだろう」

 むっと口を結んで、カイが沙良のおでこを小突いた。

 沙良がおでこを抑えて、カイが笑う。平和な日々だ。

 この平和な日々が続けばいいのにと、沙良はぼんやりとそんなことを思った。


 魔力を感じる、ということは、ついぞわからない感覚だった。沙良はその日も、カイと一緒に街に買い出しに出ていた。

 最近は沙良もカイも魔物に襲われることはなく、油断していたのかもしれない。

 突如街が火の海に包まれた。

「魔物だ! 魔物が攻めてきたぞ!」

 街人が逃げ惑うなか、カイは違った。一目散に魔物に向かい、それらを切り捨てていく。殺しはしない。沙良が悲しむからだ。

 しかし、現状、魔物の洗脳を解く手立てがない。しばらくはどこかの地下に収監することになるだろう。

「王子さま! 後ろ!」

 バッと振り返る。しかし、遅い。カイは魔物に蹴り飛ばされ、家の壁まで吹き飛び血を吐いた。

「王子さま!」

「うふふ、あはは。ねえ、アナタたちって本当にヨルの魔物兵を退けたの?」

 立ちはだかるは、第二王子・ミリムだった。

 ふふ、と笑いながら、カイをいたぶるように魔物を使って、甲高い声をあげている。

「ねえ、どう? アンタの剣の腕はヨルから聞いていたけれど。なんだ、私の魔力を供給した魔物に、歯なんてたたないじゃない」

「魔力を供給……?」

「あは。知らない? もうこれって貴族の間では常識よ。魔物を兵にして自身の魔力を与えて強化して、ひとつの軍を作るの」

「軍……? そんなことして、なにになるの……?」

「本当に馬鹿な子。いや、聖女だったかしら? イセラが悔しがっていたわね。アナタを手に入れればすぐさま王位を継承できるのにって」

 だから、とミリムが続ける。

「だから、欲しいものを手に入れるには、軍を持つのが一番よ。魔物を自由に操れれば、そうね、魔物に市民を襲わせて、それを私が救う。そうしたら、みんなが私を王に推すと思わない?」

