第13話
◇◆
丹下さんのことを考えていたら丹下さんが現れた。これを運命と言わず何と言うのか。
俺の中で感動が駆け巡ったが、同時に自戒の念も芽生えてきた。なんで最初に声をかけられたときに気づけなかったのだと。
俺の愛はそんなものだったのか。内なる俺が頭を抱えながら悔し涙を流すが、現実で28歳男性がカラオケで泣き崩れるわけにもいかず、なんとか平静を保ちながら丹下さんに訊ねる。
「丹下さんも、誰かと歌いに――」
「なわけないでしょ」腕を組み、露骨にイラついた口調で丹下さんは否定する。「玲ちゃんをつけてたの」
休みの日までストーキングとは、なんて勤勉な人なんだ丹下さんは。
丹下さんの立ち姿を目の当たりにし、疲れが抜けていくのが分かる。丹下さんは春科玲のことをオアシスだと評していたが、俺にとっては丹下さんが心のオアシスだ。
いや、感傷に浸っている場合ではない。まずは言っておかねばならないことがある。
「あのですね、これは春科さんの方から誘われてですね、決して僕が彼女を連れ回しているわけではないです」
「そんなこと、もうどうでもいいわ」
一蹴されてしまった。変な誤解はされていないっぽいが、『もう』とは、どういう意味だろう。
丹下さんは己の憎しみを一点に集中させ、つまりは恐ろしく恐ろしい視線で睨む。
「あんた、舐めてんの? 本当ダメな人間ね」
俺の心のオアシスが、俺に熱湯を振りかけてきた。
「キモくて
ものすごく偏見がある物言いだ。ゲームに触れてこなかった人からすれば、ゲームに対してそういうイメージを持ってしまうものなのか。というか、俺たちがEスポーツカフェにいた6時間の間、ずっとどこかで待っていたのか。近くに喫茶店があるにしても、すごい忍耐力だ。
「いえ、最近はゲームしてる女性も結構いるし、ああいう場所に行く人たちって、結構身だしなみを整えている人しか来ないので大丈夫だと思いますよ。丹下さんが想像してる人たちって、多分カードショップとかによくいるんじゃないですかね」
丹下さんの意見も大事だが、間違ったイメージを持ったままではこの先恥をかいてしまう可能性がある。ゲームを
「あっそ。まあどうでもいいわ」丹下さんは心底興味なさそうに言い、俺に向けて攻撃的な目を向けてきた。「玲ちゃんにはもっとキラキラした可愛い場所が似合うのに、あんってセンス無いわね」
「でも、春科さんってゲーム好きだから、ああいう所の方がいいと思ったんですけど……」
言えない。最初は映画館で適当に時間を潰してこってり系ラーメン屋に連れていって、最後はサイゼで割り勘しようとしてたなんて、口が裂けても言えない。言ったら口を裂かれるかもしれない。
「浅はかね」
ぴしゃりと、丹下さんは言い放った。それが世界の真理かのように。この世の道理であるかのように。
「玲ちゃんに新しい価値観を与えるのが、大人の役目でしょ。高校性には入れないようなお洒落なレストランとか、特別な経験をさせないと駄目でしょ」
その言葉と共に、丹下さんの自信で満ちた大きな目が、俺の胸を射抜く。
そうだったのか。俺はとんでもない間違いを犯してしまっていたのか。
まだ社会を知らない子供たちを正しい道へと誘うのが、社会人としての、大人としての義務なのではないのか。そうやってまっとうな人間を増やし、この世界はより良い未来へと繋がっていく。実に理にかなっているではないか。
そもそも、丹下さんが言うのだから、何も間違ってない。その絶大な自信で会社でも社員を引っ張っていく姿に、俺は惹かれたのだ。丹下さんが間違うはずがない。言われないと気づけない、なんちゃって社会人だった俺がもっと反省すべきなのだ。
「それに、何よりも許せないのは」俺の来ている服を蔑んだ目で見ながら、丹下さんは言う。「何よ、その恰好」
俺の着ている服――ジーパンにパーカー。この装いはさすがに言い訳ができない。
「これはですね……そのぉ……えっとですねぇ……」
