第21話
◇◆
インターフォンの音に、3人はほぼ同時に喋るのを
互いに目を合わせる。「誰?」と。しかし俺に心当たりはない。
再びインターフォンの音が鳴る。なぜか、その音色が不気味な音階に聞こえて仕方がなかった。宅配便を頼んだ覚えもないし、しかもこのタイミング。不吉な物を感じてしまざるをえない。
応対すべきか否か。こんな状況だと、ここは無理にでも居留守を使いたいというのが正直なところだった。丹下さんも春科玲も同じことを思っているのだろう。誰も喋ろうとしない。
インターフォンの主が諦めて去るまでこのまま無視を決めこもう。そう思ったのだが、予想外な音が聞こえてきた。
ガチャリ
玄関のドアが開く音が、聞こえた。同時に、雨の音が何段階も大きく聞こえてきた。
鍵はどうしたんだと思ったが、そういえば丹下さんが来たときに俺が鍵を閉め忘れたんだと、今更思い出して納得してしまう。
トス トストス トス トス トストストス トストス トス トス トス
不規則で力が入ってない足音が、真っすぐこの居間に向かってきている。
そうやって俺たちの前に現れたその人物は――。
「……誰?」
最初に声を発したのは、丹下さんだった。
勝手に俺の家のドアを開け、勝手に居間に上がってきたのは、びしょ濡れのスーツ姿の中年男性だった。
特に特徴のない中肉中背の体形。白髪混じりの頭髪は手入れをしていなさそうで、垂れた前髪から雨水が滴っている。微妙に開いてる口からは空気以外にぶつぶつと何か言っているようだが、聞き取ることができない。
そして、手には刃渡り数十センチのナイフが、握られていた。
「ひっ……」
気づいた瞬間、俺から情けない悲鳴が出た。体内の血が一気に引いて、手先の感覚が一切なくなる。不自然なほどに喉がカラカラになってきた。
いつもいるはずの俺の部屋が、ナイフを持った男一人で別の空間のように感じられた。部屋の主は俺なのに、息をするだけで疲労感が蓄積されていく。
誰? 俺も丹下さん同様に心当たりがない。後ろにいる春科玲を一瞬見るが、怯えた様子からでは何もわからなかった。
スーツの男は何も言わない。死体がそのまま立っているかのような蒼白で無感情な表情は、何を考えているのか全くわからない。どこを見てるかも分からない両目が、俺たち三人をじっと見つめているだけだ。
明らかに普通でない空気を醸し出している男の乱入に、俺たちは恐怖で何も言えず、指一本動かせずにいた。
男がドアを開けなかったせいで、外から来る雨の音がずっとうるさく聞こえてくる。時折りゴロゴロと雷の音まで聞こえてきている。きっと玄関はずぶ濡れになってしまっているだろう。
スーツの男は見れば見るほど不気味な容貌だった。
あれ? どこかで見たことがある。
不意に、そんな感想が浮かんだ。しかし、どこで……。
服装が服装なのだから、社会人なのは確かだ。だが俺の会社にはこんな顔の人はいない。客先の人にも心当たりはない。
じゃあ会社とは関係ないところで会った人、ということになる。俺が会社以外でスーツを着た人と顔を合わせるシチュエーション――それは、行き帰りの通勤だ。
「…………あ」
思い出した。
この人、痴漢のおじさんだ。春科玲の尻を触っていた、あの人だ。俺がそれとなく止めるとそそくさとどこかに行ってしまった、あの人だ。
満員の電車。俯いて震える春科玲。無表情ながら興奮の鼻息を漏らすおじさん。一度思い出せたら、その時の記憶が鮮明に俺の脳裏でよみがえる。あれのせいで俺と春科玲の関係がはじまったのだから、ある意味ではこの状況を作った元凶ともいえる人物だ。
思い出せたのはいいが、じゃあ一体なぜここに来たのか、それは全く分からない。
俺の声に反応し、おじさんの死人のような目が、ぎょろっと動いた。俺は蛇に睨まれた蛙のように固まった。
「時村さん……?」
春科玲が声をかけてくる。彼女はあの時、背後から尻を揉まれていたのだから、この男と顔を合わせていない。この男が痴漢の犯人だと知る由もないのだ。
しかしこのおじさん、俺の記憶ではもうちょっと肉付きも血色もよかったはずなのだが、こんなに変わり果ててしまったとは。彼に一体何があったのか。
考えていると、丹下さんからの視線を感じた。俺の知り合いか何かと思ったのか、「お前が何とかしろ」と、目で訴えかけていた。
もちろん、このおじさんと俺は知り合いでも何でもない。というか、痴漢をした人とそれを止めた人という関係性で、非常に気まずい。
だがしかし、丹下さんに頼まれたからには俺がやるしかない。ストーカーだと変な誤解を受けてしまっているのだし、汚名返上の良い機会だ。
生唾を飲みこみ、俺は恐る恐る口を開いた。
「誰ですかあなた。いきなり時村さんの家に入ってきて、失礼ですよ」
が、先に声を発したのは春科玲だった。俺を