「馬鹿げてる!」

 かはっと喀血して、カイが立ち上がった。

「王子さま、傷が深すぎます」

「コイツはここで消さなきゃだめだ」

「あはは、コイツですって? 兄に向ってなんて言い草?」

「兄じゃなくて、姉、だろ」

「……あ?」

 ひゅおっと冷たい氷の魔法が、ミリムの手から放たれた。

 おかしい。

 魔物を兵として使役している間は、魔法は使えくなるはず。

「あはは。ねえ、ヨルの失敗を私が繰り返すと思ってるの? そんなの対策済みよ。私はね、魔物と魔法、両方使える。なぜかわかる?」

 ばっとミリムが自身の右腕の装甲を取って見せる。鱗。人間には到底ありえないはずのうろこが、そこには生えていた。

「私はね、魔物を自分に移植して、成功したの。私は半分魔物。だからね、魔物兵の洗脳を、自分自身にかけることができるの」

 さあ、死になさい。

 ミリムの氷の魔法がつららになって、二人に向かって飛んでくる――その刹那、ふたりをかばったのはイルだった。

 キキキ、とつららを一刀両断して、後ろ手に二人に言い放った。

「逃げるぞ!」

 腐っても元勇者、イルの目くらましは十分だった。しかしそれは、イルの全魔力を注いだ大きな魔法だ。身の丈に合わない魔法は、その人間の体をむしばむ。

 イルは移動魔法でその場所から二十里離れた片田舎の、イルの第二の隠れ家である洞窟に沙良とカイを避難させた。

 これにより、イルの体は限界を超え、イルの両眼は失明した。

「なんで……! あの場で師匠がミリムを殺せば済んだ話だったでしょう!」

 光を失った目で、イルがカイを見据えている。

「オマエの兄弟を殺す? オマエは俺を鬼かなにかだと思っているのか?」

「兄弟って言ったって……あんな奴ら」

「……私はイル師匠に賛成です」

「サラ?」

 王が亡くなれば、カイの肉親はあの兄弟だけになる。だったら、殺す必要はないのではないか。たとえ相手が殺す気で来ていても。

 沙良はイルの手を取り、

「私、私が聖女だったなら、師匠をこんな目にあわせなくて済んだのに」

 イルが首を振る。

「ソナタは誰がなんと言おうと、聖女に間違いない」

「そうおっしゃってくださるのは、師匠と王子さまくらいです。実際私はイセラ王子に――」

「いい。言わなくて。カイから話は聞いている。目が見えなくなった今なら確信を持って言える。ソナタは聖女だ。間違いなく」

「でも、魔法が使えない」

「いいか、聖女サラ。聖女というのは、魔法の有無でなく、その心をさすと私は思っている」

「心」

「そうだ、心。ソナタはいつも、他人のために生きてきた。その慈悲深い心が、ソナタを聖女としてこの世界に導いた」

 うっと言葉に詰まって、沙良は涙をこらえた。なにも、イルの視覚を犠牲に生き延びたくはなかった。しかし、兄弟のいさかいで、殺しあうのも不本意、さらに魔物を守りたいと言い出したのは沙良の甘さだ。

「王子さま。ここはいったん引いて、計画を立てましょう」

「計画もなにも……街が魔物に襲われているんだぞ?」

「いいえ。あれは私たちが狙いでした。私たちがいなくなった今、あの街への危険はないでしょう」

「だが――」

 沙良が唇をかみしめている。そこから血が流れ、カイはおとなしく沙良に従うことにした。

 沙良は誰よりも平和を願っている。沙良が生きてきた世界は平和なのだと、カイはよく沙良から話を聞いていた。

 平和な世界を生きてきたからといって、その人間が平和を望むのかはわからない。

 そこはおそらく、その人間が持って生まれた気質によるものなのだと思う。

 現に、沙良の国では戦争はないが、国外では戦争が起こっているのだと聞いた。

 ならば沙良にだって、戦争は身近なものであったはずだし、誰かに虐げられれば、その人間を消したくなるのも致し方ないことだと思っていた。

 だが沙良は、どこまでいっても聖女だった。沙良はこの世界のすべての人間の幸せを願っている。だからこそ、カイは沙良を好きになり、沙良を許嫁として傍に置いたのだ。


 身強と身弱は、十干十二支から計算する。

 甲木、乙木。

 丙火、丁火。

 戊土、己土。

 庚金、辛金。

 壬水、癸水。

 子水、丑土金水、寅木火、卯木、辰土木水、巳火金、午火、未土木火、申金水、酉金、戌土火金、亥水木。

 日柱の天干を比劫として、干ひとつにつき一点、地支は二点、月令を得ていれば三点。月令というのは月柱の蔵干と日柱の天干が同じ五行のことだ。

 これらを計算して比劫・印星が強ければ身強、食傷・財星・官星が強ければ身弱。ちなみにこれらは我の強さを表すだけで、良い悪いはない。

 さらに用神、喜神と忌神。これは、まず身強と身弱を出し、身強ならば自星を弱める五行、つまり食傷と財星と官星の中から、身弱ならば自星を強める五行を、つまり比劫と印星から選ぶ。

 たとえば沙良の場合ならば、以下のようになる。


1995年7月5日19時11分


   天干 地支 蔵干 天通変 地通変 十二運星

年柱 乙(木)  亥(水)  壬(水)  偏印  正官  胎

月柱 壬(水)  午(火)  丁(火)  正官  比肩  建禄

日柱 丁(火)  酉(金)  辛(金)      偏財  長生

時柱 庚(金)  戌(土)  戊(土)  正財  傷官  養


年柱 乙木 亥水木

月柱 壬水 午火

日柱 丁火 酉金

時柱 庚金 戊土火金


(火)1干2支9点月令

(土)0干1支0点

(金)1干2支4点

(水)1干1支2点

(木)1干1支2点


 沙良は身強となる。

 さらに、扶抑用神(互いに抑え、扶(たす)く)ならば、沙良は身強なため自星の丁を弱める五行、つまり食傷と財星と官星が当てはまる。しかし、沙良の命式は自星が強すぎるため、官星を剋す土は喜神にはなれない。よって沙良の扶抑用神はこの命式で言えば金か水だ。金は庚、酉(辛)がある。ここでは、丁を剋す壬を用神とする。