俺は何とか言葉を探そうとするが、うまいのが出てこず、間延びした声を出すことしかできないでいる。
別の客がドリンクバーに来るが、みんな痴話喧嘩か何かと思ったのか、そそくさとドリンクを注いで帰って行ってしまう。当然だが、誰も俺を助けてくれない。
「そんな恰好でよく玲ちゃんの前に立とうと思ったわね。玲ちゃんはあんなに超可愛いお洒落してるのに……。あんた、あの子のことを何だと思ってるわけ?」
会社で丹下さんに首を押さえつけられたときのように、彼女の眉間にアリの巣のような皺が刻まれていく。ほのかに青筋も立っている。
「あんたを八つ裂きにしてそこら辺のカラスに食べさせても、まだ許せない」
ここがカラオケで本当によかった。もしも今人目のない場所で丹下さんと二人っきりだったら、八つ裂きまではないにしろ、骨の一本くらいは折られていたかもしれない。それほどまでに丹下さんの
相当頭にきているようだ。愛しの人がぞんざいに扱われているのを目撃したのだから、おかんむりになる当然といえば当然なのだが。俺だって丹下さんを雑に扱う奴がいたら、そいつを殺してしまいたくなるだろう。
そんなことよりも、どうしよう。丹下さんを怒らせてしまった。
今回ばかりは言い逃れができない。前は春科玲に誘われてゲームをしているだけだと、そう主張できた。あくまでも自分は受け身のスタンスなのだと。
だが、今回は俺が自分の意志でこの服装を選び、俺が主導で春科玲を先導したのだ。
都合のいい言い訳が思いつかず、言葉を濁してどもることしかできない。丹下さんに見られていると知っていたら、俺だってそれなりのオシャレをしたのに。
「あの……時村さん……?」
追い詰められたネズミ状態だった俺の背後から、か細い声が聞こえてきた。
やけに聞き覚えのある声だ。具体的には、10分前くらいまで会話していた記憶が鮮明によみがえるくらい、耳に残っている声だった。
「え、は、春科さん!? どうしてここに……!?」
振り返ると、そこには不安や心配といった感情をないまぜにした表情の春科玲が立っていた。
「遅かったので何かあったと思いまして」俺の横に立つと、春科玲は恐る恐るといった感じで丹下さんを見る。「あの、そちらの方は……」
「この人は丹下さん。俺の会社の先輩上司だよ」
「そ、そうなんですか」
俺の知り合いだと知ってもなお、春科玲の肩から力が抜けた様子はない。極度の人見知りからしたら初対面の人にはこんな感じなのか。
ちらっと丹下さんを見ると、彼女はわなわなと体を震わせ、
「れ、玲ちゃんッ……!」
と、口元を手で押さえ、目には涙を浮かべ、足をプルプルと震わせている。まるで目の前に推しのアイドルが降臨したファンのような反応だ。いや、実際にまさにその通りのシチュエーションなのか。
「ヒッ……ひぃ」
春科玲の動きは迅速だった。悲鳴をあげると何歩か後ずさり、俺の背中に隠れるようなポジショニングをとった。人間を信用してない小動物みたいだ。
でもまあ、極度の人見知りで、なぜか相手は自分の名前を知っていてなぜか感極まってるのだから、恐怖を感じるのは仕方がない気もする。丹下さんに対して失礼な態度をとっているのには変わりないが、彼女の心情を考えると咎めることはできない。それに、注意したら多分丹下さんが怒る。
大興奮中の先輩上司と怯えに怯えている少女。その間にいる俺。なんか変な状況になってしまった。
どうしようか。とりあえず俺が橋渡し役になって二人の仲を取り持つしかないのか。ここでうまいこと場を盛り上げられたら丹下さんへのアピールになるし、これはチャンスなのかもしれない。
そう意気込んだのだが、その必要はなかった。
「コ……ココ、こンにチは」
俺の背中からこんがらがった声が放たれた。
