第5話

◇◆


 月曜の朝9時前。職場のオフィスに入り、席に座る。それだけの動作で深い呼吸をしてしまう。


「うわ、時村お前顔色悪いな。死にそうじゃん」


 隣ですでに仕事をしていた同僚にそう言われた。そんなにひどい顔をしているのか。


「俺、去年じいちゃんが死んじゃったんだけどさあ、そんときの通夜で棺桶に入ってたじいちゃんみてえな顔してるよ」

「ああ、ちょっと、ゲームのしすぎでな……」


 自虐的に笑ったつもりだが、表情筋が思った通りに動いてくれているのかすらわからない。

 今日の早朝まで、俺はまた春科玲とゲームをしていたのだ。

 俺とまたゲームしたいと言われるのは悪い気はしないが、まさかその日の夜に早速誘われるとは思いもしなかった。そして彼女の張り切り具合に解散を言い出せず、そのままずるずると続け、気づけば月曜の朝の五時過ぎ。二時間睡眠は俺にはキツすぎる。

 同僚は俺がゲームを趣味にしているのを知っているから「ふーん」と特に驚いたりもせず、自分のデスクに向き直った。


「お前、本当にゲーム好きだよな。この前お前んちで宅飲みした時、俺感動したもん。椅子とかかっけえ感じのやつだし、モニターアームだっけ? あれでディスプレイ3つすいすいって動かせるの便利そうだなあって思ったよ」同僚は腕を組んで思い出すようにしみじみと言う。こいつは根っからのアウトドア派で仕事以外ではPCに触らないため、その辺のガジェット関連には疎い。「まあ趣味優先なのはいいと思うけど、気をつけろよ。仕事を疎かにすると怖い上司がいるからな」

「誰が怖い上司ですって?」


 背後から淡白な声。その声に俺と同僚はビクッと肩を上げ、同時に振り向いた。

 そこには俺と同僚の直属の上司である丹下たんげ詩乃しのさんが立っていた。ベージュのニットの上にスーツという服装は丹下さんがよくする組み合わせで見慣れているが、今日はプラスでどこか威圧感を感じる。顔はにこやかなのに。


「それで、怖い上司って誰のことかしら?」


 丹下さんは栗色の長い髪を揺らし、少しだけ首を傾げる。心なしか、先ほどよりも声が低い。どういう感情でいるのかわからない笑顔からは、分厚い木の板を押し付けられているかのような圧がある。


「あ、た、丹下さん……おはようございます。へへ、ほら、杉浦さんはああ見えて怒ったときの詰め方がえぐいからレビューするときは気をつけろよって話をしてましてね……」


 同僚は忙しなく後頭部を擦り、目線を泳がしている。人間が嘘をつくときの動作が見事に所作に詰め込まれた態度だ。

 それにしても、杉浦さんはよく嘘をつくときの道具に使われてしまうんだな。ごめんなさい杉浦さん、仕事頑張ります。


「ふ~ん、杉浦PLって温厚だから怒ったところすら見たところないけどなあ……あれ? ちょっと時村君大丈夫? なんか粘土みたいな顔色してるけど」


 目を細めて疑いの目を向けていた丹下さんだったが、俺の顔を見てちょっと心配そうな目を向けてくれた。


「ちょっと夜更かししちゃいまして」

「あらら、彼女さんと夜更かしかしら~?」


 丹下さんは口角を上ると、妖しい笑顔を俺に寄せてきた。柑橘系の香水の匂いが鼻腔をくすぐってくる。


 手の平を何度も往復させながら俺は否定する。「ゲームですよゲーム。それに、僕に彼女なんていないです」

「ふふ。冗談冗談。まあ体調には気を付けなよ。今日の昼一で入ってたチーム内レビューって、確か時村君が入れてたよね?」

「はい、先週作った設計書のレビューをしてもらいます」

「セキュリティ機能だったわよね? 変なところあったら容赦なく突っ込んでくからね~」丹下さんはいたずらっぽく目を細める。

「お手柔らかにお願いします……」


 丹下さんへのレビューは、隙を見せたら最後、理詰めで大量の指摘を量産してくる。チーム内のレビューなんだから指摘してくれた方がありがたいんだが、いかんせん圧があって正直怖い。隣で縮こまっている同僚も、丹下さんがいるときのレビューは準備をしっかりとしてから臨んでいる。そして見事に撃沈する。


「そういえば、丹下さんが直接来るの珍しいっすね。何か急ぎの連絡ですか?」


 同僚が話題を逸らしにかかる。彼は常日頃から丹下さんを苦手に思っているきらいがある。


「あ、そうだそうだ。ちょっと時村君に用事があるんだった。今時間ってある?」

「え? はい、大丈夫ですけど」

「じゃあ、ちょっとこっち行こうか」


 丹下さんはオフィスの出入り口のほうを指さした。誰かが使用中というわけでもないし、てっきりオフィス内の会議室で話すのかと思ったが、そうではないらしい。

 オフィスから出ると、丹下さんはエレベーターを使わず非常階段のほうに向かっていく。非常階段は災害時以外では使わないというルールがあるし、別フロアの会議室を使わなければならないほど内密な話だったら、あんな雑談をしている場合ではない。