男の形相が、明らかに変わった。飛び出るほど目をぎょろつかせ、憎悪を噛みしめるように歯を思いきり食いしばらせている。口の端から漏れる荒い息が凶暴な野生動物を想起させた。
男の異常性を直接ぶつけられ春科玲は反射的に床に落ちている鋏を拾おうとする。
が、その前に俺が割り込んだ。春科玲に危害が及んだら丹下さんが悲しんでしまう。瞬時にそう思い、男と春科玲の間に体を入れた。
恐怖と緊張で乾いた口で、俺は
「あの……どうしたんでしょうか……? 何か用でも……?」
ここでこのおじさんが春科玲を痴漢していたのだと明言してしまっては丹下さんも春科玲もパニックを起こしかねない。ここは穏和に、角が立たないよう対応すべきだ。
「……お前のせいだ」
スーツの男は、そこでようやくまともな言葉を吐いた。
ぞっとするほど、殺意のこもった声だった。
「お前のせいで俺は家族から捨てられて、会社もクビになったんだ」
痴漢の件のことを言ってるのか? 俺は明確に痴漢だと糾弾してなかったはずだが、近くにこの男の知り合いでもいたのだろうか。それで痴漢をしていたと広められて、居場所を失ったと――完全に逆恨みじゃないか。自業自得じゃないか。
言葉にして言いたかったが、男の狂気に
「ぶっ殺してやる」
心の底から出したその声と一緒に、男の持つナイフが俺に向けられた。
「それは全部あなたのせいじゃないですか! あなたが痴漢なんかするから――!」
あの女に鋏を向けられていた時とはまるで違う。俺を確実に死に至らしめるそれを間近に、俺は動転した声で
男のナイフがゆらゆら揺れる。それが死神の鎌のように見えてしまい、死が眼前に迫ってくるような感覚に、足がガクガクと震えだした。
ナイフの切っ先が俺の眼前に迫ってくる。過呼吸になるほど息が荒くなり、涙や鼻水まで溢れてきた。
ナイフが近づいてくる。そしてとうとう、俺の顔に突き刺さ――らなかった。
「お前が俺を誘惑したからだ……お前が俺の前に立たなければ……電車に乗らなければ……お前がいなければ、俺は変な気を起こさずに済んだんだ」
「……へ?」
ナイフは俺の脇を通り過ぎた。
俺は色んな汁でぐちゃぐちゃになった顔で、スーツの男を見る。
スーツの男は、俺を見ていなかった。
この男の見ている先は、俺の後方――俺の陰に隠れ気味の立ち位置にいる、春科玲だ。
スーツの男は俺でなく春科玲に用があったのだ。
痴漢をした相手――春科玲に殺意の感情を向けていたのだ。
「ぶっ殺してやる」
雨も雷の音も鳴り響いているのに、その声は針に糸を通すかのように、俺たち三人の耳に鮮明に入ってきた。
「え……」
男は俺と丹下さんには一瞥もくれず、荒い息づかいで春科玲を睨んでいる。
刃を向けられた春科玲は何な何だかわからない表情で小さく声を洩らした。
その時、轟音と共に突如部屋がピカッと光った。
落雷だ。このアパートに雷が落ちてきたのだ。
「キャアッ!」
丹下さんの叫び声が聞こえ、それと同時に部屋が真っ暗になった。落雷の影響で停電が起きたようだ。
部屋の状況が全くわからない。居間の中で、他の人間はおろか自分がどこにいるのかすら把握できない。とりあえず丹下さんを探さないと。間違って丹下さんに危害が加わったら大変だ。
「丹下さん! どこに――」
「お前が全部奪ったんだろうがァ!」
咆哮にも似た男の怒号が部屋に響き渡る。
刹那、また部屋が光り、轟音が鳴り響いた。二度目の落雷だ。
落雷の光で一瞬だけ照らされ、俺はそれを目撃し、目を見張った。
男が春科玲に向かってナイフを振り上げていた。
そして、男と春科玲の間に、丹下が割り込んだのだ。まるで、春科玲の盾になるように。
特に考えはなかった。体が勝手に動いたのだ。
そこからは一瞬の出来事だった。
気づけば、俺は割って入った丹下さんにさらに割り込むように体をねじ込ませていた。
俺の背中で丹下さんが完全に隠れるように立ち塞がり、俺は両手を広げる。
降り下ろされたナイフは俺の脇腹に突き刺さり、今まで味わった事のない痛みが全身を駆け巡った。
「う……ぐぁ……」
呻き声を上げながら俺の膝が崩れ落ちる。刺さったであろう場所に手をやると、べちょっと
とめどなく
痛い。苦しい。寒い。ヒューヒューと情けなく酸素を取り入れるので精一杯だ。
「は……ヒ……ハヒひィ……ヒヒ……!」
男の笑い声とも叫び声ともとれる声が聞こえ、ドタドタと廊下をけたたましく走る音も聞こえた。
「時村さん! 時村さん……!」
春科玲が叫んでいるのが聞こえてくる。
遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。パトカーだ。タイミングいいな。
視界がぼやける。停電のせいではないような気がした。
だが、思考はそこまでだった。俺の意識はブツンと途切れ、真っ暗な世界が広がった。
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