第14話
◇◆
ナイフとフォークを置くとカシャンと音が立つ。当たり前のことなのに、そんな音にすら気品が宿っているように思えた。
木製のテーブルの上には皿があり、さらにその上に食べやすいサイズで切り分けられたステーキが5,6切れほど乗っかっている。ソースやらポテトやら野菜類やらでやけに凝った盛り付けと店内の薄暗い照明が相乗効果となって意識高そうな見た目に昇華されている。何とか映えとかするのだろうが、これに5000円も6000円も出すのかと問われたら首を傾げたくなる。
対面に座る少女はぎこちない手つきでナイフとフォークを操ってステーキを口に運ぶ。店の空気に
「口に合わなかった?」
「あ、いえ、お肉おいしいです! 玉ねぎとかも甘くて最高です!」
春科玲は元気いっぱいに答える。口にソースがうっすらと付いている。
「春科さん、口にソース」俺は自分の口の端を指でトントンと叩く。
「え?」春科玲も俺に真似て口の端に手を添える。その手を自分の目線に持っていくと、一瞬で顔を真っ赤にし、慌てて紙ナプキンで口をごしごしと拭いた。
「とれました……?」
「うん」
俺の言葉に安堵の表情を見せる春科玲。顔は採れたてのトマトのままだが。
「時村さんて、こういうお店によく行くんですか?」
「ん? ……まあ、会社の付き合いでたまにね。彼女がいる先輩に下見でつれてかれたりとか。俺もそんなに詳しいわけじゃないよ」
「じゃあ、今日のために調べたって感じですか?」
「そんな感じだね」
もっと細かく言うと、カラオケのときにトイレに行くついでに調べただけなのだが。まあそれは言う必要ない。
「……ふふ」ふいに春科玲が小さく笑う。
「え? どうした?」
「ごめんなさい。時村さんが色々調べてくださったのが嬉しくてつい」
いたずらっぽくそう言い、少女はシーザーサラダを口に運ぶ。言った恥ずかしさから逃げているようにも見えた。
俺も特には言及せずステーキを一切れ口に運ぶ。噛んだ瞬間、肉汁の甘みが口の中に広がって中々にうまい。自家製のソースは小難しい単語が並んでいて名前を覚えられなかったが、レモンの風味が後味の良さを引き立てている。ココナッツライスという聞いたことのないライスも中々どうしてもちっとしてうまい。
さっきから、たまに他の客が奇異の目でこちらを見てきている。きちんとした身だしなみのだが明らかに未成年の女の子と着古したジーパンとパーカーの男性という組み合わせはアンバランスで目を引くのは仕方がない。もしかしたら、俺が無理やり連れ回していると思われているのかもしれない。
「でもまあ、今日はご飯食べて解散かな。明日は俺も普通に仕事あるし、春科さんも学校あるし」
解散。学校。
俺が口にしたそれらの単語に、春科玲の眉尻が見るからに下がっていった。帰りたくないと、言葉にせずともそう言っているのがありありと見える。
「楽しい時間って、こんなに過ぎるのが早いんですね」
悲しそうな声で春科玲が言う。それはそうだなと思った。俺も丹下さんを見守りながら帰るときはワープでもしたんじゃないかと思うほど一瞬で時間が過ぎてしまうから、気持ちは十分にわかる。
「もうちょっといたいって思うくらいがちょうどいいんだよ、こういうのは。そっちのほうが次また遊ぶときが楽しみになるし」スプーンでスープをすくいながら俺は言う。
それに対し、春科玲の姿勢が若干前のめりになった。
「ということは、また誘ってもいいってことですよね?」
「ん? まあ、時間が合えば」
春科玲の要望には絶対に応えろと丹下さんに言われてるし。
「そうですか……えへへ」
嬉しそうにステーキを頬張る少女。まずいな、また好感度が上がってしまった気がする。
「またこうして会えると思うと、生きる活力が湧いてきますね。なんかご飯も一段とおいしいです」
「生きる活力って、大げさだなあ」
「いえ、今日はそれくらい最高の一日でしたので」
「まあじゃあ、次までにお互い頑張らないとね」
俺も、明日丹下さんに何を言われるか気が気ではなかった。あんなに心にダメージを負ったのだ。何を話せばいいのだろうか。
待てよ? メンタルが沈んでいるときこそ、俺が完璧なフォローすることで丹下さんを振り向かせる千載一遇のチャンスなのでは? 心が弱まっている人の足元にこそ、恋の原石は埋まっているのではないのか? ……なんか生きる活力が湧いてきたぞ。
「そうですね……それに、帰ったらまた会えますもんね」
心の中で
会えるというのは、ゲームで通話するということだろう。腕時計を見ると、現在午後の7時過ぎ。帰ってもゲームする余裕はある。
気持ち的には、今日はあまりゲームするモチベーションはないのだが、まあ理由を付けて早めに切り上げればいいだろう。
「だね」俺は短く同意し、食事に集中する素振りを見せた。これ以上この会話を続けることに身の危険を感じたのだ。
そこからはあまり会話はなく、春科玲が話題を提供して俺が無難に返すという時間が続いた。時折目が合うと向こうは困ったような笑顔を見せるが、特にそこから何かあるわけでもなかった。
