23

 わたしはほとんど無意識に桃子さんの方をふり返った。ソファの上で子供みたいに膝を抱えている桃子さんは最初に見たときと同じ、華奢で小柄で、わたしなら万が一のときも取り押さえられそうと思ったのもその通りで、そしてやっぱり、すごく心細そうに見えた。

 彼女を置いていくのが心苦しかった。わたしには帰る家がある。この家にしか拠り所がないわけじゃない。いざとなったら簡単に逃げ出すことができる――そう思うと辛い。

 桃子さんと目が合った。わたしの考えていることを、全部見抜かれているような気がした。

「いいよ、奈緒さん。今日までで」

 桃子さんが言った。いつかそう言われるだろうなと思っていたけど、実際言われてみるのと思うのとでは大違いだった。心臓を冷たいもので突かれたような気持ちがした。

 孝太郎さんがため息をつき、「桃子」と言う。それにかぶせるように、

「だって離れの鍵はないんでしょ。私がいくら入ろうとしたって無理じゃない。さすがに窓ガラス割ったりはしないし」

 と桃子さんが続ける。

「これからするかもしれないだろ」

「信用ないね」

「そういうレベルの話じゃないんだよ。これは――」

「じゃけぇ、引っ越された方がええと言うのに」

 森宮さんが口を挟む。ふっと会話が途切れたとき、また掃き出し窓の方から音がした。

 こん、などという生やさしい音ではない。ドン、と窓ガラスを揺らすような音がして、その場にいた全員が弾かれたようにそちらを向いた。わたしもそっちに顔を向け、そして見なければよかった、と思った。

 レースカーテンの向こうに、赤いものがぼんやりと見えた。ああ、あの女だと思った。きっと人のよさそうな顔に笑みを浮かべている。いかにも優しくて親しみの湧きそうなあの表情で、彼女はもう一度拳を振り上げる。

 どん

「困ったね」

 森宮さんが呟いた。「やっぱり思い切ってちょっと削って――いや」

 何か気づいたように振り返る。わたしもつられて体が動いた。

 桃子さんが、ソファの上にいなかった。

「奥さん」

 森宮さんがつかつかと歩き始めた。白杖は使っていない。でもまっすぐにリビングから廊下に通じるドアへと向かう。関屋さんが駆け寄ってドアを開けると、いつのまにそこまで移動したのだろう、廊下の中ほどに立っていた桃子さんが、はっと驚いたような顔でこちらをふり返っていた。

「動くな」

 ふいに、森宮さんがそう言った。低い声なのに大きく、よく響いて聞こえた。次の瞬間、急に肩が重くなった。

(何、これ)

 驚きで声も出なかった。重い。立っていられなくなって、膝をついてしまった。肩がどうにかなったというよりは、急に重いものを載せられたような感覚だ。

 廊下へと歩いていく森宮さんの足の向こうに、座り込んでいる桃子さんが見えた。わたしと同じように動けなくなったのかもしれない。でもどうして――と考える間もなく、「関屋さん、手伝ってくれんか」と森宮さんの声がした。

「とりあえず、そっちに連れていくけぇ」

「わかりました」

 関屋さんは驚いた様子もない。すぐに森宮さんの方に歩いていくと、少しして、二人がかりで桃子さんを抱えて戻って来た。桃子さんは、どすん、と落ちるようにソファに座り込んだ。

「もうちょっと放っておくしかないなぁ。これを取ってやると、後がかえって厄介になりそうじゃ。そんで、こちらは何とかできる」

 森宮さんはこっちに歩いてくると、「動くな。そのまま」とぶつぶつ言いながら、わたしの目の前にしゃがんだ。

「動かない。そのまま。動くな」

 そう呟きながら、わたしの肩に手を伸ばし、何かをつまむような動作をする。わたしの肩から何かをつまみ上げ、小さなゴミでも取り除くかのように、その辺りにぽいっと放りだす。

 放りだした先には何もない。森宮さんは何もつまんでいない。そういうジェスチャーをしているだけだ。

 でも、確実にわたしの体は軽くなっている。

「よし、これでええ」

 なにかをつまんで捨てる動作を終えると、森宮さんはわたしの肩をぽんぽんと叩いた。

「あなた、こういう影響受けやすいねぇ。それじゃけぇ、もう来ん方がええと言うたんです」

 そのとき理屈ではなく、ああ潮時だ、と思った。

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