07

「ああでも、女の人か……女の人……」

 桃子さんが急にぶつぶつと呟き始める。視線が真正面を向き、わたしなんかここにいないみたいな熱心さで何か考えているように見える。彼女が急に知らない人になってしまったみたいで、わたしは怖かった。ふらふらと部屋の中に戻ろうとする彼女の背中に向かって、

「桃子さん、わたし帰らないですよ。まだここにいますから」

 そう声をかけた。このままだと彼女に「一人になりたいから帰って」なんて言われてしまいそうな気が無性にして、そんなふうに念を押しておきたくなったのだ。桃子さんは弾かれたようにわたしの方を見ると、まるで今さっき夢から覚めたみたいな顔をして「そう」とぼんやり言った。

 桃子さんの肩ごしに見た彼女の部屋は、やっぱり心配になるくらい物が少なく、生活感に乏しい。このままふっとどこかに行ってしまってもおかしくないような不安定が漂っている。

 ただ、その中にぽんと賑やかな色合いのものが置かれていることに、わたしは気づいた。人形――というかぬいぐるみだ。珍しいものじゃない。今流行っているアニメのキャラクターだから、あちこちでグッズを見かける。

 桃子さん、あのアニメ好きなのかな。全然知らなかった。色々話して、結構仲良くなったような気がしていたけど、やっぱり知らないことだらけだ。

「あの、下に行ってお茶でも飲みません?」

 一人になるのも、桃子さんを一人にするのも怖かった。桃子さんは「そうだね、お茶にしようか」と行って、わたしの後についてきた。

 階段を降りながら、「そういえば、前は一階で寝起きしてたんだ」と桃子さんが言った。

「お腹大きかった頃ね。階段の昇り降りがしんどいから」

「ああ、客間ありますもんね」

 掃除のために入るから知っている。確かに私室として使われていても全然おかしくない造りだけど、そのときわたしはあることに気づいて、ぞわぞわといやな感じがした。

 あの部屋の窓からは、離れがよく見えるのだ。


 七時くらいに帰宅した孝太郎さんと入れ替わりに家を出たとき、思っていたよりも緊張していた自分に気づいた。それから、紛れもなくこの家の住人である桃子さんと孝太郎さんのことを考えた。彼らの傍らに、あのエプロンをつけた女性がひっそりと立っているところまで想像してしまい、慌てて頭を振って打ち消した。

 家に帰ると、母が出迎えてくれた。

「なーに、ずいぶん疲れた顔してるけど」

「わたしまた見ちゃったかも……アンテナ合う系のやつ」

「またぁ? そりゃ運が悪いね」

 あっさりとそう言われた。あまり深刻でなさそうな感じが、かえって楽でよかった。

「アンテナ合うやつなんて、めったにいないんでしょ?」

 長年祖母と暮らした母は、こんな話も否定せず、慣れた様子で聞いてくれる。

「そうなんだけど、合っちゃったのよ……」

「運が悪いねぇ」

 もう一度同じことをぼやきながら、母は味噌汁を温め始める。

 運が悪い。まったくその通りだ。ラッキーな点があったとすれば、前の職場にいた首吊り女よりも、今日見たあの女性の方がビジュアル的にはずいぶんマシだということだろう。

 わたしはダイニングテーブルに頬杖をついて、彼女がなるべく害のない存在であることをひそかに祈った。

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