奇跡の野菜

 いつからか、時間の感覚も、己が何をしているのかも曖昧となり……。

 漠然とした死の不安を感じながらも、ベッドの上へ横たわるのみ。

 看護婦に尿瓶を使われるのも、最初は恥ずかしさを覚えていたはずだが、いつの間にか、まったくの虚無で受け入れるようになっていた。


 そうなってしまうのも、致し方はない。

 あちこちに痺れを感じ、はっきりむくんでいると感じる体は、どうにも、己の意思というものを汲み取らず……。

 思考は薄ぼんやりとして、まったく考えがまとまらないのだから。


 ――ああ、終わりっていうのは、こういうものか。


 今のところ、どうにか心臓は動いてくれているようだが……。

 それも、いつまで保つかは知れたものではない。

 だから、その兵士はすでに、緩慢な死を迎えているといってよかった。


 一体、どうしてこんなことになったのか……。

 兵士として志願し、始めて白パンを食べたあの時は、希望に満ち溢れていたと思う。

 訓練は厳しかったが、あの味は、寒村の食い詰め者を奮い立たせるには、十分なものであったのだ。


 そのまま、大勇帝国軍の一員として、マルビへ駐屯する旅団に加わり……。

 脚気であると診断されて、この軍病院に放り込まれ――今に至る。

 回復の見込みがないからといって、無碍に扱うような真似はせず、こうして手厚い看護をしてくれているのが、せめてもの救いといえるだろう。


 何を考えることもなく。

 何かに驚いたり、喜びを見い出すようなこともなく。

 まるで、植物にでもなったかのような気持ちで、ベッドに寝そべり続ける日々……。

 あれだけ楽しみだった白パンも、いつ頃からか、食欲の不振により味も何も感じなくなっていたある日に、それを食べさせられた。


「……れ……は……?」


 なかなか動かぬ唇を使って、掠れたような声を絞り出す。


「驚きましたか?

 今日は、王子様とそのご婚約者様のご厚意で、今、話題になってる野菜を使ったスープを食べているんですよ?」


 そう言われて、ようやくにも、現在の状況を知覚する。

 自分は、ベッドの上で上半身を起こされた状態であり……。

 看護婦が手にしているのは、いつもの白パンではなく、深い木皿によそわれた温かなスープであった。

 そのスープ……。

 具材に使われているのは、今までに食べたことがない野菜だ。


 食感は、しゃきりとしており……。

 よくスープの味が染みた奥底には、この野菜が持つほのかな甘みを感じられる。

 それにしても、これはなんだ……?

 どういう野菜だ……?

 一本一本が、ひどく細長くて、これが畑に生えている姿というものを、どうにも想像できない。


 ただ、ひとつだけ確かなこと……。

 それは、どうやら体が、この食べ物を求めているらしいということである。


 胃の腑から、手の指先、足の指先に至るまで……。

 これを食べていると、痺れが走るのを感じられた。

 その痺れは、脚気による不快なそれとは間違いなく別物。

 体が受け入れ、一種の快感すら感じてしまっているのだ。


「あら、今日は久しぶりに食欲が戻ったんですね?

 これだけ積極的に食べるのは、久しぶりです」


 さっきまで色褪せていた視界が、急激に輝きを取り戻し……。

 ほほ笑む看護婦の姿が、はっきりと見える。

 同時に、この病室へ寝かされている他の患者たちも、同じようにスープを食べさせられている姿が目に入り……。

 最後に、病室の隅で、おかしな箱――あれはカメラか?――を構えたり、手帳に猛烈な勢いでペンを走らせる者たちの姿が認められた。


「ああ、あの方たちが気になりますか?

 なんでも、国営新聞の記者さんたちだそうで……。

 気にせず、今は食事に集中なさって下さいね」


 言われるまでもなく……。

 再度差し出された木匙を、ひな鳥のようにほおばる。

 食事に味を感じたのは、本当に久しぶりのことだった。




--




 国営新聞がその記事を記載したのは、ある病床兵たちがもやしのスープを食べさせられるようになってから、およそ一ヶ月後のことである。

 初めて軍病院へ来てから、幾度となく取材を重ねて完成した記事の見出しは、こうだ。


『奇跡! 脚気の患者が回復の兆しを見せる!』


『決め手となったのは、奇跡の野菜――もやし!』


『第一王子殿下のご婚約者が、帝国軍を救ったか!?』


 同時に、国営新聞ではすっかりお馴染みとなった一面記事の写真には、看護婦にもやし入りのスープを食べさせてもらう病床兵たちの姿が切り取られていた。


 中期の取材を経て完成しただけのことはあり、記事の文面も、なかなかに力が入っている。

 ベッドの上で死を待つばかりだった脚気の患者が、もやしの力によって、徐々に回復していく様を、やや感動仕立てで克明に記しているのだ。


 トドメとばかりに、記事の終わりでは、帝都大学の教授による推測の言葉が記されていた。

 推測といっても、それはほとんど断言しているようなもので、もやし――ひいては、このもやしの元となったブラックマッペが持つ効能を、大いに褒めそやしたものとなっている。


 この記事を見れば、相応の学を持つ者であっても、このように思うだろう。


 ――大学の教授が、こう言っているのだ。


 ――間違いはないだろう。


 実際のところ、これは検証期間も規模も足りていない憶測に満ちた代物でしかないのだが、大抵の人間は、肩書きを見せられれば盲信するものである。

 ゆえに、帝国人にとって未知の食材であったブラックマッペと、それを使ったもやしは、不治の病すら治した神秘の食材として知られることになったのであった。


 そして、国営新聞は、故郷の情勢を知れる貴重な情報源として、各植民地の駐屯軍にも配布されている。

 だが、当然ながらそれは、船舶による輸送を経るため、国内のそれよりも遅れての配布となっていた。


 ただし、今回の記事に関しては異なる。

 マルビ共和国を始めとする各植民地へ、本国の発売日とほぼ同日に、ほとんど同じ内容の記事を記載した新聞が届けられたのだ。


 それはつまり、患者が快方に向かうと決め打った上で記事を作成し、植民地に届く日付けと合わせて本国でも発売したということであるが、神の目を持たぬ民衆や兵たちに、そんなことが分かるはずもない。


 日付けのみ異なるものの、ほぼ同じ内容の一面記事で構成された新聞を読んだ各地の兵たちは、湧き立った。


 ――それさえ食べれば、脚気の恐怖に晒されない!


 まさしく、福音として迎え入れられたのである。

 特に、マルビを守護する兵たちの反応は顕著だ。

 何しろ、新聞記事内で振る舞われたもやしは、自分たちが駐屯する地で生産された豆から、育てられたと書かれているのだから……。


 数日後から……。

 マルビにおける伝統食である、ブラックマッペを混ぜ込んだ無発酵パンが、駐屯地内の食事で振る舞われるようになった。


 白パンに釣られ入隊したはずの兵たちは、喜んでこれを食べたという。

 また、同じものは、脚気の兆候を見せていた者たちに優先して配給され、記事の内容が正しかったと証明していったのだ。



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