第9話

◇◆


二週間後 日曜日の午前10時前


「時村さん!」


 駅の改札前で待っていると、色白な手を振りながら小走りでこちらに駆け寄ってくる春科玲の姿が見えた。彼女と会うのは二度目だが、初めて見たときのあの絶望的に暗い空気とはまるで違い、晴れた日の小川のように表情は明るく、揺れる黒髪は清流のようになびいている。

 改札を通り、俺のもとまで来ると、春科玲は少しだけ不安そうな顔をした。


「待ちましたか……?」

「いや、俺も来たばかりだから」


 互いの予定――ほとんど俺の都合に合わせてくれたのだが――が合った今日、俺と春科玲は二度目の会合を果たした。待ち合わせの場所だけを決め、その後は俺が適当に店を選んで遊ぶというプランを、彼女は快諾してくれた。


 とりあえず、問題なく会うことはできた。あとは俺の目的を果たすだけ。こんなベタなカップルみたいな会話をしている場合ではない。

 気を取り直さないと。心の中でふんどしを締め直していると、春科玲がクスクスと嬉しそうに目を細めていた。


「なんか、ベタなカップルみたいな会話しちゃいましたね」

「…………………………」


 まずい、同じことを思っていたようだ。なんかいい感じの空気になる前に行動せねば。


「まあ、とりあえず行こうか」

「と、時村さん」


 よくない空気を誤魔化したくてさっさと移動したかったが、春科玲が呼び留めてきた。

 彼女はその場から動かず、なにやらもじもじとしている。


「どうかした?」

「わたしの服装……どうでしょうか……」


 言いながら、春科玲は後ろに手をやり、恥ずかしそうにもじもじそわそわとしながらも若干胸を張り、こちらに自分の服装を主張するような素振りを見せる。

 俺にファッションの寸評しろと、そう言っているのだろう。


「そ、その……今までファッションには疎かったんですけど、わたしなりに色々調べて頑張ってみまして……あ、あんまり自信がないんですが、時村さんに見てほしくて……」


 あわあわと声を上擦らせ、目線を世界水泳ばりにスイミングさせる少女。

 俺もファッションには疎い、というより、興味がないのだが。Tシャツに3000円以上の値札が付いていたら脳内の買うリストから除外するし、5000円を超えるアウターには思わず顔をしかめてしまう。こんなものに金をかけるものなのか、と。


 だが、聞かれたからには答えるしかない。俺は彼女の服装を改めて観察した。

 紺のロングスカートに、薄いベージュ色のカーディガン。あとは黒色のショートブーツを履いていて、小物入れとして肩に掛けている小さめのショルダーバッグ。

 全体的に落ち着いた色合いで清潔感やら清涼感があり、ナチュラル気味の化粧も相まってか、随分と大人びているように見えた。多少は慣れてないというか、おぼつかない感じもあるが、あの痴漢されていた日の、初めて会った時の彼女とはずいぶんと雰囲気が違う。


 対して、俺はジーパンにパーカーにスニーカー。

 これはほぼ俺が出社するときの服装である。これもこれでシンプルでいいと思うのだが、安物で揃えたコーディネートは安っぽい空気しか出してくれず、どこかみすぼらしい。というか3年前に買ったものなのだから、実際、相当古臭い装いだ。


 この服装を選んだのは、俺がおしゃれな服を持っていない以外にも理由がある。それこそが今日の本来の目的なのである。


 これ以上、春科玲に好かれない――そのためだ。

 もはやこれは自意識過剰や誇大妄想ではない。彼女は俺に好意を抱いている。これは誰の目から見てもそう思う、純然たる事実だ。

 だからこそ、俺は彼女と距離を置く必要がある。彼女が俺を軽蔑してくれたら、それで俺の目標は達成できる。

 情けない28歳社会人の姿に見切りをつけ、俺と春科玲の縁は切れ、丹下さんから変な誤解を受けなくなる。そして何やかんやでいつしか丹下さんは俺に振り向き、毎朝味噌汁を作ってくれて、俺は本当の幸いを手に入れる。それが俺の思い描いた絵図だ。極めて現実的で誰も損をしない見通しだ。


