第20話
◇◆
壁掛けの時計を見ると、ちょうど21時を回ったところだ。
雨だけではなく、風も勢いを増してきて、窓をダンダンと無作法に叩いてくる。まるで今の、この部屋の
「玲ちゃん、あなたとちゃんとお話ししたいの」
「嫌です。早くここから出て行ってください」
どうしてもお話ししたい丹下さんとそれを冷たく跳ね返す春科玲。昼にやってる討論番組でこんな光景見たことあるな、とそんな感想が浮かんできてしまう。
二人が向かい合ってこのやり取りを繰り返し、早30分も経過している。ほぼ放置状態の俺は棒立ちで二人を眺めることしかできずにいた。
突如襲来した丹下さんを前に、春科玲はあからさまに表情を不愉快の色で染め、態度もしょっぱいどころではなかった。しかしそんな敵意剥き出しの空気を直接受けているのに、丹下さんは大人の柔和さを崩さずに粘りを見せる。丹下さんの濡れた髪や服はもう乾きはじめ、ほのかに汗ばんだ匂いが漂ってくるから俺はバレない程度に深く息を吸うと、頭の中で小さく火花が散ったような感覚が昇ってきた。吐き出すのがもったいなく思えてしまう。
「玲ちゃん、お願いだからわたしの話を聞いて!」
「あなたの顔すら見たくありません。出て行ってください。勝手に時村さんの家に上がってきて、図々しにも
一番勝手に上がってるのによくそんなことが言えるな。俺は丹下さんが来てくれて凄く嬉しいのに。そう言いたかったが、多分ここで水を差したら丹下さんから反感を買ってしまう。ここは静観すべきだ。
そういえば、丹下さんが同僚に俺の家を聞きだしたの、どうやって誤魔化そう。もう付き合ってるって言ってしまおうか。俺も丹下さんのマンション――正確に言えば、エントランスまでだが――に行ったことがあって、丹下さんも俺のアパートまで来てくれたわけだし。
そんなことを考えている間に、二人の言い合いがとうとう止まっていた。敵意丸出しの目の春科玲と、肩を上下に揺らして息を切らしている丹下さん。
一生懸命やってるのに報われない丹下さんを見て、不憫に思えて仕方がない。どうやったら俺はこの人の助けになれるのか、何か妙案はないのか――。
その時、俺に天啓が降りた。
こういう時、想い人の目を覚まさせるのは、いつだって『愛』だ。
俺からの丹下さんへの愛。俺はそれを、形として残していたじゃないか。
「丹下さん、これを見てください!」
俺は部屋の隅に置かれたゴミ袋の封を開け、クシャクシャに丸められた写真を広げ、丹下さんに見せつけた。「丹下さん、これが僕からあなたへの愛です」
俺が告白同然の言葉に、丹下さんは固まった。目を丸くして口をあんぐりとさせている彼女は今までに見たことがなく、「撮りたい」と、反射的にそんな欲望が湧き上がったが、さすがに厚かましいかなと思い、とどまることができた。
「……何それ」丹下さんが小さく呟く。
「これですか? これは会社の昼休みに丹下さんがお一人で牛丼屋に行ってるときの写真です。確か、この時はおろしポン酢牛丼を注文していましたよね。ちなみに僕はチーズ牛丼を注文しました」
適当に手に取ったのだが、人に見せれるものでよかった。丹下さんが部屋で着替えてる写真とかだったら、さすがに気持ち悪いもんな。
「気持ちわる……」
「……え?」
グロテスクな造形をした昆虫を見たときのように、丹下さんは顔を歪めている。
そんな言葉が来るとは思っておらず、虚を突かれ、言葉を発せずに立ち尽くしていた俺に、彼女は不快感を露わにした声で俺を責め立てた。
「あんた、私を盗撮してたってこと……?」
「ち、違うんですッ! 実は僕、前から丹下さんのことが好きでして……」どうにか話を聞いてほしくて、俺はゴミ袋から掴めるだけの写真を掴み、それら全てを丹下さんの眼前で広げてみせる。「丹下さんの綺麗な姿を記録として収めたくて、それで写真を」
丹下さんの顔が一層歪んだ。俺から数歩後ずさり、信じられないくらい不快感がこもった声を洩らした。
「それってストーカーでしょ……普通に気持ち悪い。名前を呼ばれるのも鳥肌が立ってくる」
ストーカー? 違うんだ。どうして? 告白までしたのに。俺は遠くからずっとあなたを見守っていただけなのに――。
