20

 笑い声が聞こえた気がした。ひとりではない、何人かの老若男女が集まっているような声だった。思わず辺りを見回すと、例の離れがすぐ目に入った。

 窓に灯りが点いている。

「ねぇ……あそこ、誰かいるの?」

 孝太郎に声をかける。孝太郎はゆっくりと首を動かし、私が指さす離れの方を見た。

「離れ? 誰もいないよ」

「でも灯りが点いてるじゃない」

「ああ、姉さんには灯りが点いてるように見えるんだ」

 孝太郎はあっさりとそう言った。「いいなぁ。俺には見えないよ。窓は真っ暗のままで、声とかも聞こえない。桃子がいう赤ん坊の声も、実は一度も聞いたことがないんだ」

 桃子ちゃんはぼんやりした顔で離れを見ている。

「また泣いてる。見に行かなきゃ」

 ぶつぶつとそうくり返している。私にはわからないけれど、きっと桃子ちゃんには赤ちゃんの声が聞こえるのだろう。

「桃子、大丈夫だよ」孝太郎が宥めるように声をかけた。「あっちに看ててくれる人がいるんだよね?」

 桃子ちゃんがうなずいた。でもその質問の内容よりなにより、私はそのとき、孝太郎の声があくまで優しそうなことに驚いてしまった。私が知らないところでちゃんと桃子ちゃんの夫をやっていたことに、ほんの少しの間だけ胸の中をぐるぐるかき回されるような心地がした。

「そうだけど……」

 桃子ちゃんがうなずく。孝太郎も彼女に合わせるようにうなずいて、「でしょ。冷えるからうちに入ろう」と促した。

「ちょっと! 待ってよ」

 私はとっさに孝太郎の腕を掴んで引き留めた。今何もせずに帰ったら、きっと後悔することになると思った。

 孝太郎が私の方を見た。やっぱり能面のような顔をして、

「ほっといてくれる?」

 そう言った。その言い方の冷たさにたじろいでしまう。その時、桃子ちゃんが突然口を開いた。

「孝太郎、早和子さんはいい人だよ」

 その瞬間、孝太郎の無表情が、少しだけ揺らいだ。

「んん?」

「たぶん、孝太郎が思ってるほど、早和子さんは孝太郎のこと嫌いじゃないよ。嫌いだったら、私に連絡くれたりとか、心配してくれたりとか絶対しないでしょ。私なんかが口出すのはどうかと思ってたけど――でも、やっぱり一度くらいは言ってもいいよね。私、ふたりにもうちょっと仲良くしてほしい」

 突然そんなことを言われた孝太郎は、何も答えなかった。でも、急に困ったような顔になった。

「……あ、あのさー、桃子ちゃんの言う通りというか、歩み寄りたいのは本当」

 急に頭が冷えてきた。こんな心霊スポットみたいな場所で何家族会議みたいなこと言ってるんだろ、と可笑しみさえ覚えながら、

「すぐにじゃなくていいから、普通に話したりとか、できるようになれたら嬉しいんだけど」

 と、口から出てきた言葉は本物だったと思う。

「あのぉ、ほら、さっき言ってたじゃん? 福の神がどうこうとかより、孝太郎にとって大事なことがこの家にはあるんでしょ? それってあの」

 やっぱ団欒に憧れがあるんだよね、私もだよ――なんて恥ずかしいことまで言いかけたところを、孝太郎が遮った。

「もういいよ。姉さん、わかった」

 そう言ってうなずく。それから桃子さんの方を向くと、

「桃子、ちょっと姉さんと出かけてもらっていい?」

 そう言った。

「俺、ちょっとやることあるからさ。本当は一緒に行きたいけど」

「――わかった」

 桃子ちゃんがうなずいた。孝太郎が少しぎこちなく、でも確かに笑ったのが見えた。

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