第19話
◇◆
走る。走る。走る。走る。走る。
スーツが濡れることもスラックスに水が跳ねることも気にせず、雨の中をただひたすらに走る。
目指す場所はただ一点。俺の住むアパートの、俺の部屋。もうすぐそこまで来ている。丹下さんの家からわりと近めの住まいを選んでいてよかった。
春科玲の口ぶりからして、奴は確実に俺の家に上がり込んでいる。もう「どうして」などとは考えない。手段はどうあれ、春科玲が一連の騒動の犯人で、俺に会うことを望んでいるのだ。しかも、行かなければ丹下さんに危害を加えることまでチラつかせている。
そして、あの女がこんなことをしでかした原因は、十中八九俺だ。あの日の、あの最悪の別れ方が春科玲をおかしくさせてしまったのだ。
俺の責任だ。俺が止めないと。俺が丹下さんを守らないと。
アパートが俺の視界に入る。毎日帰ってきている場所なのはずなのに、その建物がこの世界の不吉の象徴のように見えた。
アパートに辿り着くと階段を駆け上り、自分の部屋の前に立つ。雨の中結構な時間走ったものだから、汗と雨水で全身が濡れて気持ちが悪い。
俺の部屋は電気はついてなく、カーテンも閉めきられていて、俺が今朝ここを出た時とまったく同じ状況だ。
ドアノブを握ると、反射的に手を離してしまった。握った瞬間、ぞわりとした気持ちの悪い感触が手の甲から二の腕に伝ってきたのだ。これは本当に俺の家か? そんなことが頭をよぎり、自分の部屋のドアに戸惑いの目を向けてしまう。
息を深く吸い、吐き出すと、もう一度ドアノブを握り、回す。後ろに引くと、いとも
オーソドックスなワンルームの間取りは玄関からすぐ歩くと8畳ほどの居間が広がっている。
その居間のど真ん中にいる黒い影が立っているのを認識し、思わず悲鳴を上げそうになった。
「ハ……春科……さん……?」
上擦った声で呼びかけてみるが、黒い影は特に反応を示さない。
突然動き出して俺に向かって飛びかかってくるのでは。そんな想像をしてしまい、なるべく音を立てず、恐る恐るといった足取りで上がり
照明のスイッチを押すと、明かりがつき、居間にいた人物が鮮明に見えた。
「……あれ? 時村さん?」
その部屋の中を見て、思わず目を見張ってしまった。
案の定というべきか、春科玲がそこにいた。
紺のロングスカートに、薄いベージュ色のカーディガン。小物入れとして肩に掛けている小さめのショルダーバッグ。黒色のショートブーツは玄関で脱いでいたが、少女は俺が縁切りを告げたあの日と同じ格好をしている。
しかしその装いはあの日のような大人びた雰囲気を全く感じさせず、ただただ暗くて
何より、ただでさえ血色の悪い少女の顔があまりにも
「インターフォンの音が聞こえなかったような……って、ここは時村さんのおうちでしたよね。あはは」
不気味に
言いたい事はたくさんあるのだ。しかし、丹下さんの身を案じると好き放題に言うことは
「すいません、時村さんの部屋の空気を吸っていたから、気づきませんでした」
彼女の目の下には
「嬉しいです。本当に来てくれたんですね」少女はうっすらと笑いながら言う。
刹那、俺の背中に悪寒が走った。生気のない顔が作る不気味な笑顔に、気づけば手のひらがぐっしょりと汗をかいていた。
「ここでわたしと通話していたって考えると、なんだかすごく神聖な場所に思えてきます」俺の部屋を見渡しながら、春科玲はうっとりとした声を出す。
「あのケーキは……君がやったのか……?」
「あ、見てくれました?」普通に聞いていたら気づかない程度に彼女は声を弾ませる。「あの女、驚いてましたよね? わたしは虫とか結構平気なんですけど」
「どうやって……俺は宅配ボックスに入れたはずだ」
「時村さん、お金さえ払えば何でもやってくれる人たちって、結構いるんですよ。わたし、親がお金持ちなので、やろうと思えばそういう人たちは簡単に雇えるんです」自慢してるわけでも得意げに言うわけでもなく、彼女は俺の知らない世界を淡々と語っていく。「朝に時村さんがあの女のマンションに何かを届けていたので、取ってきてもらって、わたしが手を加えたんです」