意外だ。春科玲が自発的に挨拶をしたのだ。俺の知り合いだからというのもあるかもしれないが、俺と通話しながらゲームしていたことによって、少しは対人能力が上がったということか。もしくは、警戒しているからこそ先手を打ったのか。不審者には率先して挨拶したほうが防犯になるみたいな。丹下さんが不審者なわけがないのだが、今の彼女は客観的に見て不審者然としているのは否定できない。
顔の半分を俺の背中で隠して俯き気味になってはいるが、少女は勇気を振り絞った。
果たして、丹下さんの反応はというと――。
「玲ちゃんが私の存在を認識してる……!」
過呼吸気味になってた。
会話になってない。好きな人に会ったらこんな風になるのか、丹下さんは。新しい発見ができて、ちょっと嬉しい。
「ひぅ……!」
春科玲のたじろぎ具合に、さすがに丹下さんも我に返ったのか、慌てて弁明を図った。
「だ、大丈夫よ! 私は玲ちゃんの敵じゃないから、全然怪しくないわよ!」
人間に警戒心を抱いている小動物に歩み寄るときのような優しい声色だった。
対して、小動物もとい春科玲の反応は――。
「な、なんでわたしの名前、知ってるんですか……」
「それは……そのぉ……えっとねぇ……」
さっきの俺みたいな間延びした困り声が丹下さんから出てくる。こんな丹下さん、俺は見たことがない。今日は新しい丹下さんをたくさん見れるぞ。記念日にしようか。
「僕が会社で話したんですよね。最近、こういう子とゲームしてるって」
俺が助け舟を出す。こういったところで点数を稼がねば。
「そ、そう! 時村君から聞いたの! 私も友達とカラオケに来てて、たまたま今、時村君に会ったってわけ!」
『たまたま』の部分を強調して丹下さんは言う。
丹下さんは俺に……いや、俺の後ろにいる春科玲に歩み寄ると、少し腰をかがめ、怖がる少女と目線を合わせた。「ごめんね、呼び方がちょっと馴れ馴れしかったよね」
俺に接する時とはまるで違う。優しくて余裕のある年上のお姉さん然とした物腰柔らかい言葉づかいと立ち振る舞いだ。
春科玲へ向けている愛情が俺に向いたとき、丹下さんは俺に対してもこんな態度で接してくれるのだろうか。想像するだけでも足腰の力が抜けていきそうになる。
しかし、丹下さんの
俺の背に隠れる少女はボクサーの高速ジャブみたいに目まぐるしく視線の泳がせ、ただでさえ色白な顔は新品のキャンバスのように真っ白にさせている。人に好意的な態度をとられてことがなさすぎて、キャパオーバーを起こしている様子だ。
丹下さんも丹下さんで戸惑いの色を見せていた。自身の人生経験上、今の振る舞いで
それでも丹下さんはめげずに二の矢を発する。
「驚かせちゃったかな? ごめんなさい、話には聞いてたけど、れ――春科さんがあんまりにも可愛かったから、つい取り乱しちゃったの」
そこで、春科玲がようやく丹下さんの言葉に反応を示した。俺の後ろから顔を出し、
「時村さんが、わたしのこと可愛いって言ってたんですか……?」
と、ぼそっと問いかけてきた。
「え……そ、そうそう! すごい可愛らしい子とゲームをしてるって……ねえ?」
丹下さんが俺の方を見る。表情はにこやかだが、その裏には有無を言わせない圧力があった。
「はい、言いました」ほぼ即答で俺は答える。
「時村さんがそんなことを……ふふへ……」
俺の言葉に春科玲が頬を染めてとろけるようにニヤついた。それを見た丹下さんは「玲ちゃんが笑ってる……!」と絶賛感動中。俺の嘘で二人も幸せにしてしまった。優しい嘘って本当にあるんだね。
「私、兄妹とかいないから春科さんみたいな妹がずぅっと欲しいと思ってたの。いてくれるだけで幸せにしてくれる存在って言うのかな? 初めて会ったはずのに、見ててすごく癒されるの。私の身近にはいないタイプで、なんかもうすごく目が離せないの」
隙を見せた春科玲を追撃するように丹下さんの甘い甘い
その後も丹下さんは敵意ゼロといった口調で春科玲へ絶賛の声を浴びせ続けた。それが俺へ向けているものだと脳内変換すると、聞いていてすごくドキドキしてしまう。春科玲は特に反応を示さなかった。
