展望

 他の農夫がそうするのと同じく、レイバの一日も、朝早くから自分の任された畑――スプラの実験農場へ訪れることから始まる。


 雑草を取る必要がなく、虫や鳥におびやかされる心配もない。

 一旦、暗室に入れてしまったもやしというものは、実に手入れが楽なものであるが、それでも、一切何もしなくていいというわけではない。


 先日、スプラがゲミューセを案内した際に言い放った「もやしは自力で育つ」という言葉は、言葉の衝撃を重視した誇張表現であるといえるだろう。

 と、いっても、大したことをするわけじゃないのは、本当なのだが……。


 圧倒的な生命力を誇るもやしが必要とする、唯一の世話……。

 それは、水換えである。

 朝一番に、正午、夕方、寝る前……と、一日の間で、都合四度ほど水を入れ替える必要があった。


 これは、スプラとの実験で得られた結果だ。

 ビーンズ伯爵領の清涼な地下水を頻繁に与えてやることで、もやしはより品質を増すのである。


「そうなると、水にも生き物を生かす力があるってことになるのかな?

 こう、渇きを癒すだけじゃなく。

 そういえば、帝都で飲んだ水は、ここの井戸水に比べるとえらく不味かったし」


 欠かせない作業の傍ら、ふと頭に浮かんだ疑念を口に出す。


「実際、酒とかを作るにしたって、良い水は欠かせないっていうもんな」


 独り言をつぶやいたところで、聞いているのはもやしたちのみ。

 そんな気楽さで、ぶつぶつとつぶやきながら作業しているところへやって来たのが、郵便局の配達員であった。


「おおい、レイバ!

 お前さんに電報だぞ!」


「おれに? 誰から?」


 騎乗した配達員に、そう尋ねる。

 だが、返ってきたのは返事ではなく、電報の内容が記された封筒であった。


「そいつは、自分の目で確かめな。

 こっちは、他にも届けてやらないといけない手紙が、山ほどあるんだからよ」


 馬上から封筒を渡してきた配達員が、肩下げにしている鞄を叩く。

 電報により、離れた場所からも遅滞なく情報を送れる世であるが、手紙の需要は多い。

 と、いうより、ますます増しているのが現状である。


 鉄道の発達により、日々、様々なものが、かつては考えられなかった速度と物量で国内を駆け巡っていた。

 その中には、人から人へと思いを届ける手紙も含まれているということだ。

 また、ゲミューセ王子の祖父である先王の施策により、国民のほぼ全てが文字を読めるようになったというのも、大きいだろう。


 となると、郵便配達員の仕事は、激務になるものであり……。

 顔見知りの彼が、さっさと馬を走らせて去っていってしまったのも、致し方のないことである。


「慌ただしいな。

 いずれは、世の中全部が、ああなっていくのかね」


 老人めいたことをつぶやきながら、封筒を破く。

 中に入っていたのは、電報の特徴である短文だった。

 いわく……。


『明日ノ朝ニソチラヘ向カウ――ゲミューセ』


「王子様が……?

 となると、昨日の新聞に書かれていた内容と関係あるのかな」


 レイバの脳裏をよぎったのは、昨日、帰宅後に読んだ国営新聞だ。

 帝都に比べるとやや時間差はあるが、それでも、鉄道のおかげでその日中には、朝刊がここへと届く。

 その内容は、レイバにとっては、ほんの少しほろ苦くなる内容も含まれていたが……。

 しかし、おおよそは、今も従事しているもやし栽培の仕事へ、展望が持てる代物だったのである。


「まさか、救護院の子供たちに食わせてやるとはなあ。

 しかも、写真を使ってるから、ぱっと見で分かりやすい。

 おれみてえな学のない人間にも、もやしが無害だってことが、はっきりと分かる記事になってたぜ。

 ついでに、王子様とお嬢様の心象を良くする美談仕立てにもなってたし、ありゃあ上手いことやったもんだ」


 水槽の栓を順に抜いてやり、水が空になったものからポンプで新たな水を注いでやる単純な作業……。

 半ば無意識にこれをこなしながら、独り言を続けた。


「そう言われると、少しばかり照れ臭いな。

 だが、俺自身も、なかなかに上手くやったと思っているぞ」


 背中からかけられた声は、まったくの不意打ちであり……。


「――うわあっ!?」


 井戸のポンプを動かしていたレイバは、驚いて飛び退くことになったのである。

 もし、この井戸が昔ながらの汲み上げ式であったなら、その中へ落ちていたかもしれない。

 だが、それだけ驚いてしまうのも無理はないだろう。

 声の主は、決して今ここにいないはずの人間であったのだ。


「お、王子様……!

 それに、お嬢様も……!」


「よう、やってるか」


「ごめんね、驚かせちゃって」


 振り向くと、そこに立っていたのは、王子とスプラ嬢であった。

 王子が小さな紙袋を下げている以外は、二人共に、以前と同じ格好……。

 ただ、両者の指にきらりと輝いているのは、あの時に身に着けてなかった指輪だ。

 ……少し泣ける。


 だが、泣いている場合でもあるまい。

 つい、先程受け取った電報によれば、二人が来るのは明日のはずだからであった。


「でも、ゲミューセ様が、先んじて電報を送っていたはずなのだけど……」


 スプラ嬢が、こくりと首をかしげる。

 それに、堂々と答えるのがゲミューセ王子だ。


「確かに、送ったとも。

 頃合いから考えて、お前の所に届いていたはずだ。

 どうだ?」


「ええ、確かに届いてますけども……。

 ほら、明日の朝に来るって書いてありますよ?」


 文面の書かれた紙を差し出してやると、ゲミューセ王子がしたり顔となった。


「だから、明日の朝に来ただろう?

 その電報を送ったのは、昨日の夜だからな」


「そんな、とんちみたいなことをされましても……」


「まあ、よいではないか。

 せっかく吉報があるのだ。

 それを、少しでも早く伝えてやろうと思った俺の意を汲め。

 それに、お前の家族にも土産を持ってきてあるぞ」


 言いながら、王子が掲げてみせたのは、さっきから手に持っている小さな紙袋だ。


「中身は、近頃評判になっているチョコレートという菓子だ。

 お前、食べたことがないだろう?

 これを、ご家族と共に味わってみるがいい。

 疲れが吹っ飛ぶぞ」


「そいつは、ありがてえことで……」


 チョコレートなる菓子の名は、新聞で目にしたことがある。

 確か、甘い菓子だということで、これは妹が喜ぶに違いなかった。


「それで、吉報に関してだが……。

 いや、ここは俺よりも、スプラが伝えるのがいいだろう」


 紙袋をレイバに渡しながら、王子が振り向く。

 視線を受けたスプラ嬢は、こくりとうなずいてこう言ったのである。


「レイバ君……。

 王室の予算を使って、本格的なもやし工場を造ることが決まったの。

 君には、そこで働いて欲しい」


「――もちろんでさあ!」


 返事は、若干食い気味のものとなった。

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