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 事務所に入って来た鬼頭さんは、私の姿にすぐ気づいたみたいだった。電話やメールでちょっとやりとりしただけの相手を見分けられるなんて、考えてみればおかしな話だけど、私はこのとき、そのことをごく普通に受け入れてしまって、なんとも思わなかった。

 私は席を立つと、小走りで事務所の入り口に向かった。

「鬼頭さんですよね? 急にすみません、谷名瀬早和子です。お時間作っていただいてありがとうございます」

 鬼頭さんは黙ったままぺこっと頭を下げると、肩から下げていたバッグの中に手を入れて、中から一冊のノートを取り出した。表紙をめくるといきなり、

『喉の調子が悪いので、筆談で失礼します』

 と書いてある。あらかじめ必要になりそうな台詞を用意してきたらしい。

「わかりました。こちらにどうぞ」

 ブースで仕切った応接スペースに鬼頭さんを案内し、ローテーブルを挟んで座った。不思議な人だと思った。近くで見ても、彼女が何歳なのかよくわからない。四十代くらいにも、二十代くらいにも見える。真っ黒でまっすぐな髪を肩の上で切りそろえ、度の強そうな眼鏡をかけている。裏表のなさそうな顔を見ていると、不思議と(この人は悪い人じゃないな)という確信が湧いた。

 事務員さんが二人分のお茶を運んでくるのを待って、改めて話を切り出すことにした。

「改めて、谷名瀬早和子です。お電話でお話した通り、谷名瀬孝太郎の姉です。よろしくお願いします」

 鬼頭さんは頭をさげ、ノートをめくる。上の端っこに、『鬼頭雅美です』と書いてあった。

「昨夜はすみません。夜中だというのにいきなり連絡してしまって」

 私が謝ると、鬼頭さんは首を横に振った。

 昨夜、私は母との電話を終えると、すぐに鬼頭さんと連絡をとっていた。一晩明けてから――などと悠長なことをしている場合ではない。とにかくアテになりそうな人に助けを求めなければと思ったのだ。

 電話の向こうの鬼頭さんは声が小さく、ひどく聞き取りにくくて、会話に手間がかかった。それくらい喉を痛めているらしい。だから最低限の話をすませた後は、メールで連絡をとりあった。

 鬼頭さんはノートをめくる。また文字が書かれている。

『あの土地に弟さんたちの家が建つ前、あの土地を住める状態にしたのはわたしです』

 鬼頭さんは空いたスペースに文字を書き始めた。ほとんどなぐり書きのようなペースだが、それでも読みやすい字を書く人だ。

『わたしには、あの土地にいるものを浄化することはできませんでした。あれは家族というものにすごく執着があって、常に新しい家族の一員をほしがっています。だからあの土地はどうしたって住宅になってしまう。そういうものです』

 そういうものです、という言葉が、私には怖ろしく思えた。鬼頭さんはなおも鉛筆を動かす。

『そこで、庭に小さめの一軒家を建てて、その中にすべて押し込んでしまう方法をとりました。それがあの庭にある離れです。あそこに閉じ込めておいて外に出さなければ、直接的な害はないはずでした』

 つまりあの家の庭にある離れは、あの土地にいる「家族に執着するもの」に、あえて与えられた「家」だったのだ。

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