手を加えたと言うにはあまりに度が過ぎている。それくらいのことは理解できているはずなのに、目の前の少女に悪びれる様子は全くない。
「……俺の部屋に入れたのもそういう連中に頼んだのか?」
「それは違いますよ」春科玲はふるふると首を振って黒髪を揺らす。「このアパート、鍵が古いタイプなのでわたしでも簡単に開けられちゃうんです。今度時村さんにも教えてあげますよ」
引っ越そうかな。そんな教えられたらすぐにできちゃうなら。
「それに、開けるのが難しくても他の人には頼みませんよ。時村さんの家に私以外の人間が入るなんて、許せないじゃないですか」
後半につれ語気の強くしながら、焦点の合ってない少女の目がぐわっと大きくなった気がした。今頃、彼女の脳内では俺の家に勝手に上がってきた不届き者に対して制裁を加えているのだろう。そもそも、もうすでに彼女が不法侵入者なのだが、本人はそうとは思ってないようだ。
やっぱり引っ越そう。心の内で決意を固めていると、春科玲は不思議そうな顔をした。
「時村さん、すごいずぶ濡れですね。シャワー浴びてきた方がいいですよ。タオルと替えの服は用意しておくので」
それが自分の務めだとでも言うかのような口ぶりだ。その清々しさには不快感すら湧いてこない。ある意味で才能だ。
「そんなこと今はどうでもいい」
俺は一蹴する。
「それより聞きたいことがある」
外から聞こえる雨音が強まっている。窓に当たる水滴の音も弾幕のようにとめどなく、ちょっとした大雨になってきたようだ。
「どうしてこんなことを……でしょうか?」
「違う」
再度一蹴する。
彼女はわかってない。あえて知らないふりをしているのかもしれない。どっちでもいい。どうでもいい。
一番問い
「――部屋の写真、どうした?」
怒りの感情を抑えられているのか、自分でもわからない。
無いのだ。一枚も。俺が飾っていた丹下さんの写真が。
「ああ、それならあっちですよ」
春科玲はベランダ際を指さす。そこにはゴミ袋が3つ、無造作に置かれていた。どれもはち切れる寸前まで物が詰め込まれた状態で口が縛られている。
「掃除大変でした。壁いっぱいに貼られていた写真もなんですが、天井に貼られてたやつは手が届かなくて……椅子や机に乗ってなんとか剥がしていったんですよ。……あ、乗った後はちゃんと除菌シートで拭いてるので、大丈夫です。ああいう単純作業、わたし結構得意なので、ほら、壁も天井も傷一つないですよ」
ゴミ袋は半透明になっていて中を全部確認することはできないが、むりやり押し込められたそれらは、グシャグシャに丸められていたり切り刻まれていたり、価値が無いものと断定しているかのような処遇を受けていた。
「壁にも天井にも一面あの女の写真で囲まれていたので、最初の方は具合悪くしながら片付けてたんですよ。でも、わたしも同じようなことをやってるので、似た者同士って感じでなんか嬉しいです」
両手の指を合わせて照れくさそうに女は
頭の血管が切れる音がした。
ゴミ袋に詰められているのは、愛しの人との思い出。俺が5年かけて
出勤してる丹下さん。仕事に集中してる丹下さん。自席でうとうとしてる丹下さん。お昼ご飯を食べてる丹下さん。夜道を歩いてる丹下さん。飲み会で女性社員と談笑してる丹下さん。髪をかき上げる丹下さん。帰宅して着替えてる丹下さん。お風呂上がりの丹下さん。休日に買い物してる丹下さん。笑顔の丹下さん。にっこり顔の丹下さん。
全て例外なく俺が自分で撮影したものだ。写真サイズからポスターサイズまで大小さまざまで丹下さんには許可をとっていないが、ゆくゆくは俺の愛の度量として差し出し、一緒に鑑賞する予定だった。それは近い未来に実現するはずだったのだ。
「一応聞くけど」今、自分がどんな顔をしているのか、俺自身もわからなかった。「どうしてこんなことを?」
俺の質問に、目の前にいる女は薄い笑みを浮かべると口を開いた。
「わたし、時村さんが大好きです」
「は?」
「わたし、思うんですけど、わたしと時村さんが出会ったから今のわたしが大好きな時村さんになったって、そう思うんです。これって奇跡ですよね。だから、わたしと時村さんは離れちゃだめなんです。だからあの女を排除しないとだめなんです」
