ここは私たちの家にはならなかった

01 谷名瀬桃子

 サービスエリアの建物に入ると途端に人心地がついたような気がして、やっぱりまだ夜は寒いんだ、と思った。とはいえホットドリンクが買える自動販売機はもうミル挽きのものしかない。私はそこでホットコーヒーを買うと、近くのベンチに座った。

 窓越しに、電話をしている早和子さんの姿が見えた。

 孝太郎は彼女と何を話しているんだろう。私に聞かせたくない話って、どんな内容なんだろうか? 自分の夫と義姉のことなのに、まるでイメージが湧かなかった。

(やっぱり、あの家のことかな)

 そんなことを考えながら、コーヒーを一口飲んだ。

 あの家から遠いところに連れてきてもらって、お腹に食べ物を入れて、温かいコーヒーなんか飲んでいるうちに、だんだんあそこに帰るのが怖くなってきた。

 あの家は一応私の現住所で、今だって孝太郎がいるはずなのに、それでも帰りたくない。もう一度あそこに足を踏み入れてしまったら、二度と出てこられないような気がして仕方がなかった。

 恐怖心を抑えたくて、窓の外に意識を集中させた。早和子さんは相変わらず電話中だ。長くなりそうだけど、寒くないだろうか? 

 彼女には面倒ばかりかけている気がする。お返しできるようなものが何もないけれど、あの人が親戚になったことはいいことだ、と思う。

 もう一口コーヒーを飲んだ。辺りには人がいて、館内放送も流れているのに、やけに静かな気がした。少し考えて、赤ちゃんの声がしないからだと気付いた。

(あの子、しょっちゅう泣いてたもんね)

 そのことを思い出すと、胸が痛んだ。


 電話は長かった。ようやく早和子さんがスマートフォンをしまって、こちらに歩いてくる。私は立ち上がって手を振った。こちらに気づいたらしく、早和子さんは小走りに近づいてくる。

「桃子ちゃん! ごめんね、待たせて」

 そう言う彼女の顔を見て、私は思わずぎょっとした。なんといったらいいのかわからない、恐怖とか緊張とか、いろんなものでこわばった筋をむりやり動かしているように見えた。こころなしか顔色も青白い。

「温かいものとか、飲みます?」

 おつりの小銭を返しながら問いかけると、早和子さんは「うん」と答えて小銭を受け取り、私がコーヒーを買ったのと同じ自販機で温かいココアを買った。

「桃子ちゃん、今日、どこかホテルとかに泊まってもらえる?」

 カップを両手でくるみ、少しうつむいたままで、早和子さんが言った。

「孝太郎がそうしてほしいって言ってた。やっぱり桃子ちゃんは、この家に帰ってこない方がいいって。私はこの後用事があるから、ホテルに送り届けたらすぐに行かなきゃならないんだけど」

「孝太郎がそんな……あっ、孝太郎は? どうしてるんですか? まだあの家ですか?」

 慌てて聞き返すと、早和子さんははっとした感じでこちらを振り向いた。その顔がなぜか、何かに怯えているように見えた。

「……大丈夫。孝太郎は」声が少し震えている。「まだあの家にいるみたいだけど、平気だって。離れの声とか、全然聞こえないみたい。でも、やっぱり引っ越した方がいいかもって言ってた。桃子ちゃんがよければ、すぐに引っ越し先を探して――」

 その言葉を聞いた私は、ほっとして近くのベンチに、倒れ込むように座ってしまった。早和子さんが目を見開いて、「大丈夫!?」と大きな声をあげた。

「だ、大丈夫です。よかった……」

 それと同時に、両目からぼろぼろ涙が出てきた。もうあの家に帰らなくていいと思うと、泣けてきて仕方がなかった。

 自分があの家をひどく怖がっていたということを、私はこのとき初めて悟ったのだ。


 あの家はやっぱり、私たちが住むところではなかった。

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