レイバの疑念
一歩、足を踏み入れたならば……。
鼻の奥をつんと刺激するような、酸っぱい匂いが立ち込める。
これは、生命の匂いだ。
この場所へ集められた無数の命が、今まさに芽吹かんとしている匂いなのだ。
木造の室内は、急ごしらえであることを感じさせないがっしりとした造りであり……。
設置されたボイラーが、いつでも湯を出せるよう待機している。
このボイラーは、ただこの場でお湯を出すだけではなく、ムロ――栽培室――の天井や床に張り巡らされた管に湯を巡らせ、室温を保つという重大な使命が存在した。
「うん……いい感じだ」
室内にいくつも存在する樽の蓋を開け、そうつぶやく。
樽の中では、仮眠前に人肌の湯へ漬けておいた黒豆たちが、大きく膨らんでおり……。
すっかぬるくなった水の表面には、気泡が浮いてきている。
これは、豆たちが目覚め、発芽するため準備を終えたサインであった。
準備が整っている樽の栓を開け、中の水を吐き出させる。
栓の先には目の細かい網を張ってあるので、豆がこぼれ出す心配はない。
中の水が流れ出すと、最初に感じた生命の匂いが、ますます濃厚になった。
ここは、仕込み部屋と呼んでいる場所である。
ここで、マルビから仕入れたブラックマッペは、もやしへ至るための準備を整えるのだ。
「いい匂いだ」
レイバは、そうつぶやきながら、準備の終わった樽を猫台車に乗せる。
これを運び入れるのは、隣に存在するムロであった。
真っ暗なムロへ、ガス灯による明かりを灯してやる。
すると、室内の様子が明らかになった。
整然と並んでいるのは、スプラ嬢の要望を聞き入れて完成したコンテナ台車だ。
――でかい。
長方形をした箱の高さは、二メートルほど。
短手側が一メートルで、長手側は三メートルの設計であった。
箱の一面がスライド式となっており、現在は蓋がされて完全な密封状態となっている。
ひとまず、猫台車は置いておいて、それぞれの様子を確かめることにした。
「うん……。
目星通り、こいつはいける」
今日、出荷する予定であるコンテナの蓋を開け、つぶやく。
コンテナの中は、発芽熱が充満しており……。
おびただしい量のもやしたちが、みっしりと隙間なく詰まっている。
掴み取れば、感じられるのが確かな弾力……。
そして、根の張りであった。
こうしてはいられない。
水を変えてやらなければ。
仕込み部屋の樽と同様、各コンテナは栓が付けられており、水が抜けるようになっている。
これを、一つ一つ、抜いてやった。
コンテナに張られていた水が、どぼどぼとムロの中へ流れ出し……。
なんとも言えぬ新鮮な野菜の匂いが、充満する。
この匂いが……。
何より、熱が……。
レイバは、たまらなく好きになっていた。
もやしというものの発芽熱はすさまじく、適当なところで水を与えてやらなければ、あまりの熱量に自らが死滅するほどだ。
神聖な生命の熱……。
それが、この場所には満ちている。
が、浸っていても仕方がない。
すぐに、仕事へと取りかかった。
まずは、中身の豆が水を吸うことで重くなった樽を、空のコンテナへ移し替える。
それで、水の抜けた各コンテナを移動し、部屋の隅にあるポンプ井戸から水を与えてやった。
このコンテナ台車の移動も、気が抜けない作業だ。
何しろ、重量が重量である。
いかに車輪が付いているとはいえ、自分より遥かに重たい荷物を動かすのだから、油断できない。
転んだりしないように気を付けながら作業を終えると、次の工程へ移った。
先程確認した本日の出庫分を、出荷場へ移すのだ。
コンテナ台車を押しながら、出荷場へ入る。
ここの主役は、あらかじめ水を張っておいた特大の水槽であった。
人間が何人も浸かれそうな大きさの水槽……。
ここに、もやしを入れねばならない。
「どっこいしょ……と」
コンテナの蓋を開け、スライド式になっている部分を取り外す。
そして、農作業用のフォークを使い、次々ともやしを水槽に放り込んだ。
「おお、レイバ。
やってるね」
「こんな暗い内からがんばって、あの悪ガキも立派になったもんだよ」
このくらいになると、丁度やって来るのが、祖母を始めとした雇われのおババたちであった。
彼女らは、手早くゴム製のエプロンや長手袋を装着し、作業に入る。
レイバが放り込んだもやしを、洗浄するのだ。
もやしに付着した豆の皮などが取り除かれ、駄目になっているもやしが、一本、一本、丁寧に取り除かれていく。
そうして、綺麗にされたもやしたちは、根を落とすべく、水槽へ併設されたコンベアへと乗せられるのであった。
「ほれほれ、気合いを入れて踏み込みな」
コンベアは、足漕ぎ式であり、生ける動力の役割を果たさなければならないのが、レイバだ。
たたら場のごときペダルを、力強く踏み込み続ける。
すると、それに連動してコンベアが動き出し、ババたちの手で並べられたもやしを運び始めた。
コンベアの終点には、これもペダルと連動して動く回転のこぎりが設置されており、根と豆を切断してくれるのだ。
ほぼ茎の本体のみとなったもやしが、コンベアの終点でうず高く積み上がっていく。
後は、これを出荷用の籠に、それぞれ収めていくだけなのだが……。
「ううん……」
気になるのは、出荷用のもやしと同様に、うず高く積もった根と豆であった。
「どうしたんだい?」
じいっとそれを見ているところに声をかけてきたのが、祖母である。
「いや、これさ……。
勿体ねえなって思って」
「勿体ないかい?」
「ああ……」
積み上げられた根をひとつまみ取って、食す。
スプラ嬢は、火を通さねば食べられないと言っていたが……。
新鮮なものを、少量食べるだけなら問題ないことは、実践済みのレイバであった。
そうやって噛むと、口の中に広がるのは濃厚な旨味……。
野菜が持つ生命の味わいである。
「これ、こんなに美味いのにさ。
わざわざ、捨てちゃうのはどうかなって」
「スプラお嬢様は、なんと言っているんだい?」
「根や豆は取り除くと本に書いてあるから、そうしようってさ。
お嬢様が言うことだから、間違いはないんだろうけど……」
「でも、お前は納得してないんだろう?」
祖母の言葉に、どきりとする。
それは、あってはならないことだ。
尊敬し、また、初恋の相手でもある聡明なご令嬢に、そのような感情を抱くなど……。
「まあ、寝ながら考えるがいいさ。
お前が、どうすべきなのかをね」
「……ああ」
祖母に言われ、出荷場を後にした。
今は、ようやくにも日が昇ってきた刻限……。
この仮説工場が出来て以来、深夜に一度目覚めてこのような作業へ従事し、また昼頃まで眠るというのがレイバの生活となっている。
他の農家がそうであるように、もやしの生産者もまた、育てる農作物に合わせた生活をせねばならないのだ。
木造の仮説工場へ併設された小屋――すっかりレイバの家と化している――へと入り、パンで腹を満たす。
そして、ベッドに入りながら考えた。
真にスプラ嬢のことを思うならば、せねばならないこと。
それは……。
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