時間が淡々と過ぎ、最後にデザートのチーズケーキを食べているときだ。濃厚なチーズの味を堪能していると、春科玲がチーズケーキにフォークの背をぺとりと付け、口を開いた。この娘は毎回唐突だ。
「わたし、自分がこういうお店に入ることがあるなんて思いもしなかったです」
春科玲はぽつりぽつりと話しはじめた。
「誰かとEスポーツカフェやカラオケに行くことも……そもそも人と通話しながらゲームすることも、わたしには縁がないことなんだって思ってました」
どこでスイッチが入ったのだろう。そんな感想が浮かんでしまった。
「時村さんと通話してると、時々夢なんじゃないかって思うときがあるんです」
少女の目線はテーブルの上。そこにはケーキと温かい紅茶が置かれているだけなのだが、少女には違う景色が見えているように感じられた。
「時村さんとゲームした日は、ここが落ち着かなくて、全然眠れないんです」
少女は自身の胸に手をやると、その表情を徐々に
「この熱がもったいなくて、寝たくないって、思ってしまうんです。それでも無理して寝ようとするんですが、眼を閉じているときにも時村さんが見えて、幸せを感じられるんです」
そして今度はその手を離し、何もないはずの手の平に何かがあるかのように、少女は優しくそれを見つめていた。
「でもわたし、時村さんともっと色んな所、遊びに行きたいです。ゲームだけじゃなくて……」
ふいに少女が顔を上げた。目が合った。
弱々しい目は何かを伝えようとしているが、口は固く
数秒の間。他の客が伝票を持って会計にいってるのが視界の端に映った。
これ以上を言わせるのはよくない。俺と春科玲の関係に変化があってはいけない。それはわかっているのだが、衝動に駆られている彼女を止めることができなかった。ここで無理に止めて不快な思いをさせてしまったら、丹下さんに嫌われてしまうかもしれない。それだけはいやだ。
言葉を待つだけしかできない俺に、春科玲は意を決した表情で言葉を紡いだ。
「わたしに、色んなことを教えてほしいです」
頬を朱に染め、少女は真っすぐな目で俺のことを見つめている。
俺の言うべき台詞はただ一つ。作り笑顔を悟らせないようにそれを言うだけ。
「ああ、いいよ」
少女の望むこと、望む言葉を贈呈するだけだ。
「ほんとですか? やった!」
春科玲は無邪気に喜ぶ。いても立ってもいられないといった感じで体を揺らし、両手で小さくガッツポーズのようなものを作っていた。
それを眺め、間違った選択肢を選んでいなかったことに安堵する。よかった、と。
疲れる。
俺はカラオケでドリンクバーに行ったときと同じ心情になっていた。あのときは丹下さんが現れてくれたから心が浄化されたが、さすがにここに丹下さんは来てくれないだろう。今頃、心に負った傷で床に
そう思うと、無性にイライラしてきた。
この女のせいで丹下さんの心はボロボロになったというのに、当の張本人は能天気にはしゃいでいる。しかも、俺はそのご機嫌をとらないといけないという。
丹下さんとこの女の仲に亀裂が入れば好都合だから俺は何も言えなかった。それをいいことにこの女は丹下さんに好き勝手に罵詈雑言を浴びせ、今平然とした顔で飯を食ってる。なんて面の皮が厚い女だ。人を傷つけて何も思わないなんて、同じ人間とは思えない。自責の念が、反省や良心の呵責といった感情が欠落しているとしか思えない。こんな奴、社会ではつまはじきにされるに決まっている。俺や丹下さんの大人としての優しさに付け込んで甘い汁を吸ってる寄生虫だ。こんな奴だとわかっていれば、助けなかった。あの日電車で痴漢にあっていても俺は見て見ぬふりができた。だってこいつは断罪されるべきだから。わざわざ俺に嘘をつかせてこいつは痴漢から助かって、あれのせいで俺は積んでいた徳を失って許されるべきでないこいつとゲームをするという無駄な時間を過ごすことになったし、丹下さんにもあらぬ誤解を受けることになった。こいつに俺の今までの徳を吸われた。そういう意味でも寄生虫じゃないか。こいつのせいで俺の人生は現在進行形で狂っている。こいつがあの日電車で痴漢をされていなければ、こいつが電車に乗っていなければ俺は順風満帆に丹下さんともうまくいってはずだ。今頃丹下さんと食事ができていたかもしれない。丹下さんとカラオケに行けたかもしれない。こいつが邪魔するから、俺は今日一日を無為に過ごすはめになった。そうだ、今日は帰りに丹下さんの家まで行ってみよう。いつもと同じように遠くから見守るだけだが、俺の想いが伝わって目が覚めるかもしれない。この女を気に入っているという間違った道を、俺が想いの力で正せるかもしれない。こいつが丹下さんを惑わせて
「時村さん? パフェ溶けてますよ?」
「ん? ……ああ、少し胃もたれしちゃって。さすがにこの歳になると甘い物一気に食べれなくなっちゃったな」