「時村さんが気持ち悪い……? 何を言ってるんですか!」
突如、春科玲が横やりを入れてきた。春科玲はおもむろにショルダーバッグからスマートフォンを取り出すと、丹下さんに突きつけた。
「これとか、凄くかっこよく撮れてるんですよ。ほら、見てください。この時村さんの真剣な表情を見てるだけで、足の力が抜けちゃいそうになります」
そこに映っていたのは、夜中、外で歩いている俺の姿――丹下先輩の後をつけているときの俺の後ろ姿だった。
白い指が画面をスワイプさせると、次も俺が映った写真が出てくる。次も、その次も、例外なく俺が映っていた。
「時村さんに会えなかった間、ずっと時村さんを撮ってたんです。寝る前に色んな時村さんを見ると、安心してよく眠れるんです」
思わず絶句してしまった。俺は、盗撮されていたのだ。
瞬間、俺の皮膚がぶわっと
「な」
「玲ちゃん、私もなの!」
俺が言葉を発しようとしたとき、丹下さんが俺を押しのけて春科玲に近寄った。その手には定期入れが握られていて、丹下さんはそれを開くと感激の声を出した。
「私も玲ちゃんの写真撮ってるんだけど、同じ趣味ってこと!? これってお揃いじゃない!?」
そこには電車に乗っている春科玲の写真が入っていた。制服が夏ごろのものだ。何がお揃いなのかは俺にはわからなかった。
「……気持ち悪いです」
自分の盗撮写真を眺める春科玲は、ぞっとするほど表情から感情が抜け落ちていた。
女の放つ空気が変わった。ネットリとした、こちらにまとわりついてくるかのような殺気に。
「撮られるなら、時村さんに撮られたかったです」
言いながら、女は自身のショルダーバッグから何かを取り出した。
「やっぱり、あなたみたいな人は時村さんから排除しないといけないですね」
女の手に握られている物は――
淀みない所作で女は鋏を丹下さんに向ける。
ジョギン
鋏が開閉する。切っ先は、ちょうど丹下さんの首辺りの高さだった。
「じゃないと、時村さんがまた変になっちゃう」
女の眼は真っすぐ丹下さんを捉えている。これから自分の巣に絡まった餌を捕食しようとする昆虫のように見えた。
「丹下さんから離れろ!」
俺は咄嗟に丹下さんを庇うように間に入り、女と真っ向から対峙する。
「ダメ出すよお、時村さん。その女は時村さんにとって害でしかないんですから」
子供をあやすように女は言う。この女に子ども扱いされていることに腹が立つが、今は丹下さんの安全が最優先だ。
こいつが俺を刺すことはない。打算的だったが、そんな確証を持っていたから、俺は怖気づかずに本音を口に出せた。
「俺は丹下さんを愛しているんだ! お前に振り向くことは絶対にない! 諦めてくれ!」
「わたしは時村さんを愛しているんです! 初めては時村さんに捧げたいんです! 絶対に!」
俺は初めては丹下さんがいい。
「わたしは玲ちゃんがいいの!」
大変だ。意見が割れてしまった。
こんな状況、初めてだ。なんだこれは。どうすればいいんだ。
告白も失敗した。好きな人に凶器を向ける女もいる。困り果てていると、不意に丹下さんが俺の方に顔を向けてきた。
「どうしてあんたなんかが」
憤怒に満ちた声を俺に発した。どうしてあんたなんかが、春科玲に気に入られているんだ。そう言いたいのだろう。
臨界まで達した怒りが、俺に向けられたようだ。20分以上放置された俺だったが、ようやくの目を見ることができた。
何かを言おうとした。が、喉まで上ってきたその言葉は、ものの見事にどこかに飛散してしまった。
眼だ。丹下さんの眼が、俺の時間を止めたのだ。
もし現代に視線で人を殺せる技術があったら、丹下さんの鋭い眼光は俺の存在すらも抹消させるほどの威力を持っていたことだろう。
美しい。俺を憎悪で殺さんとする彼女の双眸はどんな宝石よりも気高く凛然で冷徹で情熱的で排斥的で、何より輝いていた。俺の乏しい語彙力では『美しい』という単語以外では言い表せられなかった。
「あんたみたいな人間が、なんで玲ちゃんにこんなに愛されてるんだあッ!」
丹下さんが叫ぶ。
ああ、今日はなんて幸せな日なんだ。邪魔はいるが、それを差し引いても大いにプラスだ。