意味が分からない。こいつはもうだめだ。
「時村さんとわたしって、やっぱり何か縁みたいなものがあるんですかね。ここに来てから9時間くらいしか経ってないんですけど、す、好きな人のためなら触りたくないゴミもちゃんと捨てられて、成長できたっていう実感があるんです。あ、そういえば時村さんが飲んでるサプリって効果ありました? 好きな人と同じものを体に入れるのって、それだけで生きる
女の口から吐き出される雑音は、俺の耳に一切入ってこなかった。
俺はゴミ袋に詰め込まれた写真の残骸たちを眺めながら、自身の行いを強く悔いていた。
女子高生を痴漢から助けたら、思いのほか懐かれてしまったようなんだが――
「ふざけるなよ」
――彼女の向けてくる感情を、俺は1ミリも受け止められない。それどころか、俺は今、この女を憎んでいる。殺してしまいたいほどに。
気配りをし、気をつかい、お互いが心地よく感じる一定の距離感を保っていてあげたのに、待っていたのはこの結果。こいつは俺の善良さに付け込んで俺の
俺の将来を踏みにじり、丹下さんとの思い出をゴミ扱い。まともな対話をしようとせずただ自分の言いたい事だけを言う。そんな人間を、受け入れられるわけないだろ。
「ふざけてなんかないです」
女は言うに事を欠いて述べていく。頭がおかしいことに自覚はないのだろうか。
「あの女が時村さんをおかしくさせてしまったんです。時村さんからあの女を取り除かないとだめなんです。じゃないと時村さんがわたしの知らない時村さんになってしまうんです」
皮膚のすぐ下から煮えたぎってくる衝動を抑えなるので精一杯だ。声を聞くだけで頭がおかしくなってしまいそうなのに、女は素知らぬ顔で口を動かしていく。
「わたし、気づいたんです、自分の気持ちに。わたしの癖……興奮すると早口で喋っちゃう癖……自分でも嫌だなってずっと思ってたんですけど、はじめて時村さんと〈タクレジェ〉をした日、『それでもいいよ。個性だ』って、時村さんは言ってくれました」
そんなこと言ってたか。自分でも覚えてない。
「わたしを受け入れてくれるのは、時村さんしかいないんです。わたしには、時村さんしか――」
俺を見る女の目は狂信的で熱狂的で、何を言っても無駄なのだとこちらに悟らせるには十分だった。
「駄目だ」それでも俺は言わないといけない。拒絶の言葉を、正面から。「俺には他に好きな人がいるんだ」
「知ってますよ。丹下詩乃さん、ですよね」
丹下さんの名を馴れ馴れしく口に、女は顔に笑みを貼り付ける。
「時村さんが、あの女の後ろをついていってるというのも、私には仕事が長引いていたって嘘をついているのも、全部知ってます……時村さん、嘘つくとき笑い混じりなんですもん。わかっちゃいますよ」
ペットを愛でるかのように女は笑みを溢しながら言う。
そうか。そういえばゲーム中の会話の中で何度も嘘をついてたな。だがそれは今はどうでもいいことだ。
「時村さんはいいんです。いくら嘘をついても、わたしは時村さんの丸ごとを愛していますから」そこで、女の目に殺意の色が宿った。「あの女さえいなくなれば、全部丸く収まるんです」
やっぱり本当に殺してしまおうか。そうしたら丹下さんに危害が及ぶ心配もなくなる。そんな考えが頭をよぎるほど、今の俺に全うな思考能力は備わってなく、冷静さの仮面がボロボロと剥がれていっていた。
「時村さん言ってたじゃないですか。何よりも自分の気持ちを大切にしろって」
女の声が、俺の神経を逆撫でしていく。俺の中の黒々とした感情が泡立っては破裂し、そのたびに肥大化する殺意に体が小さく震えているのがわかる。
「だから、わたしは自分の気持ちに従うって、そう決めたんです」
こいつは、俺みたいな丹下さんに迷惑を掛けず、それどころか見守ることで彼女の身辺警護をしているような人間とは大違いだ。親にやってもらってばかりで社会を知らず、人の気持ちを考えられず、身勝手で自己中心的。それがこの女の本性だ。
「何を言われよと、どう思われようと、わたしは時村さんを愛しています……例え、わたし以外の人を愛していようと」