「ふふ、余ったらわたしが食べてあげますよ。わたし、甘い物はまだまだいけます」
人の食べ物まで奪おうとしてるのか。盗人猛々しいを地で行く女だ。
「いやあ、女の子って本当に甘い物は別腹なんだねえ」
「……時村さんは、太っている女性は、嫌……ですよね……?」
「うーん、痩せすぎてると病的って印象が先にきちゃうから、ほどほどくらいの子がいいかなあ」
丹下さんみたいに。
「そ、そうなんですか……もっと食べたほうがいいのかな……」
「ん? なんて?」
「あ、いえ、なにも」
聞こえてないふりをするのも、もう億劫だ。もういっそう、全てぶちまけてやろうか……いや、それは駄目だ。丹下さんを失望させてしまう。
「あのとき、時村さんに助けてもらって、本当によかったです」
春科玲は例に漏れず、また語りだした。飽きもせず。
「一緒にゲームするどころか、時村さんとこうやって直接会って出かけたり一緒にご飯を食べてると、わたしはこのために生きていたんだって、思えるんです」
俺も、丹下さんと出かけてご飯を食べたら、今のこの女みたいな幸せな気持ちになれるのだろうか。
「実はわたし、こういう場所はあまり好きではなかったんです」
「……え?」
「こう、ぴしっとした場所ってなんだか緊張しちゃうというか、自分がちゃんとした所作をとれてるか不安になるというか……でも、時村さんと一緒だとそんなこと気にならないんです。不安になっても時村さんの顔を見ると、そんなもの吹き飛んで――」
「おい、もう一回言ってみろよ」
「え?」
今、こいつは言ってはいけないことを口にした。
こいつは、丹下さんを侮辱したのだ。
――『玲ちゃんに新しい価値観を与えるのが、大人の役目でしょ』
丹下さんは確かにそう言った。右も左も分からない若者に道を示しなさいと。何も考えずに日々を貪るだけの若者の人生観を変えてあげろと。それが我々大人の責務なのだと。
俺は丹下さんの言った通り、春科玲が行かないであろう店に連れていってやり、未知の体験をさせてあげた。別にこれは大人として当然の行為だから、恩着せがましくするつもりはない。
だがこいつは、それを好きではないと言ったのだ。それは丹下さんを丹下さんの言ったことの否定――丹下さんを否定したと同義だ。
「当然のような顔をして与えられ、不平不満だけは一丁前に漏らす……調子に乗るのも大概にしろ」
怒りの感情でどうにかなりそうなのに、不思議と周りの景色は鮮明に見えた。信じられないといった表情の春科玲。テーブルの上に置いた彼女の手にネイルが施されていることに、初めて気がついた。薄いピンク色が塗られている指先が、カタカタと震えている。
「君、丹下さんにあれだけいってよく普通の顔してられるよね」
なぜか、他の客の話す声や食事をしている音が、目の前の少女をぶち抜いて俺の耳に明瞭に入ってくる。
「丹下さんの心遣いでここに連れていってあげたのに、よくもまあ恩を仇で返すことを言えるよね」
店内に流れるジャズ調のBGMも、ギターやピアノの音が聞き分けられるほどによく聞こえてくる。
「学生は文句ばっか言っても許されるかもしれないけど、そのままだと君、人の足を引っ張ることしか考えられない人間になるよ」
食事を運んでいる店員が異変を感じて足を止めてこちらを見ているのが、横目で見える。
春科玲は何も言わず、口を震わせ、焦点が合ってない目には俺が映っているのか判別できない。
今にも死んでしまいそうな表情で、春科玲はなんとか口を動かす。
「あ、あの……ごめんなさい。わたし、失礼なことを」
「いや、もういい」切り捨てるように俺は言う。
丹下さんのあの言葉が、再度、俺の脳内でこだました。
――『玲ちゃんに新しい価値観を与えるのが、大人の役目でしょ』
そうだ。間違った方向に進む若者を正すのが大人の役目。だから、時には否定をしないといけない。この子はまだ何も分かっていない子供なのだから。歳を重ねて背だけでかくなった人間にならないよう、俺が言わないといけない。これはいわば教育。説教の一環だ。
「もう、君とは会わない」
「え」
もともと、今日で春科玲とは縁を切る予定だったのだ。春科玲と一緒にいたら丹下さんに変な誤解を受けたままだし、春科玲だって社会人と遊んでいたら同じ世代の若者と仲良くできる機会を逃してしまう。だから、これでいいのだ。
俺は財布から数枚の万札を取り出し、机に置いた。そんなに勢いをつけるつもりはなかったが、俺の中に宿る訓戒の気持ちが必要以上に力ませ、バンとテーブルが大きく鳴ってしまった。
周囲の客たちが一斉にこちらに振り向いた。皆、何事だという顔をしている。
「あの……冗談……ですよね?」
「そんなわけないだろ」
静寂に包まれた店内で、俺と春科玲の声だけが響く。
「それじゃあ、もう帰るね」
「待ってください!」
翻った俺の背中に悲痛な声が浴びせられた。俺は気にせず店を出た。
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