第18話

 ◇◆


 外から雨の音が聞こえる。曇っていたが、降りはじめてきたようだ。無音のエントランス内にザアザアという音だけが鳴り響いている。


「な……なによそれ……」


 丹下さんは血の気が引いた顔で地面に崩れ落ちたまま、振り絞ったように言葉を吐き出す。その声には恐怖や狼狽、怯えといった感情が大半を占めていた。

 彼女の声は俺の耳まで届いている。が、俺はケーキだったものに視線を落としたまま、何も言えずにいた。


 俺も知らない。

 朝、家を出るとき、俺は確かに確認したんだ。箱の中は綺麗なホールケーキで、そこから一切箱を開けずにこの宅配ボックスに入れた。落としたりするようなことも一切なかった。


 なのに、なんだこれは。

 だって、ここに入れたら暗証番号を知らない限りはもう開けることができないじゃないか。こじ開けたりした痕跡もなかったし、誰にも触れられない。そんなの自明だろう。

 じゃあ、なんで。同じ疑問が頭の中に何度も浮かぶ。


「それ……もしかして、あんたが……?」


 青白い顔で丹下さんが言う。声量は小さかったが、俺への敵意が滲み出ていた。


「ち、違います! 俺は――」


 俺は咄嗟に否定しようとする。

 が、それを遮るようにどこからか着信音が鳴り響いた。発信源は俺のポケット――俺のスマートフォンから。

 取り出すと、非通知からの着信だ。

 こんなときに誰だよ。いつもの俺なら非通知は無視するのだが、タイミングがタイミングだったし、丹下さんが落ち着くまでの逃げの感情もあり、電話をとった。


「もしもし?」

『……………………』

「あの、どなたですか?」

『……………………』


 返答はない。本当に電話の向こうには人間がいるのかと疑ってしまうほど、息づかいすら聞こえてこない。

 いたずら電話か? よりによってこんなタイミングに。

 そう思った矢先、俺の脳裏にある人物が浮かんだ。プライベートで俺と丹下さんが揃ったあのカラオケのドリンクバー前での出来事。そのときのことを思い出したからかもしれない。もう一人いた、あの人物のことを。


「……春科さん?」


 深い考えなどはなく、なんとなく、その名前を口にした。視界の隅で丹下さんが反応したのが映った。


『……時村さん』


 彼女の、春科玲の声だ。通話越しの声は聞き慣れているはずなのに、どこまでもどんよりと粘着質で、首筋に不快な感触が上ってくる。


「君がやったのか?」


 まったく関係なかったら、俺が何を尋ねているかわからないだろう。だが俺には確信があった。俺のケーキを台無しにした張本人は、この電話の主なのだと。


『時村さん、会いたいです』


 俺の問いには答えない。答える気がないのか、俺の声など届いてないのか。


『わたし、今、時村さんの家にいます』

「…………ッ!」


 当然のように言う春科玲に、俺は言葉を失ってしまう。

 俺の家? 家の前にいるってことか? それとも……。


『箱の中、見ましたか?』


 俺に思考させる間も与えないまま矢継ぎ早に声が聞こえてくる。


『会えないなら、わたし、これからも時村さんに迷惑をかけてしまうかもしれないです』

「やっぱりお前が……!」

「ねえ……電話、玲ちゃんなの……?」


 頭に血が上って周りが見えなくなっていた。

 丹下さんが俺の近くまで来ているのに気づかず、出かかっていた言葉が寸前で止まった。


『あ、やっぱりいるんですね。あの女』


 春科玲の声の調子が明らかに変わった。どす黒い感情を明るい調子で隠しているような声色には不快感を感じざるをえない。


『会いに来てほしいです。わたし、時村さんの部屋綺麗にしておいたんですよ。あの女と違って家事もたくさんできるんです』「ねえ、玲ちゃんなんでしょ? なんて言ってるの?」『あの女、絶対部屋とか汚いですよね。あんな汚い女が時村さんをたぶらかしていたなんて、時村さんが洗脳されてるとしか思えないです』「もしかして、今日は来れなくなったとか? 日を改めるとか? ねえ、答えなさいよ」『時村さんって、一途な方ですよね。でも、あの女はまるで時村さんに振り向かない。……本当に許せないです』


 丹下さんと春科玲。両側から聞こえてくる声に頭がおかしくなりそうになる。立ち眩みもしてきて、息が苦しい。

 なんだこれ。どういう状況だ。これ現実か?

 頭が上手うまく回らない。思考しようにも、何もかもが上滑りして何も考えられない。俺が眩暈めまいを起こしているのか、実際に世界が揺れているのか、それすらも判別がつかない。

 いっそう、もう倒れてやりたい。そんなことを思った時、電話の向こうから独り言にも似たささやき声が聞こえてきた。



『――殺してやりたい』



 心から呪うようなその言葉に、全てが吹き飛んだ。

 気づけばスマートフォンを投げ捨て、何も持たずに走り出していた。背中から丹下さんが叫んでいる声が聞こえたが、振り向くことはなかった。

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