脚気
頭では、必要な任務であると分かっている。
しかしながら、故郷を遠く離れ、気温も何もかも異なる地に駐屯するというのは、ひどく気疲れする任務であり……。
できるなら、今すぐにでも帰国したいというのが、全駐屯兵の偽らざる本心であった。
何しろ、この国は――暑すぎる。
駐屯地内の気温計は、最も気温の低い時期で20℃近くを示すものであり、最も暑い時期となると、人肌に匹敵するほどとなった。
しかも、ただ暑いだけではなく、じめじめとして……非常に不快感が高いのだ。
小バエなど、そこら中に生息している虫の数も、故郷とは比べ物にならないほどのものであり、駐屯地に入ると最初に「最大の敵は気候。その次に虫だ」と、言われる始末なのである。
今の時期は、丁度、雨季に入り始めた頃合いであり、絶好調だった気温が低下し始めるのはよいのだが、代わりに、断続的かつ激しい降雨へ見舞われた。
この時、体へ降り注ぐ雨粒の、なんと大きく重いことか……!
――鉛の雨。
とは、勇国人がこの地の雨へ与えた愛称である。
その名通り、外套を羽織っていてなお、銃弾に撃たれたような痛みが全身を襲った。
これは、帝都に立ち込める静謐な霧とは大きく異なる自然の驚異であり、駐屯兵たちの精神を大きく疲弊させる。
だが、真に精神を痩せ細させるのは、そういった気候の違いではない。
文化であり、それを生み出した現地の人々だ。
何しろ、一歩、駐屯地を踏み出してしまえば、そこはマルビ共和国の人々が暮らす世界であった。
確かに、大勇帝国はこの国へ勝利し、植民地としている。
貿易協定は極めて一方的かつ不平等なものであり、マルビの人々から反抗する力をあらゆる意味で奪っていた。
しかし、それがなんだというのだ。
現在の状況を決定付けた戦いが行われてから、たった十年ほどしか経っていない。
しかも、その戦いには、勝者たる大勇帝国もまた、大いなる出血を強いられているのである。
当然、街の中には、自分たち勇国人によって大事な人を奪われた現地人が溢れていた。
そんな人間たちから向けられる視線は、恐怖でしかない。
栄光ある大勇帝国の軍人として、胸を張り、いばり散らし、ライフル片手に練り歩く胸中にうず巻いているのは、捕食される側の感情であるのだ。
心中では怯えながらも、街や農場の巡回に務める。
特に重要なのは、国営商社たる東マルビ貿易会社が保有する農場の治安維持であった。
現在、大勇帝国がマルビ共和国に生産させ、輸入している主要な品目は、本土で栽培が不可能な各種の香辛料や砂糖に茶葉……。
そして、なんといっても小麦である。
元より農業に適した国土が少ない上、産業革命以降、急激に工業国としての色合いを濃くした大勇帝国だ。
増大する国力や、豊かさを増していく人々に反比例して、食料自給率は伸び悩んでいた。
マルビを植民地化した目的の第一は、これを解決するためだったのである。
国の目となり、矛となり、現地人労働者たちの働きぶりへ目を光らせる……。
何もしてないように見えて、神経をすり減らす作業だ。
もし、彼らがなんらかの理由で反抗を起こしたり、あるいは脱走をしたりなどしたら、監督責任を問われるのは自分たちなのであった。
そのような日々において、兵士たちの慰めとなっているのが、週に一度許される飲酒や、カードを用いての賭け事……。
そして、何より、配給される白パンである。
――小麦を使った白いパン。
圧倒的な豊かさを誇るようになった大勇帝国であるが、これは、まだまだ庶民にとって高嶺の花だ。
常食するなど、不可能。
せいぜいが、たまに食してその美味さを再確認するくらいで、普段はもっぱら、昔通りの硬い黒パンを食べているのである。
それを、兵隊になれば毎日食べられるというのは、実のところ、兵たちの志願理由で第一位を誇っていた。
これは、人間の食に対する欲求が、それだけ強烈であることを表している。
また、大勇帝国が豊かであるといっても、当然ながらそれには地域差などが存在し、中には、食うや食わずやの生活を送っている地域も存在した。
そういった地方で暮らす者にとっては、安定した給与で仕送りができ、しかも、自身は夢に見た白パンを食べられるという環境が、極めて魅力的に映ったのである。
食事時は、駐屯所の食堂などに集まり……。
兵士が食べることもあり、成人男性の顔面ほどはあろうかという大きさに焼き上げられたパンを、それぞれなりの方法で食す。
ありがたいのは、現地で仕入れた肉を使ったスープが、頻繁に添えられることだ。
――これだ。
――これを食べられるから、頑張れる。
兵士たちは、そのようなことを思いながら、食事に勤しむのであった。
--
食には十分な配慮を行い、士気の維持に役立てている大勇帝国であるが、同時に気を使っているのが兵たちの健康状態である。
近年になって研究が進んだ結果、病気の元となる悪い風というものは、不潔な環境から生じると考えられるようになっていた。
そのため、蒸し暑いマルビに駐屯する兵士たちは、日に一度の入浴を義務付けられているし、着替えも潤沢に用意されている。
洗濯を行うのは、当然ながら雇用――帝国人からすれば小遣い金のような給与だ――されたマルビ人の女たちで、これによって、兵士たちは清潔な服装を保てるようになっているのだ。
また、月に一度は、軍医による健康診断も行われていた。
薄着となった兵士たちが、診療所の前で列を作り……。
彼らは、医師の前で座って、顔色や眼孔の様子などをつぶさに観察されるのだ。
ひとしきり観察した後、医師が最後に取り出すのは、小さなハンマーである。
これで、軽く膝の下を叩く。
生理反応として、足が跳ねたならば、問題なし。
だが、そうでなかったなら……。
「残念ですが……」
そうならず、青ざめた兵士に軍医が淡々と告げ始めた。
「二等兵。
あなたには、本国へ帰還してもらいます」
字面だけならば、あれほど乞い願った故郷への帰還が認められた言葉……。
しかし、告げられた兵士の顔は青ざめ、恐怖に震え始めている。
いや、顔色が悪いのは、医師の言葉ばかりが原因ではあるまい。
そもそも、診断の列に並んでいる時から……。
いや、数日前の時点で、彼は体調を崩し始めていたのだから……。
そして、今この瞬間に、その理由が決定付けられたからこそ、彼はこうまで怯えているのだ。
哀れな二等兵に見つけられた症状を指して、
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