 また、調候用神という、命式を天気に例える方法では、沙良の命式は午(夏)の丁(火)の為、水が欲しい。水は亥(癸)がある。また、金も火と相剋の関係のため喜神となるが、今回は水があるため、壬が用神となる。

 扶抑用神と調候用神はともに水。


 王子の命式の場合は次のようになる。


1842年11月18日0時35分


   天干 地支 蔵干 天通変 地通変 十二運星

年柱 壬(水)  子(水)  癸(水)  傷官  食神  長生

月柱 庚(金)  戌(土)  戊(土)  劫財  印綬  冠帯

日柱 辛(金)  亥(水)  壬(水)      傷官  沐浴

時柱 己(土)  丑(土)  己(土)  偏印  偏印  養


年柱 壬水 子水

月柱 庚金 戌土火金

日柱 辛金 亥水木

時柱 己土 丑土金水


(金)2干2支8点

(水)1干3支8点

(木)0干1支0点

(火)0干1支0点

(土)1干2支9点月令


 カイもまた身強。自星辛を抑える十干が欲しい。扶抑用神は財星、官星。つまり木、火。辛(金)を弱めるには火が一番だ。カイの扶抑用神は火になる。

 次は調候用神だ。戌(秋)の庚(金)のため、月令を得ている。ならば強すぎる金をもらす水か火が喜神になるが、水は官星である木を剋すため喜神にはなれない。カイの調候用神は火だ。

 カイの忌神は土と金、水だ。

 このことから、カイから見て沙良は用神である火を持つため、カイから好意を寄せやすい、と読める。

 どちらも身強のため、恋愛というよりはビジネスパートナーして相性がいい。

 沙良は占いを信じていない。信じていなかった。

 けれど今は、そんなことはどうでもいい。沙良とカイは、占いに関係なく、惹かれ合う。


 作戦はこうだ。

 沙良がミリムの気を引いている間に、カイが魔物たちを峰うちする。そして、沙良が聖女の力で魔物たちの洗脳を解いて、カイがミリムをとらえる。

 正直、計画というほどの計画でもないのだが、心の準備があるのとないのとではだいぶ気持ちが違う。

「王子さま、傷は大丈夫ですか」

「ああ。少しは回復した」

 翌朝、日が昇る前。

 カイと沙良は奇襲をかけることにした。幸いにして、カイは魔力のセンスがあった。開花するまでに時間がかかった分、魔力の探知には人一倍鋭さがある。

 こと、魔物兵を一か所に集めれば、おのずとミリムの場所が割れる。

 それに。

「カイ王子、逃げたのでは?」

 市民が武器を取り、森に退避した魔物をうたんと決起していた。

「ソナタたちは、隠れていろ。魔物は俺たちが」

「放蕩王子と占い師さまのふたりで? 無理だ」

 市民がくわや斧で武装している。しかし、魔物にそんなものは通用しない。

「皆さん、避難して下さい。私と王子さまなら大丈夫なので」

「いいや。俺たちは他力本願すぎた。聖女がこの国にいない今、自分たちを守るのは自分たち以外にない」

「聖女なら私が――」

 す、とカイが沙良の言葉を遮った。カイは市民に向けて、

「ならば。俺が先陣をきる。ソナタたちは、後援を頼む」

 そして、小さな声で、

「サラ。危なくなったら市民の命を優先に。俺に構わず、逃げろ」

 カイの決断を、断れなかった。カイは誰より市民を思っている。放蕩王子と呼ばれているのは、なにも師匠のイルがカイに女を紹介したからだけではない。カイは放蕩しているように見せて、市民のひとりひとりを見てきたのだ。沙良という聖女がこの世界に召喚されたとき、「このような人間はいなかった」そう断言できた理由を、沙良はこの五ヶ月で理解した。カイは市民を守るため、人知れず努力してきた。

「ならば、行くぞ!」

 カイの号令とともに、市民がわっと動き出した。


 都の外れの森の中に、もぐりこむ――しかし、

「やあ。早かったね」

「……! イセラ!?」

 森に入るや、立ちはだかったのは第一王子イセラと、第二王子ミリム、第四王子ヨル。そして、その三人の各々の魔物兵。

「オマエら……手を組んだのか?」

 カイの声音は震えていた。カイの背後にいた市民もまた、状況を飲み込めない。

「手を組むなんて気色悪い。ただね、わたしたちは利害が一致しただけだよ」

「利害……?」

「そう。利害。ああ、それに。ここに来た市民は一人残らず帰せないかなぁ」

 イセラがぺらぺらとしゃべる。

「聖女をこの手にする。それがわたしの利」

「私の利は、カイ。オマエを葬ること」

「俺はな、兄貴。オマエとその聖女が苦しむ姿が見られれば、もうなんでもいい!」

 下卑た笑いを漏らすまがまがしい三人の王子に、沙良は内心で迷いを見せた。市民の動揺が、沙良を追い詰めたのかもしれない。

 もう、殺してもいいのでは?

