17

 昼前に一度、鬼頭さんから桃子さんのスマートフォンに連絡があった。ごく簡単な、挨拶などを省いたメッセージで、

『午後三時頃、森宮さんがそちらにいらっしゃいます』

 とだけあった。

 孝太郎さんがそれを見て、「じゃあその前に昼食にしよう」と声をかけると、桃子さんは「そうだね」とうなずく。さすがにやや生気が戻って来た感じで、わたしは少しだけほっとした。

 正直この家から出たかった。つまり外食の方がよかったのだけど、一度表に出てしまったらここに戻ってくるための勇気が出ないかもしれない。どうしようか迷っているうちに、孝太郎さんがお弁当を買いに行くと申し出てくれた。

「いいよ。奈緒ちゃん、庭に出たくないでしょ」

 そう言われてはっとした。そうか、外に出たらあの女性と出くわしてしまうかもしれないのだ。昨夜のことでいっぱいいっぱいになって、ついそのことを忘れていたのだ。

 孝太郎さんが外に出て行ったあと、わたしは新しいコーヒーを二人分淹れて、桃子さんの向かいに座った。温かいものがほしかった。

「森宮さんって人が、全部解決してくれたらいいのに」

 桃子さんがぼそりと呟く。わたしも同じ気持ちだった。

「よくわからないけど、とにかくすごい人なのかな……って思わない? 昨日森宮さんが電話くれたあと、外が静かになったもん」

「やっぱり聞こえてました? あのノックみたいな」

「すごく賑やかだったよね」

 桃子さんが口にした言葉に、わたしは現実がぐらつくような感覚をおぼえた。

 あのノックが耳障りだったことは確かだ。でも、どう考えても「賑やか」という感じではなかった。

「何人いたんだろうね?」桃子さんは続ける。「なんか、ああいうのが団欒っていうんだろうなって――そんな感じじゃなかった?」

 わたしはどう答えたらいいのか迷った。たぶん、桃子さんとわたしとでは、見聞きできるものが違うのだ。

「なんていうかああいう……ファミレスの隣の席とか、テレビの中とか……私のじゃなくて他人のだったものがすぐ外にあってさ――私、窓開けちゃおうかと思った」

 ぽつんとそう言われて、ぎょっとした。それと同時に昨夜「奈緒さん」とわたしを呼んだ桃子さんの声を思い出して、なんとも言えない気持ちになった。

 あのとき桃子さんは、何を考えていたのだろう。

「……開けなくてよかったです」

 わたしはそう答えた。

 レースカーテンがかかっている掃き出し窓の外を、小柄な女性らしき人影が通り過ぎるのを、目の端で眺めながら。

 それはゆっくりとした歩調で、窓の外を右から左へと歩き去った。姿が見えなくなってほっとした瞬間、同じものがまた右側から現れた。

 見てはいけない、と思った。

「だよね。開けなくてよかった」

 桃子さんがほっとしたように呟いた。そのとき、玄関のドアを開け閉めする音が聞こえた。

 孝太郎さんが帰ってきたのだ。もしあの掃き出し窓の外の何かが玄関から入ってきたらどうしよう――そう思ったけれど、掃き出し窓の外の人影は玄関が開いたことには気づかないのか、窓の外をまたゆっくりと歩いて消えた。

 廊下の向こうから「ただいまぁ」という孝太郎さんの声が聞こえてきた。


 そして午後三時、森宮詠一郎という人が、この家に到着した。

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