18

 冷たい手だった。私よりも少し小さい、でも大人の手だ。その手が肩に触れたところからなにか冷たいものが染み込んできて、なすすべもないうちに心臓が止まってしまう――わけもなく、そういう気がした。

(私、本当に死んでしまうのかもしれない)

 直感がそうささやいた。

 ほんの一瞬のうちに思考がフル回転して、達彦の顔がふっと頭に浮かんだ。友達とか、会社の人たちとか、亡くなった母とか、いろんな人の顔が浮かんでは消えていく中に、まだ小さな頃の孝太郎がいた。実の母が亡くなって、私が谷名瀬家に引き取られた当初の、今よりもずっと頼りない男の子だった。警戒心や不信感でいっぱいで、でも今ほどは私のことを嫌っていなかった遠慮がちな表情を見て、私は(この子と仲良くなれるだろうか)と不安になった。あのときもっと思い切って近づいていたらよかったのかもしれない。そしたら後々こんなことにはならなくて、私たちはもう少し姉弟らしいものになっていたのかもしれない――

 走馬灯の中に、両親の顔は不思議なほど浮かんでこなかった。

 私は目を閉じた。


 肩に置かれた手の感触が、ふっと消えた。

 もう一度目を開けると、脱力したような顔の桃子ちゃんがすぐ手前に見えた。

 背後に気配はない。女性の声も聞こえなかった。

「――桃子ちゃん?」

 声をかけると、桃子ちゃんははっとしたように両目を大きく開いた。

「早和子さん?」

 そう言って、ふらふらとこちらに歩き出そうとする。私は慌ててそれを止めた。止めなければ、桃子ちゃんがばったりとその場に倒れてしまいそうに見えた。

 両肩に手を添えると、彼女の顔が目の前にあった。言うなら今だ、と思った。

「桃子ちゃん、この家出よう」

 桃子ちゃんの目を見つめて、そう言った。

「こんなところに住んでたら駄目だよ。いくら建ててもらった家だからって、それに孝太郎が何も言わないからって、駄目なものは駄目。ここはよくないところだって、鈍い私にもわかるんだから」

「でも早和子さん」桃子ちゃんが言った。声が震えていた。「赤ちゃんが泣くんです。離れで泣いてるんですよ。放っといてどこかに行けないじゃないですか」

「赤ちゃんなんかいないよ」

 肩をつかんで揺すった。桃子ちゃんはぼんやりとした顔で私の顔を見つめる。

「桃ちゃん、しっかりして」

 私はそう言うと桃子ちゃんに抱きつき、そのままインターホンの方にじりじりと引きずっていった。頬がびしょびしょだ――と考えながら、私は自分が泣いていることに気づいた。

「赤ちゃんはもういないんだから。桃ちゃんが面倒みなきゃならないのは、その子じゃないんだよ」

 そんな話をしながら、ゆっくり出口の方に進んでいく。桃子ちゃんは私に引っ張られるまま、大した抵抗もしない。

 このまま外に出られる。出てしまえばきっと大丈夫。きっと。


 そのとき、また誰かが私の肩に、トンと手を置いた。

「姉さん、何やってんの」

 孝太郎の声だった。

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