それでね、と最後に丹下さんは柔和に目を細める。彼女の瞳の奥が少しだけギラついたのを、俺は見逃さない。大好物を目の前にした肉食動物のような隠しきれない欲望のちらつきが見え隠れしていた。
「私も、春科さんと仲良くなれたら嬉しいな」
ニコッと、丹下さんは人当たりの良い笑顔を少女に向ける。
「い、いやです」
「……へ?」
空気が固まった。流れも変わった。
弱々しい、いつも通りの声色で、春科玲は拒絶の言葉を口にした。はっきりと、完膚なきまでに。
「えっと……あれ……? 私何か変なこと言っちゃったかしら?」
丹下さんは
かくいう俺も、春科玲の発言に内心で目を丸くしていた。丹下さんと春科玲の相性がそんなに良くなく、うまくいきそうになかったから傍観していたが、まさか春科玲が正面を切って拒否するとは思わなかった。
同時に、何丹下さんに失礼なことを言ってんだ、という苛立ちも込み上げてきていた。
「さ、さっき、時村さんに、ひ、ひどいことを言ってましたよね……?」声も態度も腰が引けて、実際俺の陰に隠れているのだが、少女の目の奥には明確な敵意の色が浮かんでいる。「わたし、時村さんを悪く言う人は……き、嫌いです」
嫌いです。
その言葉に、まるでいいボディーブローをもらったボクサーのように丹下さんの足元がぐらついた。
想い人に正面からはっきりと拒絶されたら、そりゃこうなるのは仕方ない。しかも数年も想いを募らせていたのだから、そのショックは計り知れない。俺も丹下さんに嫌いだと言われたら、どうなってしまうのか想像すらできない。
だから、そんな非道な言葉を吐く女が許せなくて、でも何もしない方が自分にとって得策だと考えている自分もいて、俺はなんて無力な男なんだと自虐せずにはいられなかった。
俺の無言の嘆きをよそに、丹下さんは倒れそうになるのを
「そ、それは誤解で……ほら、仲いい人とはあれくらいのじゃれ合いするじゃない?」
まじかよ、丹下さん俺と仲いいって思っててくれたのか。やっぱり脈ありなんだな。
「じゃれ合いでも、わたしは聞いててすごく……い、嫌でした」
まっすぐと丹下さんを見据え、春科玲は心無いことを言い放つ。
「わたし、あなたとは仲良くしたくないです」
見えないところから殴られたかのように、丹下さんの体が大きくのけぞった。ゲームだったら『KO』の文字が現れていたことだろう。
が、丹下さんの心は砕けない。その二本の足でしっかりと踏ん張り、決して崩れ落ちまいと根深い大樹のような荘厳さすら感じさせた。
逆境に立ち向かう女性はなんて美しいんだ。一つの芸術と言っても過言ではない。
俺も駆け寄って丹下さんを支えたい。励ましたい。一緒に戦いたい思いでいっぱいだった。
しかし、俺としてはここで丹下さんと春科玲の仲が引き裂かれるのは大歓迎。後の恋愛成就のために、ここは断腸の思いでの静観が正解だ。丹下さん、ごめんなさい。仇は必ず取りますから。
ふと気づくと、いつの間にか春科玲は俺の後ろから出てきていた。先ほどまでの弱気な表情と打って変わって、どこか覚悟を決めたような、そんな気構えを感じさせた。
「と、時村さんは、とても優しい人で」
黒髪の少女はノックアウト寸前の丹下さんの前に立つと、追い打ちをかけるように言葉を紡いでいく。
「今日、わたしが変な男の人たちに絡まれたとき、わたしなんかのことを彼女だって言って追い払ってくれたんです」
徐々に春科玲の語気は勢いを増していく。興奮すると早口になってしまう、彼女の癖だ。
「結局、支払いも全部時村さんが払ってくださって……時村さんは今まで会った誰よりもかっこよくて、すごく頼りになる人なんです」
少女の言葉の向く先にいる俺の先輩上司は、立ったままうなだれ、何も喋らずにいる。いや、喋れずにいるのか。
すでにファイティングポーズをとっていない相手に対し、春科玲の目は、なおも攻撃的な色を帯びていた。目の前にいる敵を排除する。そんな感情に支配されているようにも見えた。FPSをやると人は暴力的になると聞いたことがあるが、あれは本当だったのか。