 瞬間、沙良の魔力が一気に増強された。ずずず、とまがまがしい黒い魔力が、イセラ、ミリム、ヨルを威嚇する。

 三人が三人、後ろに退き、冷や汗を垂らす。

「ほら、その聖女だってただの人間だった。今、私たちを殺したいと、そう思ったんだろう?」

 ミリムが嬉しそうに破顔した。

「ち、ちが……」

「違わないさ。サラ、わたしのものになれ」

 イセラが両手を広げる。ヨルはそんなやり取りをにやにやとみている。

 がっと、沙良の肩に手をまわし、カイが抱き寄せた。

「惑わされるな」

「お、王子さま」

「なにより、ソナタに魔力がまだ残っていることが証明された。それだけ考えろ」

 だが、実際、沙良は心のどこかで先ほどの感情が否定できない。世の中には死んだほうがいい人間が存在する。それがあの三人ではないかと、心のどこかで思っている。否定できない。

 カイが沙良の頭に手を乗せた。

「それでいいんだ。ソナタは聖女でもなんでもない、ただの人間なのだから」

「おうじ、さま……?」

「おいおいおい、わたしの聖女さまを穢さないでくれるか? 聖女だってよこしまな感情は抱くさ。そうだね、つらいよなあ。だからわたしと一緒にくればいい。人間は醜い。しかしソナタは美しい。美しいままわたしのものになって、一生一緒に暮らせばいい」

 イセラが狂気に満ちた笑みを浮かべた。

 市民の士気がややさがる。しかし、

「皆さん。魔物は本来、理性も知性も持ち合わせています」

「占い師さま――いや、聖女さま、なのですか?」

「素性を隠したことはすみません。でも今は、魔物たちを保護する手伝いを、お願いしたいのです」

 市民が信じられない、とどよめいた。魔物は等しく敵だ。そう、長いこと生きてきた。

 カイが沙良に被せるように口を開く。

「俺とサラは……この世界の平和のために、魔物との不可侵条約を再び結ぶために今まで修行を重ねてきた。それがどの程度通用するからわからぬが。俺たちに力を貸して欲しい」

 カイが市民に頭を下げた。傍ら、イセラやミリム、ヨルは侮蔑の目を向けていた。

「平民に頭を下げるなど、王族にあるまじき」

「私も反吐が出るわ」

「だからオマエが嫌いなんだ」

 三人の王子たちは、もはや本性を隠さない。市民が顔を見合わせる。

「お願いします、信じてください」

「だが、アナタさまが聖女かどうかも、俺達にはわからない」

 市民の意見はもっともだった。

 しかし、カイは諦めない。

「このもののことは、俺が保証する。ゆえに」

「俺たちを騙しているんじゃないのか? カイ王子とその他の王子、どちらが味方かなんて、俺たちにはわからない」

 先程、イセラたちは市民を生かして帰さないと言ったことを、いまだ市民は信じられないようだった。

「……それは……」

 沙良はもうなにを信じればいいのかわからない。わからないけれど、これだけはわかった。

 沙良はカイを信じている。そして、今までの自分の人生も。

 沙良は占いのクライアントに殺されてこの世界に来た。そのことでクライアントを責める気はない。責めたところで現実は覆らない。それに、そもそも沙良は、そういうことがあり得ることも承知で、占い師になった。師匠から再三聞かされてきたことだった。

