12

 わたしはトイレに行くのも忘れて、その場に釘付けになってしまった。

 そもそも時刻がおかしい。そろそろ日付が変わろうという時間に、他人の家の玄関の前に、インターホンも鳴らさずノックもせずに立ち尽くしているなんて、どう考えても普通ではない。

 急に気温が低くなってきたような気がして、わたしはそっとパーカーの襟元を掴んだ。

(声をかけてみようか)

 そんな考えが頭をよぎった。一言「だれ?」と問いかければ、なにか動きがあるかもしれない。できれば人間であってほしい――そう思った。人間だって怖いひとは怖い。でも幽霊などではなく、とにかく実体のあるものであってほしかった。

(どうしよう。外を確認しないと。でも)

 怖い。ドアを開けたらもうそこにいる、その何かを直視してしまうと思うと、どうしても行動を起こすことができない。

 息苦しい。わたしはいつのまにか止めていた息をそーっと吐いた。そのとき、後ろからぽん、と肩を叩かれた。

「ぎゃあっ」

 とんでもない声が出て、天井の高いホールに一瞬、わんっという感じで響いた。

「どうしたの!?」

 後ろからも驚いたような声があがった。弾かれたように振り返ると、桃子さんが立っていた。

「大丈夫? 奈緒さん、泣きそうな顔してるけど」

 いぶかしげな表情の桃子さんを見ているうちに、緊張がとけて、本当に泣きたくなってきた。でも、玄関の方をなんとかしなければ。

「桃子さん、あれ」

 わたしはそう言いながら、思い切って玄関の方をふり返った。

 磨りガラスの向こうに、もう人影はなかった。

「いない……」

 呆然と呟くわたしの後ろで、桃子さんが「もしかして、誰かいた?」と尋ねた。

「い、いたと思うんですけど。あの、昼間にわたしが」

「庭で見かけたっていうひと?」

「そ、そう」

 話しているうちに、どんどん怖くなってきてしまった。そういえばトイレに行くんだった。どうしよう――と思っていたところで、桃子さんが「あのさ」と切り出した。

「よかったら一緒にトイレ行かない? で、順番に個室の前で待たない?」

 願ってもなかった。


 トイレの窓から何か見えてしまったらどうしよう――と思うとやっぱり怖くて、二人でわざわざ二階のトイレに向かった。

 困った。もうお酒をガバガバ飲む作戦は使えない。トイレに行きたくなってしまうからだ。本当に困った……などと考えながら互いに用を足し、相手が足すのを待った。なんだか小学生の頃に戻ったみたいだ、と思った。トイレの怪談を怖がる生徒たちは、休み時間に徒党を組んで用を済ませたものだ。

 こうして互いに用事を終えると、わたしたちはそそくさとリビングに戻った。一時停止のままになっていたドラマをもう一度流し始めたけれど、面白かったはずのストーリーが、今は全然頭に入ってこない。

「私、奈緒さんが言ってた女性は見えなかった」

 急に桃子さんがそう言った。「だから気のせいだよ、なんて言うつもりはないの。ちょっと確かめたいだけ。奈緒さんは、その……聞いた? 家の外から、赤ちゃんの泣き声がしなかった?」

 わたしは首を振った。そんなの、ちっとも聞こえなかった。

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