15

「桃子さ、このままこの家に住んでて大丈夫?」

 翌朝、突然こんなふうに話を切り出されたとき、私はなぜかひどくいらついたのだ。「何で?」と返すと、孝太郎は明らかにギクッとなって、心の中で一歩後ろにさがったのがわかった。そう、この人は争いが嫌いだ。争いが始まる前にどうにかして回避しようとする。だから、私がケンカ腰だと話が進まなくなる。

「怒ってないよ、びっくりしただけ」

 そう言うと、孝太郎は「ならよかった」と言って少し笑った。明らかに元気がないのは、月曜日のせいだけではないなと思った。こんなピカピカのキッチンには不似合いな暗い表情をしている。

「でも、何で急にそんなこと言いだしたの? 引っ越してまだ二日なのに」

「いやさ、この家に引っ越してきてから、変なことばかり起こるなと思って」

 孝太郎は困ったように頭をかいた。「幽霊なんているかどうかわからないけどさ。でもやっぱり何人も人が死んだ家だし、そういう下敷きがあると、どうしても気になるじゃない? それで、変な影響を受けちゃうんじゃないかって気がするんだよね」

「……そうかな」

 だから引っ越すのか。この家から離れて――そう考えた途端、急に寂しいような悲しいような気持ちがわいてきた。気が付くと私の両目から、涙がぽろぽろこぼれていた。孝太郎がまたビクッとなる。

「ご、ごめん。何でもない。私、妊娠中だからさ。ナーバスになってるだけだよ。大丈夫」

 私は慌てて「大丈夫」と繰り返した。実際、どうして涙なんか出たのかわからなかった。でも「この家から出て行く」と思った瞬間、胸の中がしんと寒くなったことは確かだった。

「でも、実際引っ越しは現実的じゃないと思う。お金も手間もかかるし、私なんかこのお腹だし。それに産婦人科だって今から変えられないもん。前から通ってたところに通い続けられるっていうのが、ここに住むメリットでもあったでしょ? 大丈夫だよ、何とかなるって」

 一気にまくしたてるように喋った。孝太郎はいちいちうなずきながら「うん、わかった。そうだね」と合いの手を挟んでくれる。

 そう、引っ越しなんて現実味のない、無理な話だ。こんなピカピカのキッチンで、いい天気の朝に、そんな相談をするものではない――そういう気がした。


 その日、まだ予約した日程には少し遠いけれど、かかりつけの産婦人科に行った。

「あの窓からゴロンッて下に降りたっていうか、半分落ちたみたいな降り方だったんだよ?」

 孝太郎は私が真夜中に何をしたのか、真剣な顔で説明してくれた。「今は何ともなくても、念のために行った方がいいよ」

「そう……」

 私はふくらんだお腹を撫でた。確かにここ二日、お腹がひどく張ることがあった。病院には行った方がいいかもしれない。ただ今朝は奇跡的なほどの体調のよさで、「こんな元気なのに、病院に行ってもいいものだろうか?」という遠慮があった。でも孝太郎は「そうだったらいいんだよ、それで」と言って、絶対病院に行くようにと勧める。普段強くものを言わない彼には、珍しいほどだった。

 結局私は一人で産婦人科に行き(孝太郎は仕事が休めないし、私もついてきてほしいとまでは思わなかった)、一時間ほどの待ち時間を経て診察を受け、「胎児は元気。なるべく家でゆっくり過ごすように」と言われて帰ることになった。

 私はほっと胸をなでおろした。

(よかった。急に入院とか、そういうことにならなくて)

 そしたら孝太郎は、きっと心配するだろう。一応何事もなかったということを伝えるため、私は彼に電話をかけた。

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