19

 足の裏が冷たい。

 靴を履いていないのだと、見るまでもなくわかった。

 私は凍り付いたように、目の前の家を見つめていた。そこに、「離れ」という言葉にはそぐわない空気が漂っているのを感じた。ここは家だ。ちゃんと人が住んでいる。何人もの人が暮らしている、今も生きている家だ。

 リビングの窓に内側から顔を貼り付けて、だれかがこっちを見ている。きっとこの間の子どもだろう。その上にもう一つ顔が現れた。その横にもう一つ。いくつもの顔が、次々に窓ガラスの内側に現れる。

 磨りガラスのせいで顔はよく見えない。でもこっちを見ているということはわかる。

 何かに引きずられるように、私の右足が前に動いた。

 今度は左足が同じように、ひとりでに動いた。一歩ずつ、じりじりと、私は離れに近づいていく。リビングの窓に貼りついた顔。足の裏の冷たい感触。

 もしもあの家に入ってしまったら、私はどうなるんだろう?

 玄関の前のひらべったい敷石に、私の右足が乗った。氷のように硬く、冷たい。このまま行けば、あと三歩ほどで玄関のすぐ前に立つことになる。

 声が出ない。左足がひとりでに前に出ようとする。そのとき、下腹部がぎゅーっと強く痛んだ。

「……いっ、た」

 絞り出すような声をあげて、私はその場にしゃがみ込んだ。腹部の痛みが増していく。痛みの波が収まるまでやりすごさなきゃ――そのとき、誰かが私の肩をぽんと叩いた。

「待ってるからね」

 聞き覚えのない女の声だった。


 痛みで目を覚ますと、私はちゃんと自分の部屋のベッドに寝ていた。

 お腹に手をあて、静かな呼吸を繰り返した。長い時間をかけて吐く、ゆっくりと吸う、また吐く。そうやっているうちに、だんだん痛みが消えてきた。

「はーっ……」

 安堵のあまり声が出た。もうそこまで痛くない。固く張ったお腹をなでながら天井を見上げ、それからようやく体を起こした。

 靴下は汚れていなかった。靴を履かずに庭に出たのは、やっぱり夢の中での出来事だったのだ。

 それにしてもリアルだった……思い出すと急に怖くなった。靴下だけ履いた足の下の冷たい感触。離れに吸い寄せられるように近づいていく途中の焦りも、ほとんど本物だったと思う。

 詳細に思い出そうとすると、またお腹が張ってしまいそうなので止めることにした。もう一度深いため息をつく。私は、夢の最後に肩を叩かれたことを思い出していた。

(待ってるからね)

 そう言われた。あの女性は一体だれだったんだろう。

 知り合いに心当たりはない。私個人の知り合いでも、義母でも、義姉でもない。鬼頭さんも違う。

(この家、何人亡くなってるんだっけ?)

 またいやなことばかり考えそうになってしまう。ここで死んだ女性の霊が庭を彷徨っている――なんてことをつい想像してしまう。火事のときに亡くなったという人か、それともまた別の女性なんだろうか?

「ばかみたい」

 わざと口に出してそう言ってみた。そう、たかが夢のことだ。考えたって何になるだろう? お話の中じゃあるまいし――そう考え始めたとき、インターホンが鳴った。

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