27

 桃ちゃん。

 確かに桃子ちゃんのことをそう呼ぶことがある。特に意味はない。一度間違えて「桃子」の子を省いてしまって、でも桃子ちゃんは全然気にならないという。私もなんとなく「桃ちゃん」という呼び方が気に入って、たまに使う。いつもではないと思う。たまに、そういう気分のときに採用されるだけの、ほんのちょっとした、意味のない変化だった。

 そんなことで胎児が死ぬなんて、絶対にありえない。

 それでも急にざわざわと寒気がして、私は空いている左手で右の二の腕を掴み、自分を抱きしめるように背中を丸くする。ありえない。

『だから姉さんは悪くないって言ったでしょ』

 孝太郎が宥めるように言った。

『こんなの事故だよ。俺も恨む気になれない。それどころか、かえって助かったかもしれない。あの家に留まるための理由になったからね』

 また信じられないようなことを言われた。普段だったら「あんたの子どもが死んだのに何言ってるの」って怒鳴っただろう。でも実際には情けない声で「何言ってるの」って呟くことができただけだった。

『桃子も俺も、子供を持つってことがいまいちピンときてなかったんだな。桃子が赤ん坊の声を気にしてるのはさ、子供を愛してたからじゃなくて責任感が強いからだよ。俺なんかそれ以下の感情しか持ってないからね、赤ん坊の声が聞こえないのも道理なわけだよ。姉さん、よかったじゃない。もしも俺がまともな父親だったら、きっと姉さんのことは一生許さないよ。でもそうじゃないんだから』

 そうじゃないから何だというのだろう。ひとつもよかったことなんてない。スマートフォンを放りだしそうになるのを、孝太郎の声が引き留めた。『姉さん、聞いてる?』

「……聞いてる」

『よかった。まぁ、気にしなくていいよ。こんな話、ほとんど俺の推測だからね。証拠は綾子さんの相槌だけ。それも俺がそのへんの机とか叩いてるだけかもしれないよね。よかったねー、証拠がなくて。だから、こんな話信じても信じなくてもいいよ。長くなっちゃったけどさ、俺が本当に伝えなきゃならないことっていうのは、このことでもないんだ。ちゃんと証拠があって、もっと大事なことがあるんだよ』

 電話の向こうで、ふーっと大きく息を吐くのが聞こえた。孝太郎はまた喋りだした。

『……さっきこの土地で亡くなったひとの話をしたときさ、死因がわからないってのが何人かいたじゃない? それ、どうも自然死らしい――ていうか、そういう死に方としか思えない状態で亡くなった人が多いらしくてさ。それと聞いた話なんか照らし合わせると、どうもあの離れがあった場所で亡くなった人が異様に多いらしいんだな。実は、あそこに元あった家で家政婦やってたって人を見つけて……姉さん? 聞いてる?』

 聞いてる、と掠れた声で言い返した。

『よかった。姉さんも疲れただろうから、ちょっと駆け足でいこうか。とにかく俺は、あの離れってのが、この土地の影響が一番強く出る場所だと思ってる。実際危険だから、工務店も霊能者もあそこに入るなって口をすっぱくして言うわけ。なぁ、すごくない? それってさ、もしも入ったらどうなるかって気にならない? 最悪、入っただけで死ぬかもしれないよね。いや、この土地がここに人を留めたがってることもあわせて考えたら、それって本当にあり得る話だなと思って』

「入っただけで死ぬ部屋が?」

『そう』

「さすがに荒唐無稽よ。孝太郎、自分が何言ってるかわかってるの?」

 そう言うと、電話の向こうで孝太郎が声をあげて笑った。 

『ははは……実はもう試してみた』

 私はまた、スマートフォンを放りだしそうになった。

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