第12話
◇◆
最初は恥ずかしがって声が裏返らせていたが、時間が経つにつれ緊張も和らぎ、彼女本来の歌声を取り戻していた。耳障りのいい声質で音程もリズム感も安定している。曲調に合った抑揚も見事で、AIの自動採点では90点台の連発。しかも、曲のチョイスも俺が知ってるものばかりで、どこでそんな情報を仕入れてきたのか不思議に思うほどだ。
春科玲は部屋に入ってすぐにカーディガンを脱いでニット姿になっていた。Eスポーツカフェのときはカーディガンを着たままだったのだが、それほど歌う時は熱が入るということなのだろうか。体のラインが少し浮き出ていて、わかりやすくあざとい。
「ヒトカラしか行ったことありませんでしたけど、人と行くカラオケって最高ですね!」歌い終わってほくほく顔の春科玲がマイクを差し出す。「時村さんもどんどん曲入れてくださいね」
「最近カラオケ行ってなかったから、下手だったらごめんね」
情けなく保険をかけながらマイクを受け取り、曲を入れる。カラオケなんて学生時代も社会人になってからも付き合い程度でしか行ったことがない。人前で歌うことがいまだに慣れなく、正直好きな部類ではない。
横ではまるでアイドルのライブに来たファンかのように目をキラつかせている少女。てかもうちょっと離れて座ってくれない? 近いんだけど。肩当たるんだけど。
俺は座り直すついでに少し離れるように横にずれる。すると春科玲もすいっと同じ方向にスライドする。また離れようとするとやはりすいっとスライド。何これ、カモの親子? このまま部屋の外に出てもついてくるのだろうか。ちらっと横目で彼女を見ると、ニコニコ顔でこっちを見ている。なんか怖い。
俺が歌っている途中も、横で春科玲が邪魔しない程度に手拍子を入れたり体を揺らしたり歌詞を口ずさんだりしており、本当に楽しそうに俺の歌を聞いている。
自分なりに頑張って歌いきり、マイクをテーブルに置く。自動採点は74点。上手い人からしたら眉をひそめるような点数だが、春科玲は盛大な拍手を鳴らし、「時村さんの低音が五臓六腑に染み渡ります」とか「この曲を選ぶ人に毎朝味噌汁を作りたいです」とかべた褒めしてくる。何気に求婚もされた。聞いてないふりをするが気まずい気分になり、春科玲のグラスを見ると、もう少しでなくなりそうだった。
「ちょっと飲み物とってくる。春科さんのも
「え、一人で行くんですか?」
「え?」
「え?」
「……俺が春科さんの分の飲み物も持ってくるよ」
「一人で行くんですか?」
「……こういう時って、どっちかが二人分の飲み物とってくるものじゃない?」
それがカラオケのセオリーじゃないのか。なんだカラオケのセオリーって。カラオケも一種の競技なのか。
「いえ、最近はみんなで飲み物をとりに行くのが普通なんですよ」
すかさず春科玲が当然のように言う。
そういうものなのか。知らないうちにカラオケのレギュレーションも変わっていたらしい。今は全員でドリンクバーに行くフォーメーションが主流なのか。
……あれ? でもこの子、一人でしかカラオケに行ったことがないって言ってなかったっけ?