 だから、あの女をさばくのは沙良ではなく、法で、あの女が悔いるべきは沙良を殺してことではなく自分が犯した罪。

「王子さま。私は魔物たちの洗脳を解きます。王子さまはあの三人の足止めを」

「だが、魔物の数が――」

「大丈夫です。大丈夫。市民の皆さんがついています」

 沙良の顔は自信に満ちていた。この世界に来たばかりのころのような、自分を大切にしない、なにも信じない、誰も頼らない、そんな雰囲気は一切払しょくされていた。

「皆さん。カイ王子が今まで皆さんに危害を加えたことがありましたか!?」

「……それは」

「……魔力を感じられる方は分かるでしょう? あの魔物兵たちに流されている、イセラ王子たちの魔力が」

 しん、と市民が静まり返る。

 本当だ、そうだ、カイ王子は自分たちと平等に接してくれた。

 小さな信頼が積み重なって、大きな絆へと繋がっていく。

 市民も今一度湧き上がる。沙良が聖女だからじゃない。王子達が裏切ったからじゃない。

 カイという王子に、希望を見出したからだ。

「頼んだぞ。サラ。皆のもの!」

 カイが剣を抜く。沙良は魔物たちに向けて癒しの魔法をかけていく。

「この、こざかしい!」

 沙良の目論見に気づいたミリムが、狙いを沙良に定める。しかし、魔物たちを、市民が総出で抑え込む。

「おい、ミリム! 聖女サラは傷つけない約束だろう!?」

「約束もなにも。あのものはこの兵たちの洗脳を解く気です」

 俊足でカイが三人に突っ込む。

「それだけじゃないぞ?」

 がく、と三人の魔力が落ちる。使えない、いや、抑え込まれている。

「俺の魔法、まだ誰にも言っていなかったな」

 カイの魔法は、他者の魔力を増強、あるいは減退させる力。それを今まで、ずっと、そのコントロールだけを修練してきた。

 カイの魔法により、イセラとミリム、ヨルだけでなく、魔物兵たちの魔力も一気に下がる。

「そんな反則じみた魔法、あってたまるか」

「そうよ、私たちならともかく、なぜ出来損ないのオマエに!?」

 ニッと笑うカイ、しかし、その鼻から、つ、と鼻血が伝った。

「イセラ、ミリム。見ろ。コイツもう限界じゃないか!」

 あはは、はは、と邪悪に笑い、ヨルが自身の魔力を魔物兵に注ぎ込む。

『ぐあああ』

『ぐおぉぉおお!』

 魔物たちが苦しそうに叫んでいる。苦しそうに?

 沙良は違和感に気づく。

 この魔物たちには、理性がある。わずかながら、意識がある……?

 ならば。

「魔物たちよ、その力を鎮めたまえ!」

「はは、あはは、なにを言い出すかと思えば、他力本願かよ!」

 ヨルがさらに魔力を上げる。ミリムは自身の魔法を使い、つららと雪、氷の玉を鉄砲の様に弾いてカイに攻撃を浴びせている。

 市民が傷を負う。沙良は魔法に集中できない。早く自分が聖女の力を発揮しなければ、魔物どころか市民すら救えない。

「魔物たちよ、鎮まって!」

 ぐお、ぎぃ、と、魔物たちの動きがわずかに鈍る。市民は息も絶え絶えだ。

 その、何百もの魔物の中に、ひときわ巨躯を持つものを見つける。その魔力は、ほかの魔物と違い、どこか『心地よい』。

「アナタ……洗脳されてない……?」

 おおよそ、魔物の長だ。全魔物を束ねるもの。

 その魔物の長は、この魔物兵たちの洗脳を解かんと、魔物兵たちの中に紛れ込んでいたのだ。

『コロスナ』

 サラの心の中に響いた声。魔物の長が答えたのだとすぐさまわかった。

『殺す気はないです。ただ、少しでも攻撃を緩めてくだされば、私の魔法で洗脳が解けます』

 声にはせずとも、会話ができる。

『ナニヲ。ニンゲンのイウコトをシンジロと?』

『信じるほかに救う手立てはありません。それに、王子さまを見てください』

 王子は極力、魔物兵を傷つけないように戦っている。魔物兵たちの攻撃を剣でいなし、三人の王子たちに剣を振りかざしている。

 市民も王子にならい、魔物に致命傷にならない程度の攻撃しかしていない。いや、それくらいしか力を持たぬからではあるが、市民の攻撃には、相手を傷つけまいとする気遣いと迷いが見て取れた。

