21
「……赤ちゃんの声が聴こえるんですけど」
桃子さんがそう話し出す。さっきから感じていた寒気が、いやな予感といっしょに強くなった。桃子さんはぽつぽつと続ける。
「夜が多いんですけど、家の外から赤ちゃんの泣き声がするんです。最初は近所の子かなと思ったけど、ここ庭が広いでしょ。よその声とかあんまり聞こえないってことに気づいて。近いんですよ。たぶんあの離れから声がするんです。私はそれが」
「奥さん、それは本物の赤ん坊と違いますよ」
森宮さんが口を挟んだ。桃子さんは「はい」とうなずく。
「あれはもう亡くなった子ですよね。それはわかってるんです」
「それじゃったら、気にせんのが一番です」
「だって、どうしたって気になるじゃないですか。自分の子供だと思ったら」
桃子さんは自分のお腹に両手を当てている。
今そこに赤ちゃんがいるわけじゃない、でもわたしは急に泣きたくなってしまう。まだこの世界に出てくる前の小さな命がそこに何ヶ月もいたことを考えると、他人事なのに悲しくなった。
「あそこに谷名瀬さんのお子さんがいらっしゃるかどうか、私にはよくわかりません。何せ多すぎるけぇ」
「なら、やっぱりいるかもしれないじゃないですか。いるなら見捨てていきたくないんです。あれは死産した後から聞こえ始めたし、やっぱり……」
うつむいて話す桃子さんを見ているうち、わたしは昨夜、彼女が言っていたことを思い出した。
(かわいいなぁって、あんまり思ってあげられなかった――私を呼んで泣いてるんだとしたら、かわいそうだね。あの子)
そんな気持ちで、この家に留まろうとしているのだとしたら。
「もしも桃子の言うとおりだとしたら、その子は僕の子でもありますから」
孝太郎さんが言う。「できるだけここにいたいんですよ」
「それで、今度はあなたや奥さんが死ぬとしても?」
森宮さんが尋ねた。厳しい口調だった。隣に立っている鬼頭さんは、まるで自分を抱きしめるみたいにぎゅっと腕を組んでいる。
桃子さんが口を開く。
「この家から引っ越して、それで――それでこの家に残してきたかもしれない子供のこと考えて、自分たちだけ安全圏で過ごすの、私は嫌です」
孝太郎さんが「俺もです」と続ける。
森宮さんが深いため息をつき、「じゃったら、俺にできることはないな」と呟く。
「普段じゃったらこれから、厄みたいなものを落とすんじゃけどなぁ。これ、無闇にやったら危ないじゃろうな。厄介なもんがおるけぇ……関屋さん、紙とペンもらえませんか」
関屋さんが、そう言われるのを待っていたみたいに、持っていたカバンからスケッチブックとサインペンを取り出した。どうするんだろうと思って見ていると、森宮さんは受け取ったスケッチブックをめくり、白い紙にサインペンでぐるぐると文字にもならないようなものを書き始めた――というか、塗りつぶしている。黒くなった紙を一枚とってテーブルに置き、
「これでちっとはいいでしょう。私がおったちゅう証拠になります」
と言った。「あとは鬼頭さんにもご協力をお願いして……もう人形は渡してらっしゃるんでしょう」
鬼頭さんはうなずき、それからそれが森宮さんには見えないのだと思い出したらしい。森宮さんの手を取ると、手の甲になにか書いている。森宮さんにとっては肯定のサインなのか、うんうんとうなずいた。
「ええですか、くれぐれも無理はなさらないこと。まずいと思ったらすぐにこの家を出てください。谷名瀬さん」
森宮さんは詰め寄るように、孝太郎さんのすぐ目の前に立った。「間違ってもあれを利用しようなんぞ、考えたらあかん」
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