丹下さんが、その眼で俺を射抜いてくれている。その眼で俺の存在を認めてくれている。その眼で、俺に、世界で一番特別な感情を抱いてくれている。
「あんたみたいな仕事もろくにできない気持ち悪い男が、わたしから玲ちゃんを奪うんじゃないわよッ!」
下腹部がじりじりと滾り、でもしんしんと引っ込むような、でもぴりぴりと痺れるような、色んな感覚が俺のそこに集約され、気持ちが良い。心臓の鼓動が鳴りやまない。涙と鼻水が溢れ出て止まらない。普段と変わらない、拍子抜けするくらいいつも通りの丹下さんがそこに居るだけで、俺の頭はとろけてしまいそうだ。
そうか、これが……締め付けられるような感覚が、恋愛なのか。
ありがとう。俺の腹の底から、自分の意識すら呑み込んでしまうほどの巨大な感謝の意が、込み上げてくる。丹下志乃さん、生まれてきてくれてありがとう。丹下さんのお母さんも、丹下志乃さんを産んでくれてありがとうございます。丹下志乃さん、あなたのおかげで、俺は今、全力で『愛』ができています。
俺をもっと見てくれ。身体に血が流れているように、激流のような憤慨の中にこそ愛は流れているのだ。俺という姿形が愛そのものに成れるように。もっと俺をトばしてくれ。俺に愛をしてくれ。もっと見せてくれ。誰も知らない丹下さんを、俺だけに――。
「やめてください!」
が、俺と丹下さんの間にいきなり華奢な体が割って入ってきて、景観が大きく損なわれてしまった。春科玲、いつもいつも邪魔しかしない女だ。
何をしてくれるんだ。お前が邪魔で丹下さんの顔が見えなくなったじゃないか。
「自分の思うようにならないからって時村さんに当たらないでください! 大人として恥ずかしいと思わないんですか!? 時村さん泣いてますよ!?」
「おい」
俺の口から怨嗟の声が洩れる。
何度、俺の足を引っ張れば気が済むんだ。
お前のせいで。
「見えないんだよ、お前のせいで」
「え……」
「さっさとそこを――」
「と、時村さん……どうしたんですか、コ、こんな時に告白なんて……」
女は持っていた鋏を床に落とし、慌てるような素振りを見せた。
「は? お前、何を言って……」
春科玲はふやける表情筋を支えるように両手で顔を覆い、気恥ずかしさに悶えるように体をくねらせる。それを見た丹下さんは「恥ずかしがる玲ちゃん、かわいい……!」と感激している。
「だって、わたしで見えないって……わたししか見えてないってことじゃないですか……。い、いきなりそんなの困ります……。でも、わたしも時村さんのことしか――」
頬を赤らめて何を言ってるんだこの女は。気でも触れたか。
「玲ちゃん! そんな男の言葉は信じちゃだめよ! 私も玲ちゃんしか見えてないんだから!」
「あなたに見られても1ミリも嬉しくありません! そこら辺にいるカラスに見られてる方がマシです!」
「なんでこんなゴミみたいな男を気に入るの!? わたしのほうが綺麗で賢いのに……!」
「年取りすぎて老眼になってるんじゃないですか? 時村さんは男らしくてわたしのことを一途に愛してくれる素敵な人です!」
「おい! 丹下さん失礼なことを言うなよこのストーカー女! 丹下さん、一旦落ち着いてください!」
「無能不細工がうるさいんだよ! 百合の間に汚い男が入ってくるんじゃねえよ!」
「時村さん! この人頭がおかしいです! こんな自己中で醜いおばさんは見たことないです!」
「黙ってろこのメンヘラストーカー女! 丹下さん、この女は危険です。僕が食い止めるから、早くここから逃げてください!」
「気色悪い顔面で話しかけないで! あんたがとっとと出ていきなさいよ!」
「いえ、出て行くのはあなたです! わたしと時村さんの愛の巣に土足で踏み込んでおいて、なんでそんな図々しいこと言えるんですか!? 典型的な老害女ですね!」
ダメだ。どうして誰も俺の言うことを聞いてくれないんだ! もはやこの場で冷静なのは俺だけなのか……!?
とにかく、早く丹下さんの目を覚まさせないと。でもどうしたら――。
いくら考えても妙案は出てこず、そんな時にインターフォンの音が鳴り響いた。
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