『このままでは、王子さまは実の兄弟を殺してしまいます。私はこの戦いで、誰一人死なせたくありません』

 そうはいっても、先の戦い――ヨルとの戦いや、沙良を街で襲ってきた魔物たちを殺してしまったことは否定できない。

 だから、魔物たちに殺されても仕方ないとも思う。信じられなくても仕方ないと思う。

 けれど、だけど、一度だけでいい、信じてほしい。せめてこの場にいる魔物たちだけは、助けたい。

『……ヨカロウ。コチラモ洗脳ガトケナケレバナニモデキン。十秒ダケ、ミナノウゴキヲトメル!』

 ぐおぉおおおお! と魔物の長が吼えた。と同時、魔物たちの動きが一気に止まる。

「なに?」

「なにしてる、オマエら!」

「殺せ、おい、殺せと言ってるだろう!」

 魔物の長が、魔力を最大出力にしている。魔力と魔力をぶつけることで、一時的に王子たちの魔力が魔物兵たちに流れ込むのを阻止しているのだ。

 沙良が祈りの形をとる。魔力は体を巡る。血液のようで魂のようで、血肉のようで。

 ああ、五行だ、と沙良は思った。四柱推命の基本は五行。木火土金水。陰と陽。すべてはつながって循環して、かかわりあって生きている。調和、中庸。それこそが四柱推命の本質だった気がする。

 こんな時まで占いに例えるのはどうかとも思うが。

 ぱああっと紫色の光があたりを包み込む。

 魔物兵たちの目が、ちかちかと光って、やがて赤色からきれいな青色へと戻っていく。市民の傷をも、癒していく。

「なん……聖女、の力……」

「私にまで干渉を……?」

「くっ、なんで俺まで……」

 三人の王子たちは、魔物を洗脳するために、その魔力を魔物たちに送り込んだ。今度はそれが逆になる。つまり、沙良の聖女の魔法が魔物を通して王子たちに流れ込み、王子たちはその場にどさりと倒れこんだ。

「やった……のか……?」

 傷だらけになりながら、カイは沙良に駆け寄った。

 沙良は力を使い果たし、その場に崩れ落ちた。

「サラ!」

「聖女さま!」

「王子さま……あの三人を、とらえてください。決して殺してはダメです」

 そのままくたりと動かなくなる。

「サラ!」

 息を確認する。大丈夫だ、息はしている。

 沙良を安全な場所に移して、市民にサラの護衛を任せたカイは、気絶する三人の王子を縛り上げた。

「疲れたな……」

 魔物たちが、市民が、歓喜の声を上げている。長く人間たちに利用されてきた魔物たちが、沙良という聖女の功でようやく解放された瞬間だった。


 三人の王子たちは、王によって裁かれた。

「そなたたち、いや。この国のすべての悪しき者たちを駆逐する。わたしの残された人生での役割は、それだ」

「お父さま、違うのです。私はカイに一方的に傷つけられ」

「そうだ。わたしはただ、聖女さまをカイの手からお助けするために」

「そうだそうだ。俺は兄貴たちに騙されていたんだ」

 三人が三人、言い訳ばかりだ。

 三人に、魔力は残らなかった。魔法の力も。それが沙良の聖女の力が下した審判だった。

「聖女サラ。ソナタのおかげでこの国だけでなく、魔物との不可侵条約も結びなおせた。そしてカイ。ソナタの功績をたたえ、わたしはソナタを後継者として国民に宣布しようと思う」

 最初からそうしなかったのは、王が保身に走ったからだ。

 四人の王子を争わせるようなことをしたのは、自分が選んだ後継者が、後世で悪行を働いたら、自分の名前にも傷がつくから。王は自分が保身に走っていたことを恥じた。

「いいえ、父上。俺は王にはなりません」

「なぜだ」

 なぜ、と聞かれ、カイは隣にいる聖女を見やった。

「俺はこの娘と一緒に暮らせれば、ほかになにも望みません。俺が王になれば、この聖女とは結ばれないでしょう。ならば俺は、この聖女とともに暮らす道を選びます」

 沙良の手を、カイがきゅっと握った。沙良もまた、カイの手を強く、強く握り返す。

「……カイ。わたしはソナタを王にしたい。そして聖女サラ。いえ、サラさま。この国に聖女はもう必要なくなった。だったらカイ。ソナタはその娘と婚姻することも可能」

 王の精いっぱいの譲歩だった。

 しかし、カイは首を縦に振らない。

「カイ、聞き分けろ」

 魔物を洗脳していた魔法使いたちは、王が残らずとらえた。洗脳されていた魔物たちは、沙良の魔法ですべて解放した。ならばもう、この国に危機は訪れない。沙良が聖女として立ち回る必要がないのだ。