キッチンの戸棚に包丁がある。でも血が噴き出たら後処理が難しい。収納ラックにLANケーブルの予備があったはず。首を絞めるには十分だろう。……ああ、収納ラックと言えば確かあれがあったな。
「わたし、人からよく幼く見られますし、胸とかもあまり出てないですけど」
女はこちらに歩み寄り、俺の腕を掴むと、自分の頬に持っていった。
「わたし、たくさん努力して時村さんの理想の女性になります。それでいつか、時村さんの一番になりたいんです」
俺の手を愛おしそうに頬に擦り付け、女は声を昂らせた。
「いや、無理だ」手を振り払い、俺は言う。「ありえない」
「わたしが時村さんの理想の女性になります」
「無理だ」
「そうやって厳しい言葉を投げてくれる時村さんも、私は好きなんです」
俺がいくら否定しようと、女の表情は崩れない。すべて都合のいいように解釈されてしまう。
「もういい」
もはや呆れの感情すら芽生えてきていた。時間の無駄だし、終わらせよう。
「あれ? 時村さん、どうしたんですか?」
何も言わず収納ラックの方に歩み寄る俺を見て、女が不思議そうな声を出す。
その声を無視し、収納ラックの横に置いてあるゴルフクラブのケースを開けた。中には様々な種類のゴルフクラブが入っていて、俺はその中の一本を握り締めた。
「あ、時村さんってゴルフやるんですね。わたしのお父さんも趣味でやってるみたいなんですよね。わたしはゴルフはやったことないのでよくわからないんですけど、時村さんがやってるならわたしもやってみようかな」
会社の付き合いでゴルフに行った際、先輩から
ザアザアと激しい雨音が鼓膜を叩いてくる。この大雨なら、ちょっとした殴打音もかき消してくれるだろう。
「そろそろ、攻守交代だ」
腕に力を込め、ゴルフクラブを振り上げようとしたその時――。
「あ、誰か来たみたいですね」
インターフォンの音が鳴り響いた。誰かが来た。
この状況で聞こえてくる
こんな時に、一体誰が。出るべきなのか。
どうすべきか決めあぐねていると、インタフォーンが連打された。
電気もついているから居留守するわけにもいかず、ゴルフケースを閉めて玄関の方に行く。
魚眼レンズを覗いて来訪者を確認すると、そこには俺の直属の上司である丹下さんがずぶ濡れで立っていた。
…………………………………………………………………………………………え、丹下さん?
「タ……丹下さん……? どうしてここに……?」
「あんたの同期に聞いたのよ。あんたの隣の席にいるあいつ。多分変な誤解してると思うから、明日適当に誤魔化しておきなさいよ」
俺がスマホを投げ捨てて行ってしまったから俺に電話をかけれず、同僚にかけたのだろう。会社内で俺の住んでる所を知ってるのは隣の席の同僚だけで、しかもあいつは――俺もだが――丹下さんのチームに属しているから連絡先も把握していたと。これは運がよかったと言うべきなのだろうか。
こんな形で丹下さんが俺の家に来るなど、予想だにしなかった。最後に会ってからそう長い時間経ってないはずなのに、望郷の念にも似た心地よい
魚眼レンズ越しに見つめ合う俺と彼女。その澄んだ瞳に俺は爆発しそうなほどに胸は高鳴り、金魚のように口をパクパクと開閉させるのが関の山だった。
「おい」
ドアの向こうから声が聞こえてきた。怒気のこもった、聞き覚えのある声質。そうだ、俺が会社の非常扉前で丹下さんに詰められたときの、彼女の第一声だ。もはや聖地といってもいいあの時の情景が、今でも鮮明に思い出せる。丹下さんもそうだったらいいな。
「いるんでしょ。そこに、玲ちゃんが」
思い出に浸っていると、丹下さんが尋ねてくるものだから、「います」と俺は即答する。
「入れてほしいんだけど」
「どうぞ」俺は鍵を開け、丹下さんを招き入れる。
ドアを開けた瞬間、丹下さんは雑にパンプスを脱ぎ散らかし、俺を置いて廊下をドスドスと歩いていく。雨の中傘も差さずに来てくれたのだろう。見ると、廊下に丹下さんの湿っぽい足跡が付いている。その蒸れた軌跡を踏みしめながら、俺も後ろに続く。
俺と丹下さんと春科玲。3人の会合がまた実現してしまった。
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