10
三日ほどが、一応は何事もなく過ぎた。
もっともわたしはその間もエプロンの女性に声をかけられ続けていたので、決して何もなかったわけではない。とはいえ、それ以上かまってくるわけではないから、小康状態と言ってもいいだろう。
ただ、自分でも気づかないうちに何かしらの影響は受けているらしい。「最近顔色悪くない?」と母に尋ねられて、わたしはようやくそれに気づいた。
「あんた、あの仕事どうなの? 続けてて大丈夫?」
もし家政婦を辞めるのなら、どこか就職口がないか知り合いに当たってみる、とも言われた。
正直揺れた。でも結局「大丈夫だから」と意地を張ってしまうのは、やっぱり桃子さんに情が移っていたからだった。
今彼女を見捨てて逃げたら、わたしはそのことを一生引きずる気がする。この先ちょっとしたタイミングで――たとえば桃子さんの好きな食べ物とか、彼女に似た背格好の人とか、そういうものを見たとき――わたしは桃子さんをあの家に置き去りにしたような、そういう罪悪感に見舞われるだろう。
この先、ずっとそうやって生きていかなければならないということは、わたしにはとても怖いことのように思えた。
「ねぇ奈緒さん、変電所で火事だって」
スマートフォンを覗き込んだ桃子さんが、驚いた様子でそう言った。同時に、わたしのスマートフォンにもニュースアプリの通知が届いた。
火災の影響で、いくつかの路線で電車の運行が止まってしまったらしい。現在の時刻は夕方六時、ちょうど帰宅ラッシュを直撃する頃合いだ――などと考えていたら、案の定、桃子さんのスマホがもう一度震えた。
「もしもし……ああ、やっぱり止まった?」
案の定、相手は孝太郎さんだった。いやな予感がするなと思ったらその通りで、電車が止まった上にタクシー乗り場は長蛇の列で、帰宅がかなり遅くなるという。
『だから申し訳ないんだけど、奈緒ちゃんにもうちょっと家にいてもらえない?』
そう頼まれて、ぎょっとした。いつもだったら、遅くとも夜の七時にはこの家を出てしまう。ましてや深夜なんて、この家で過ごしたことはなかった。
「一人で大丈夫だって、一晩くらい」
桃子さんが呆れたようにそう言うのを聞いているうちに、なんとなくわたしの方が不安になってきてしまった。わたしが帰宅してしまったら、桃子さんは一人ぼっちでこの家で夜を明かすのか――そう考えると、気持ちが落ち着かなかった。
「いいですよ。わたし、まだいても大丈夫です。別に用事があるわけじゃないし」
そう言ったのが、電話の向こうにも聞こえたらしい。「でも」と言いかけた桃子さんを遮るように、『な、もうちょっといてもらいなよ。何なら泊まっていってもらえば』と孝太郎さんが粘った。
結局わたしはその夜、桃子さんの家に泊まることになった。いやな予感しかしなかったけれど。
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