 それに。

 城の外からカイと沙良を称える声がする。この一件で、四人の王子の誰が真の王子たるかを、市民は知った。偏見に満ちた自分たちの行いを恥じて、市民はカイを王にと高らかに叫ぶ。

 王は先日の生誕祭で、もっとも支持された王子を王に据えると宣言した。ならばカイは、その条件を唯一満たす。

「カイ」

「王さま。王さまに最後のお願いがあります」

「願い?」

 カイは沙良を見る。沙良はコクリ、頷いた。

「この国から貴族・平民の身分制度をなくしてほしいのです」

「なに!?」

「もちろん、最初は貴族たちから反発があるでしょう。暴動が起こるかも。それでも王さま。王さまにしかできないことなのです。王さまが私の母をほかの側室と同じように扱ったように、この国も、もはや身分制度をなくすべきなのです」

 そうすれば、争いは起きない。とういうわけではない。争いはいつの時代も、どこの世界でも起こりうる。ただ、その芽を摘むことはできるはずだ。ほかならぬ、その国で一番偉い人間が、それを成し遂げれば。

「カイ、身分をなくす? それでは市民はどうなる? 政治は?」

「それは、市民が決めるのです。身分はなくしても、王族だけは形だけ残す。しかし、政治は市民に任せる。それがサラの住んでいた世界では可能なのだそうです。ならば、わが国でも可能だと思いませんか?」

 常々、不思議な王子だとは思っていた。第三王子のカイは、なにかを成し遂げてくれる、そんな予感がしていた。

 王に残された時間は少ない。その条件を出すのなら。

「よかろう。その条件をのむ。代わりに、カイ。サラさま。そなたたちが、一市民の代表として、まずはこの国の政治を担う。それが条件だ」

「父上……! 俺はよくても、サラはもう、元の世界に……」

 返さねば。そう言いたかったのに、サラが握っていたカイの手を引っ張って、自分の口元にもっていった。

「私は、王子さまといられるのなら、元の世界に帰らなくてもいいです」

「サラ? しかし」

「大丈夫です。私には王子さまがいらっしゃるので。それとも、王子さまは許嫁というのは形だけで、やはり私を娶る気はないのですか?」

 ここでそれを聞くのはずるいと思う。

 王が高らかに笑い、カイは苦笑している。そんなこと、あるはずない。許嫁だと言ったのは、確かにあの時はその場しのぎの詭弁だった。しかし、ほかならぬ沙良が許してくれるのなら、喜んで妻に迎え入れたい。

「まいったな。サラにはかなわぬ」

「私だって、王子さまにはかないませんよ。なぜ王子さまが私を助けたのか、ずっと黙っていたこと、今でも許していませんからね?」

 ただの一目ぼれだ。幼いころに異世界で見た聖女はたいそう美しかった。

 その聖女をこの世界に召喚したとき、姿形は違えど、あの時の聖女なのだと一目でわかった。しかもあの時は二十も歳の差があったのに、今はカイのほうが年上だった。

 ならば、誰かに取られる前に、許嫁としてしまえばいい。そうやって聖女を救って、聖女が拒んだときにはこちらから婚約破棄という形をとって、沙良をこの世界なり元の世界なりで自由に生きさせるつもりだった。

「私は王子さまが好きです。王子さまは私のことがお嫌いですか?」

「ああ、本当にソナタにはかなわないな」

 王が二人の間を取り持つ。

 まだまだ、この世界の改革は始まったばかりだ。しかし、この聖女――沙良と、この異端な王子――カイのふたりでなら、新しい世界をより良いものにできるであろう。

 王は安堵とともに二人の婚約を正式に認め、そうして二人は、この世界から身分制度をなくし、市民が政治を担う新たな時代へと導くのだった。

 これはのちの世で、沙良が大聖女と呼ばれる所以の、物語。

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