10
「鬼頭さん、大丈夫?」
野島さんが声をかける。なんとなく「よその人」にかける声だな、と思った。自分のところの社員ではなく、お客さんを気づかうときの声のような――私のこういう勘は、わりと当たる。
鬼頭さんは口元をおさえたままうなずいた。眼鏡の奥の草食動物みたいな目が、離れを見て、私を見て、もう一度離れを見た。
「だ、大丈夫です。すみ、すみません」
ふーっと息を吐き、「まだ出ていません」と小さな声で呟いた。なんのことだろう? と不思議に思っていると、それを打ち消すようなよく通る声で、野島さんがしゃべり始めた。
「ま、そういうわけで、もしお困りのことがありましたらね。遠慮なくおっしゃってくださいね。ああ、お体を大事になさって」
最後の一言は、私のお腹を見て付け足したらしい。二人は最後に丁寧にお辞儀をしてから、近くに泊まっていた白い軽トラック(軽トラの側面に「野島工務店」と目立つゴシック体で書かれている)に乗り込み、走り去っていく。まるで何かから逃げていくようだと思いながら、私はとりあえず家の中に戻ることにした。
(なんだったんだろう)
歩きながら考えた。この家を建てた工務店の社長さんでさえ、あの離れが何なのか教えてくれなかった。「必要なもの」とは言っていたけれど、どうして必要なのか、それが一切不明のままだ。それに、鬼頭さんが呟いた「まだ出ていません」という言葉の意味もわからない。
冷たい風が吹いた。ずっと外にいると、コートを着ていてもさすがに寒い。さっさと家の中に入ると、キッチンの電気ポットでお湯を沸かしながらもらった名刺を眺めた。野島さんの名前が刷られている。
そういえば、鬼頭さんは名刺を持っていなかった。私は頭の中で、今しがた会ったばかりの不思議な女性のことを思い出す。彼女は作業服も、スーツも着ていなかった。少し色あせた茶色のコートに長いスカート。だらしがないわけではないが、カジュアルな格好には違いない。職人にも、事務員にも見えなかった。
どうして野島さんと一緒にいたんだろう?
シューッ、パチンという音がした。電気ケトルがお湯を沸かし終えたのだ。ほうじ茶のティーバッグをマグカップの中で揺らしながら、私はまださっきの二人のことを考えていた。
「まだ出ていません……まだ出ていません……」
鬼頭さんが言っていた言葉をなんとなく口の中で呟いていると、玄関のドアが開閉する音と、「ただいまぁ」という孝太郎の声が聞こえてきた。
「これはなかなか」
「うん、なかなかだね」
買ってきてもらった昼食を食べながら、私は孝太郎に、野島さんたちのことを話した。孝太郎はかぼちゃの煮物をつつきながら、静かに話を聞いてくれた。
「確かに変だよな。そもそも今日、日曜日だし。工務店は休みのはずだけど」
「そっか、今日が日曜だってこと忘れてた」
仕事を辞めてから、どうにも曜日感覚が狂いがちだ。
「確かにその鬼頭って女の人、話を聞く限りは妙だね」
孝太郎も私と同じ印象を持ったらしい。「まだ出ていません、かぁ。その人、もしかしてお化け担当じゃないよね?」
「ああ、ここがいわくつき物件だから?」
「そう。お化けが出たときに対処してくれる係の人――なんてね」
孝太郎は笑いながら、鶏のから揚げを口の中に放り込んだ。「お化けなんか、出ても見えなきゃ気にならないよ。それより離れだよなぁ」
「だよね」
私も同意見だ。実際にあの離れを建てたはずの工務店の人すら、私たちには何も教えてくれない。なぜだろう? あれは一体何なのか? 答えの出ない問を悶々と考え続ける私を、孝太郎は様子を伺うような顔で眺めていたが、
「……あとでおやじに電話してみようかな」
そう言って箸を置いた。
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