08

 次の日から庭の掃除は最低限で済ませることにした。顔を伏せ、なるべく辺りを見ないようにして、草をむしり、ゴミを拾った。

 それでも何分かやっていると、視界の隅に足がちらちらと見える。少しくたびれているけれど汚れのないベージュのスニーカー、靴紐の結び目まできちんと左右が揃っていて、きっとこの人はとても几帳面なんだろうとわたしは思う。

「こんにちは。妹を探しているんですけど、知りません?」

 まるっきり無視しているのに、凝りもせず話しかけてくる。無視されていることに困ったり、怒ったりしない。いつも同じ温度で、ずっと朗らかだ。人間らしくない。普通の人間なら、少しは戸惑ったり、語気を荒げたりしそうなものなのに。

 放っておいて、家の中に駆け込むと、もういなくなっている。どうやらここまでは入ってこないようだった。だから家の中は安全地帯――と思ってはいても、玄関のすぐ向こう、磨りガラスの向こうをすっと影が移動するときは、心臓が凍り付くような心地になる。

 もう桃子さんにいちいち報告したりはしない。女性の話をしてからというもの、桃子さんは前よりも頻繁に、窓の外を見るようになったような気がする。

 わたしにはそれも不穏に思えて、怖い。


 女性が見えるようになって十日ほどが経ち、めずらしく来客があった。

 鬼頭さんという女性だった。小柄で、年齢のよくわからない不思議な人だ。桃子さんが「悪いけど応対してほしい」とわたしに頼むので、あまり気は進まないけど、門扉のところまで出て行った。中に入れてほしいと言われたらどうしようかと思ったけれど、鬼頭さんは門扉の外から動かなかった。

「す、すみません。よ、様子を伺いに」

 そう言うと、鬼頭さんは咳きこんだ。声も掠れている。マスクをしているけど、質の悪い風邪じゃないか――思わず半歩下がってしまった。鬼頭さんは「ああ」という感じの声を出し、それからふーっと長いため息を吐いた。

「じゅ、住人の方は、お元気ですか」

 とっさにどう答えたらいいのかわからなかった。桃子さんの短い話によれば、鬼頭さんは知り合いではあるらしい。でも、どういう関係性の人かはわからない。そういう相手に桃子さんや孝太郎さんの様子なんかをぺらぺら喋ってしまっていいものかどうか――迷ってしまう。

 それ以前に、ふたりが「元気である」という保証もできかねた。桃子さんは、日に日にもの静かに、ぼーっとする時間が多くなっていっている。孝太郎さんの方はあまり会わないからよくわからないけれど、あの顔色を見るに、少なくとも「元気溌溂」という状態ではないだろう。

 わたしが言い淀んだことでかえって察するところがあったのか、鬼頭さんは何度も小さくうなずいた。

「あ、あなたも、お、お気を、つけて」

 また激しく咳きこむ。思わず「大丈夫ですか?」と手を伸ばして肩にふれると、鬼頭さんはさながら電気ショックにあてられでもしたかのように、びくんと大きく震えた。

「ご、ごめんなさい。だい、大丈夫」

 鬼頭さんはまた少し咳き込み、「ちょっと」という感じで手招きをする。わたしが顔を近づけると、

「なんとかできそうな方に頼んでみます」

 一息に小声で、でも確かにそう言って、頭を下げた。それから足早に去って行ってしまった。

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