「ゲームも上手で現実でも優しくてわたしを助けてくれて……そんな人にひどくことを言う人と、わたしは一緒にいたくないです」
冷たい声だった。他の部屋から漏れてくる歌声がどこか遠くに聞こえるくらい、少女の声はこの空間をぴんと張り詰めさせた。
そして、そんな敵意の塊を直接ぶつけられた張本人である丹下さんは――
「あ、あはは」
笑っていた。
「あは、フフフ……あふふふふ……」
壊れたように丹下さんはひとしきり笑うと、
「なんか嫌われちゃったみたいね」
と、オーマイガーのジャスチャーをとり、余裕の笑みを春科玲に向けた。春科玲の言葉がまるで通用していないかのような明るさだ。
全力で拒絶したはずなのに何もなかったかのように笑顔を見せる仇敵を前に、春科玲は不気味さを感じ、一歩後ずさる。
またさっきみたいに俺の後ろに隠れるのかと思ったが、そうはならず、強張った表情のまま唇を強く締めて顔を逸らそうとしない。恐怖心はあるが少女からまだ戦意は失せていない。
笑顔の丹下さんと敵意剥き出しの春科玲。丹下さんはまだ春科玲を諦めていないとしたら、またもうひと悶着起きる。そう思ったが、丹下さんから出てきた言葉は意外なものだった。
「私はそろそろ帰ろうかしら。今日は時村君と遊んでるみたいだし」感情が読み取れない声で、彼女は春科玲に顔を寄せる。「でも、誤解はちゃんと解きたいから、また時間がある時にでもお話しできないかしら」
「いやです」
即答だった。両手の握りこぶしを小さく震わせながら、春科玲は真っすぐと丹下さんを見据えている。
「うふふふ」
また笑い声を洩らしているが、丹下さんの心の化粧は確かに剥がれていた。眉をひくひくと痙攣させ、上がった口角が下がらないよう必死なのが見てとれた。
「じゃあ、時村君、春科さんをよろしくね」
そう言って軽く手を振り、丹下さんはその場を去っていった。途中、ふらふらと不安定な足取りで、何度も壁にぶつかっていた。
丹下さんの姿が見えなっても春科玲はその場から動かず、ただ一点を見つめている。さっきまで丹下さんがいた場所を、まるでまだそこ敵がいるかのように、警戒した目でじっと。
「春科さん」
「えひゅぁっ!?」
声をかけると、虚空を見つめていた少女は珍妙な声を出してその場で小さく跳ねた。そして俺の方に向くと、
「と、時村さん……?」
と、なぜか疑問形で名前を呼ばれた。目つきも直っていて、いつものどこか
彼女は俺の顔を見ると疲弊した表情でその場にヘナヘナと崩れ落ちた。
「お、おい。大丈夫か?」
「すいません」春科玲は俺に目を合わせずに申し訳なさそうに言う。「時村さんの知り合いだったのに、あんなことを言ってしまって……」
「……いや、いいんだ」
丹下さんに失礼な言動をとったのは許せないが、それ以上に収穫があった。
心の中で俺はガッツポーズを作る。これで完全に丹下さんと春科玲の仲が親密になることはなくなった。春科玲は丹下さんに何があってもなびかない。丹下さんの恋路はここで断たれたのだ。
内心の歓喜を悟られないよう、俺は努めて落ちついた声色で言う。
「まあ、とりあえず部屋に戻ろうか」
「そうですね……でも……」
「?」
「足に力が入らなくて……」
もはや地べたに女の子座りしたまま動かない少女は、助けを求めるような上目遣いで俺をじっと見ている。
言葉にしないおねだりが俺に向けられる。逡巡の末に手を差し伸べると、彼女は一瞬だけ不満げな表情を浮かべたものの、最終的に俺の手を取った。
立ち上がったと同時に、少女はボソリと呟いた。
「お、おんぶが……」
「ん? 何か言った?」
「え、あ、いえ、別に何も……」
聞こえないふりをした。
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