「なので、飲み物は一緒にとりに行きましょう」小学校の先生かのような口調で春科玲は言う。「あと、お手洗いのときにもみんなで一緒に行くらしいですね。行きたいときは言ってくださいね」
ちょっとちょっとちょっと待って。ついでみたいに付け足したけど俺は聞き逃さなかったぞ。
カラオケで連れションって、まあ同性ならあるかもしれないけど、男女でではありえないでしょうが。
やばい。なんか駄目な方向に誘導されている気がしてきた。ドリンクバーの
「やっぱり俺がとりに行くよ。春科さん、結構歌って疲れてそうだし。ちょっと休んでていいよ」
「いえ、わたしも一緒に行きます」「2人分なんだから、俺だけで大丈夫だって」「最近の高校生はみんなで行くものなんです」「俺28歳だし」「わたしは高校生です」「じゃあ社会人の俺が一人でとりに行くよ」「離れたくないです」「すぐ戻ってくるから」
その後はちょっとした言い合いに発展し、俺が半ば強引に自分のと春科玲のグラスを持ち、部屋を出た。
一人でドリンクバー行くのにもこんなに骨を折るとは。俺が最近のカラオケ事情を知らないと察知するや否や、それはそれは
ふう、と一息つく。そもそもカラオケってだけでも疲れるのに、干支一周分も歳が違う女の子が相手なのだから、精神的な疲労は倍以上だ。一人になる時間も欲しくなるというもの。
俺が喫煙者だったら、ここで喫煙所へ一服しに行くのだろう。仕事中に何度もタバコを吸いに行く人たちの気持ちが、何となくわかった気がした。でも何度も何度も行かれるとこっちの仕事も進まなくなる時があるから、もう少し自重してほしいです。
ドリンクバーに行く途中、他の部屋から漏れてくる歌声が聞こえてきた。大人数で来ているのか、楽しそうな熱唱の後にいくつもの歓声が上がっている。なんだか別世界を覗いているように思え、自然と肩が落ちてしまう。
ドリンクバーがある場所まで行き、グラスを1つセットする。ボタンを押すと、オレンジジュースが出てきて、グラスに注がれていく。
なんだか、色々気をつかうのに疲れてきた。
好意を持たれているのは、正直悪い気はしない。世の中的にも、女子高生とゲームをしたりEスポーツカフェに行ったりカラオケに行ったりするなんて、世の男性から嫉まれること必至なんだろう。疲れたなんて、何を贅沢なことを言っているのだと罵詈雑言を浴びせられるかもしれない。
グラスがちょうどいい量まで注がれると、次は自分の分のグラスをセットする。
だが、俺は彼女の気持ちを受け入れられない。俺には意中の人がいるのだから。
『おいしい水』のボタンを押すと、機械から水が機械から出てくる。『おいしい』と銘打っているが、ぱっと見では水道水と見分けがつかない。
なんの迷いもなくグラスの中に落ちていく水をぼうっと眺めていると、透明な水の中に、丹下さんの姿が浮かび上がった。
血色の良い肌。
何から何まで、丹下さんのことならすぐに思い出せる。会社での丹下さんとの雑談も、レビュー中に言われた指摘点も、何気ない挨拶の抑揚も、全部全部、思い出せる。自分の意識に関係なく、口角が上がっていってしまう。
「水、こぼれてるわよ」
突然、背後から女性の声が聞こえてきた。そこで思考は打ち切られ、火でも放たれたかのように俺の肩がビクッと震えた。
見ると、グラスから水が溢れかえり、ドリンクバーの機械のトレーに吸い込まれている。慌てて指からボタンを離すと、何もなかったかのように水はピタッと止まった。
「そんなんで本当に玲ちゃんのエスコートができてるの? 本当、なんでこんな男と玲ちゃんが……」
背後からぶつぶつと愚痴をこぼすのが聞こえてくる。なんかおっかない人に目を付けられたようだ。本格的に絡まれる前に退散しよう。
目を合わせないように心掛け、踵を返そうとしたとき、俺の中で引っかかりを覚えた。
……『玲ちゃん』?
聞き間違えか? いや、確かにそう言っていた。
加えて、やけに聞き覚えのある声だ。
振り向くと、俺より少し低い程度の背丈の女性がいた。栗色の髪は後ろにまとめてポニーテールにしており、黒いコートと黒のサングラスという、あからさまに怪しい風体をしている。
だが、あの声は確かに――
「……もしかして気づいてない?」
正気を疑うような声色で、女性はサングラスと髪留めを外した。
血色の良い肌。
「た、丹下さん……どうしてここに……」
意中の人が、ドリンクバーにいた。
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