ムロから出た少女
一歩、足を踏み入れたならば……。
鼻の奥をつんと刺激するような、酸っぱい匂いが立ち込める。
芽吹き、その茎を根を伸ばさんとするもやしがかもし出す生命の匂いであった。
最新式のコンクリートで造られた室内には、スプラが設計した栽培用の車輪付きコンテナがいくつも並んでおり……。
「うん、よく育ってる」
その内ひとつの蓋を開けたレイバは、満足げにそうつぶやく。
コンテナの中には、育ったもやしがみしりとひしめき合っており……。
これだけの重量があって、最下部のもやしが潰れないのは、不思議に思えるほどである。
「強いな、お前らは」
物言わぬもやしに、そう語りかけた。
そうだ。もやしは強い。
自分たちの重量に負けることはなく、適切な室温で水を絶やさなければ、すくすくと育っていく。
「人間様の事情なんか、関係ないって感じだな」
今日も明日も、そうやってもやしは成長していく。
周囲を取り囲む人間の事情など、おかまいなしに……。
--
結婚式というものは、教会で行われるのが通例であり……。
ましてや、王太子のそれともなれば、何をか言わんやである。
だから、帝都ではなく、このビーンズ伯爵領を挙式の場として選び……。
しかも、教会ではなく、完成したもやし工場を式場とするのは、あまりにも常識外の発想であった。
全ては、ゲミューセ王子の思いつきであり、あるいは、スプラに対する思いやりの発露である。
「うん。
よく似合っているわ」
支度部屋とした工場内の休憩室で、着替えと化粧が終わったスプラを見て、母ブラマ・ビーンズは満足そうにつぶやいた。
「似合って……いるかな?」
スプラはといえば、鏡に映った自分の姿に首をかしげるしかない。
普段は下ろしている髪を、今日は頭頂部で結い上げ……。
自身の希望通り、あまり余計な装飾は施さず、簡素な仕立てとしたドレスを身にまとっている。
これでも、そうする人間によっては、華やかな印象を与えるのだろうが……。
自分のごとき地味な娘では、貧相な印象しか抱けなかった。
「自信をお持ちなさい。
あなたは今、この国で……ううん、この世界で一番輝いているわ」
母が、優しく自分の頬を撫でる。
幼い頃に比べると、随分としわが増えた手……。
それに撫でられるのが、なんだかこそばゆい。
「さあ、これも預かっておきましょうね」
不意に、視界がもやがかったような……曖昧なものとなった。
母が、スプラのメガネを取り外したのだ。
「メガネがないと、何も見えないよ」
「心配はいらないわよ。
これから、エスコートして頂くんだから」
母がくすくすと笑ったのと、扉がノックされたのとは、ほぼ同時のことである。
「どうぞ。
こちらの準備は、整っています」
母が答えると、扉が開かれた。
全てが歪んだような、曖昧な世界の中に……。
一人の青年が、姿を現す。
「ほう……。
見違えたな」
ぴしりとしたタキシード姿らしきゲミューセ王子が、感心した声を漏らした。
「うむ。
かわいいぞ。
綺麗というよりは、かわいいという表現の方が似合う」
見えないながらに、色々な角度から自分を見回しているのは分かる。
「あ、あまりジロジロと見ないでください。
その……恥ずかしいです」
スプラとしては、そのように言って身をよじらせるのが、せめてもの抵抗であった。
「ははは、済まん済まん。
しかし、だ。
写真に残せるとはいえ、それはあくまで色の抜け落ちたもの。
こうして、はっきりとお前の花嫁姿を目にするのは、これが最初で最後の機会なのだから、あまり悪くは思うな」
「わたしの方は、ゲミューセ様の姿がよく見えないんですが……」
「見えたら見えたで、かえって萎縮するだろう?
お前は、少し見えないくらいで丁度良い」
くすくすと……。
自分たちのやり取りに、母ブラマが笑い声を漏らす。
「ごめんなさい。
でも、随分と仲が良くなったと思いまして」
「はっはっは。
これから、もっと仲が良くなる。
今日は、それを宣誓するための日なのだ」
そう言って、ゲミューセ王子が自分に振り返った。
手を差し出されているのが、歪んだ視界の中でも分かる。
「さあ……。
それでは、来てくれるかな?
スプラ。我が花嫁よ」
「……はい」
スプラはその手に、自分の手を重ねた。
今日は、お披露目の日……。
ムロで育つもやしのようだった自分が、太陽の光を浴びる日だ。
王子に手を取られ、もやし工場の中を歩く。
そうして外に出ると、歓声が自分たちを迎えたのである。
--
完。
「ええ!? もやしを栽培したから婚約破棄ですって!?」 ~凶作を見越した結果、婚約破棄されましたが、功績を王子に評価され求愛されてしまいました~ 英 慈尊 @normalfreeter01
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