「あの、時村さんはお好きじゃない感じでしょうか……」

「え、ああ……いや、似合ってるんじゃないかな」


 最高のエンディングを夢想していて、完全に上の空だった。

 評価を保留したような俺の感想に、彼女は「よ、よかったぁ」と、心底安堵した声を吐き出した。


 そんな彼女の様子を見て、少し申し訳ない気持ちになった。

 今日の予定が決まってから、きっとこの子はすごく楽しみにしていて、服も真剣にえらんで、どんな会話をしようとかも考えたのだろう。

 俺は今日、それら全てを踏みにじらねばならないのだ。彼女に軽蔑され、彼女の理想に対して破壊の限りを尽くさねばならないのだ。


 俺は俺の立てたプランを、心の中で暗唱する。

 昼飯は床も天井も空気も脂でべっとりなこってり系のラーメン屋。そこから映画を3本ハシゴして夕飯はサイゼリヤ。食べ終わったら即解散。

 一寸の隙もない。最強に最低なデートプランだ。

 何も難しいことはしなくていい。肩ひじ張らず、だらしのない大人――つまり、いつもの俺でいればいいのだ。


「じゃあ――」


 行こうか。

 そう言おうとした瞬間、ある考えが俺の口の動きを止めた。


 あれ?

 得も言えぬ不安が、俺を包み込んだ。

 根本的に間違っていて、的外れな前提で仕事をしてしまっている空回り感。そんな不穏な胸騒ぎが、俺の思考の流れをせき止めた。

 そして、せき止めた水は別の道に進んで行き、俺の過去の思い出を呼び起こした。


 ――『玲ちゃんを悲しませない。それが最優先よ』

 想起したのは、2週間前の、丹下先輩に鬼詰めされたときあの情景だ。

 ――『もし玲ちゃんを悲しませたら、わかってるでしょうね? わたしはあんたを絶対に許さない。どんな手を使ってでも、社会的に殺す」


 二週間も前のことなのに、あの人から紡がれた言葉は鮮明に俺の耳に残っている。

 俺は計画していたデートプランを、もう一度、頭の中でそらんじた。

 昼飯は床も天井も空気も脂でべっとりなこってり系のラーメン屋。そこから映画を3本ハシゴして夕飯はサイゼリヤ。食べ終わったら即解散。

 ちょっと待てよ。


 これって、春科玲を悲しませる行為では……?


「ちょ、ちょっとトイレ行ってくるね!」

「あ、はい。ここで待ってますね」 


 春科玲の返答を待たず、俺は早足にその場から離れた。

 立体の駐車場に併設されているトイレに入ると、スマートフォンでここ周辺にある若者が好きそうな遊び場的な所がないか調べていく。


 やばいぞ。なんで気づけなかったんだ。

 優先事項を履き違えていた。

 不甲斐ない大人の姿を見せたら、春科玲は失望して俺から離れ、丹下さんに変な誤解を与えることもなくなる。それが一番丸い結末だと、そう思い込んでいた。

 だが、それは春科玲の念願のゲーム友達の喪失を意味する。何を間違えたのか俺に好意を向けてるようだし、下手に彼女の気持ちを踏みにじって、それを丹下さんに知られた日には、俺は増々嫌われてしまう。そうなったら俺は精神的に大ダメージを負う。あと普通に殺されるし社会的にも殺される。


 予定変更だ。春科玲に嫌われることをしては駄目だ。彼女を不快な気持ちにさせないことを念頭に置いて行動しなければならない。服装はもう手遅れだが、それ以外で取り返すしかあるまい。


 焦りながらも一通り調べ、春科玲のもとへ戻る。立て直した計画を頭の中で整理しながら歩く。

 とにもかくにも、春科玲の機嫌を損なわないよう振る舞う。いうなればこれは接待だ。


「あ、おかえりなさい」

 戻ると、春科玲は柔らかい笑みで俺を迎えてくれた。


「いやあ、いきなりごめんね」

「いえいえ、こういう時間も楽しいですから」

「じゃあ行こうか」

「はい」


 完全にデートじゃん。いいのだろうか。いいのだろう。いやよくないな。

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