第16話

 ◇◆


 定時が近くなるにつれ大きくなる胸の高鳴りが、自分ではどうしようもできなかった。


 今日は週に1度の定時退社日で、どうしても作業が回らないといった場合に申請しない限りは定時で返らねばならない。申請書を社内のサーバに置いて上長に承認してもらうため、誰が申請したかはそのサーバを見れば一発でわかる。そして、丹下さんは申請してない。

 丹下さんが珍しく多忙でなく、そんな日に時間を合わせやすい定時退社日。そんな日に丹下さんの誕生日。これはもはや天命だと言っても過言ではない。


 今の時刻は17時50分。ろくに手がつけられなかった作業は明日の俺に任せる。今の俺にはやるべきことがある。

 ディスプレイには作業用の資料を映しているが、頭の中は丹下さんへ贈る言葉でいっぱいだった。ストレートに「好きだ」と言うべきか、やはり俺と丹下さんの馴れ初めから語るべきか、いくつものパターンを構築し、脳内でシミュレートし、あらゆる状況に対応できるようにしている。あとは本番に臨むだけ。


 17時59分。もともと開いて最小化していたスケジュール管理ツールを表に出し、退社の構えをとる。心の中はクラウチングスタートだ。


 18時00分。退社ボタンを押す。荷物をまとめ、同僚や近くの先輩上司に軽く挨拶をし、オフィスを出る。


 さすがに人目があるオフィス内で一緒に帰りませんかと誘うのは気が引ける。だから、外で待ち伏せして丹下さんを誘うのだ。丹下さんは基本一人で帰るし、今の状態の彼女に声をかける人はいないだろう。


 第一ステップとして、できる限り偶然を装って丹下さんに出会わなければならない。しかしこれには策がある。策というか、いつも俺がやってることをすればいいだけだ。

 人目の付かない道に入り、スマホから会社のスケジュール管理ツールを起動し、丹下さんの在籍ステータスが『退社』になるまで更新ボタンを連打する。定時退社日といえど、仲の良い人と喋るなどするから、会社を出るタイミングは人によってまちまちだ。


 丹下さんの在籍ステータスが『退社』になった。俺はゆっくりした速度で駅に向かう。いつもはもうちょっと離れたネットカフェで丹下さんを監視していたが、ここからだとこれくらいのスピードでちょうど駅で丹下さんを捕まえられるはず。


 駅に着くと、俺の目論見通り、今まさに改札を通った丹下さんの後ろ姿が見えた。美麗の語源だと言われても納得してしまうその完璧なシルエットに、足を止めて眺めてしまいそうになるが、己の大義を思い出し、なんとか足を動かす。


「丹下さん!」


 俺の声に、駅のホームで一人立っている丹下さんは電気でも流されたかのように体を震わせ、こちらを見た。彼女の目はこれでもかと見開き、驚きを隠せない表情をしている。

 俺は丹下さんの元まで駆け寄ると、ぜえぜえと膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す。


「と、時村君? どうしたの?」


 丹下さんの声は外行き用のままだ。

 息が整ったところで俺は顔を上げ、丹下さんに顔を向ける。

 第二ステップ。丹下さんと一緒に帰る提案をする。


「……あの……その……」


 別ホームに来た電車が停車し、乗客を乗せてまた動き出す。その間、俺は何も言えずにいた。

 なんていうことだ。丹下さんを前にしたら、あらゆる言葉が俺の頭から霧散した。前日にワードに書き連ねた誘い文句は推敲に推敲を重ね、シミュレーションも完璧だったのに、彼女の前では俺の心は丸裸。小細工など通用しない。そんなもの関係ない次元のところに、彼女はいるのだ。


「……一緒に、帰りませんか?」


 多種多様なお洒落で小粋でファッショナブルなセリフを用意していたのに、ようやく発せられた言葉は単純なものだった。


「え? なんで私があなたと?」


 露骨にいぶかしんだ目を俺に向ける丹下さん。わかりやすく嫌そうだ。

 オーケー。この反応は想定の範囲内。別に傷ついてなどいない。本当に。

 頭も徐々に落ち着きを取り戻してきた。ぼやけた映像が画像処理により鮮明になっていくように、準備していた言葉が脳内で鮮明によみがえってくる。


 誕生日を祝いたいから。そう言っても丹下さんには通用しないだろう。丹下さんは誕生日を祝ってほしいってタイプでもない。ではいったいどうするか。

 このパターン――丹下さんが俺の誘いに難色を示したときはどうするか。それはもうあらかじめ決めてある。

 少々気が引けるが、搦め手を使うしかない。


「実はですね、春科さんが丹下さんに謝りたいって言ってまして」

「え!? 玲ちゃんが!?」


 案の定、食いついてきた。


「ええ、先日、丹下さんに失礼なことを言ってしまって申し訳ないって。直接会ってまたお話ししたいと」

「そ、そうなの……玲ちゃんが……うふふ」


 若干の戸惑いを見せるものの、丹下さんの機嫌は明らかに良くなってきている。


「で、どこに玲ちゃんがいるの?」きょろきょろと周りを見ながら丹下さんは言う。

「あ、いえ、ここにはいなくてですね」俺の鼓動が速まるのは緊張なのか愛によるもなのか、わからなかった。「実は彼女、丹下さんの家の前で待ってまして……」

「え、私の家!? ……どうしよう、散らかったままだ」


 最後の方は小声だったが、しっかりと俺の耳には届いていた。意外とずぼらな丹下さん可愛い。掃除してあげたい。

 ほのぼのとしている俺に、丹下さんは不快さを滲ませた目で訊いてくる。


「で、なんであんたも来るの?」

「はい、春科さんから頼まれたんですけど、丹下さんと間を取り持ってほしいみたいです。それに、春科さんって結構な人見知りだから、僕がいたほうが落ち着けるらしくて……」

「ふうん。まあ確かに玲ちゃんは恥ずかしがり屋だからね。私もそれくらい知ってるから」


 謎の張り合いを見せてくる丹下さん。仕事以外で丹下さんが俺を意識しているという事実が、今はこの上なく嬉しい。


 丹下さんはため息をつくと、「玲ちゃんの希望なら仕方ないわね」と遺憾の念を隠しもせず、俺への念押しを続ける。「でも、あんたは何もしなくていいわ。仲介とかいらない。私と玲ちゃんの邪魔は絶対にしないでね」

「了解です。あ、丹下さんの住んでる場所、春科さんに伝えないといけないので教えてほしいです」


 もちろん嘘だ。丹下さんの自宅の住所は暗唱できるレベルで憶えているし、春科玲に伝える気は無い。


「はいはい」


 丹下さんは鞄からメモ帳をとボールペンを取り出し、さらさらと住所を書いていく。

 彼女の細い指が滑らかに動くのを眺めながら、俺の胸の中でもやもやとした感情が昇ってくるのを感じた。俺だからよかったものの、頼まれたら他の男にもこうやって住所を教えてしまうのだろうか。彼女は自分の魅力に気づいてないのだろうか。危なっかしいと感じつつ、俺が守らねば、という思いも一層強くなった。


「はい、住所」


 丹下さんはメモ帳の1ページを手で切って俺に渡した。

 ちょうどそのタイミングで、丹下さんの自宅方面の電車がやってきた。丹下さんは俺に見向きもせずに電車に乗り、俺も後に続いた。

 丹下さんの空気を吸いながら丹下さんと一緒に帰れる。この事実に涙しそうになるのを我慢しながら、俺は丹下さんと家路についた。途中、会話は欠片かけらもなかった。

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