 一体どんな用があるのだろう。丹下さんの後ろをついて歩きながら、ぼんやりと考えていた。

 ぼんやりしていたから、俺は何の抵抗もできずに胸ぐらを掴まれ、非常扉に体を叩きつけられた。


「が……ぐぁ……!?」


 背中と後頭部に痛みが走り、体内の酸素が余すことなく外に出て行く。何が起きたのかわからず、頭が混乱で埋め尽くされていく。

 丹下さんは何も言わず、腕を俺の首元まで持っていった状態で静止している。

 彼女の纏っている空気は普段とはまるで違い、俺の肌がビリビリと熱を帯びていく。


「な、何を――」

「おい」


 聞いたことのない声が聞こえてきた。

 それが丹下さんから発せられたものだとすぐに気づいたが、信じられず、現実を受け入れられずにいる。そんなはずないと。

 が、こちらを突き殺さんとする彼女の双眸そうぼうが、無理やりにもこれは現実だと認めさせてくる。

 俺と丹下さんの背丈はそんなに変わらない。丹下さんの方が少し低い程度だ。だから彼女の冷えきった表情の全容がはっきりと見え、体内の内臓が全て縮こまるような心地の悪さを覚えてしまう。


 上司の突然の変貌に、俺はまったくついていけない。あと息もできない物理的に。

 丹下さんは腕に力を込め、ギリギリと俺の首を圧迫していく。


「ぐ、うぁ……」


 酸素を取り入れようにもろくに息ができない。徐々に頭が真っ白になっていく中、丹下さんがようやく口を開いた。



「私の玲ちゃんに何してるんだ」



 いつもの気さくで泰然とした彼女からは想像がつかないほど、その声は煮えたぎるような憎しみで満ちていた。

 レイチャン? 何のことだ?

 俺は力を振り絞り、何とか声を出す。


「丹下さん……一体何を……レイチャンって……」

「春科玲ちゃん」


 丹下さんは淡白に答えてくれた。

 が、増々混乱してきた。何で丹下さんが春科玲のことを? 丹下さんと春科玲の接点なんて……。

 駄目だ。思考を巡らせようとするが、そろそろ息の限界だ。カヒュカヒュとか細く酸素を取り入れるが、視界が徐々にぼやけていく。


 意識が遠のいていくその直前、丹下さんの腕が離れ、ようやく解放された俺はその場に崩れるように倒れた。

 俺は咳き込みながら必死に酸素を取り入れ、意識も回復していく。地べたに這いつくばったまま丹下さんを見上げると、ゴミクズを見るような冷めた表情でこちらを見下ろしていた。


 彼女は袖に付いた俺の涎に気づくと舌打ちをし、「汚いわね。これだから男は」とハンカチで忌々し気に拭う。

 いつも見る丹下さんとは、何から何までが違う。所作も纏っている空気も、何もかもが。


「先週の金曜日」


 彼女の吐く言葉一つ一つが、純粋な殺意で塗り固められている。


「なんであんたがコンビニで玲ちゃんと一緒にいたのよ」


 コンビニで春科玲と話していたのを見られていたのか。

 玲『ちゃん』と愛称を付けて呼んでいるあたり、知らない間柄ではなさそうなのだが、だとしたらコンビニにいるときに声をかけてきてもいいはずだし、そもそもここまで怒りを露わにする理由が見当たらない。謎は深まるばかりだ。


 俺は壁を支えに使いながら、生まれたての小鹿のようにヨタヨタと力なく立ち上がって呼吸を整える。丹下先輩は相変わらず見下すような冷たい目を俺に向けている。


「あの、春科玲――さんとは、家族とか親戚か何かなんでしょうか?」

「違うわよ」

「知り合いとか」

「違うわよ」


 丹下さんは表情を崩さずに答える。

 じゃあ尚更疑問じゃないか。全くの赤の他人をちゃん付けして、その子と俺が一緒にいたら暴力を振るうほど怒ってきて、本当に意味がわからない。


「じゃあ一体……どういう関係なんですか」

「玲ちゃんは」


 丹下さんの言葉がそこで一旦切れた。

 彼女は何もない所を見つめながら頬を紅潮させている。無意識なのか、祈るように手を組み、恍惚とした、まるで自分の信仰する神様を目の当たりにしたかのような表情をしていた。

 そして丹下さんはさっきまでとは真逆の、どうしようもない興奮を抑えられない艶っぽい声で言った。


「玲ちゃんは、私の渇いた人生をうるおしてくれる唯一のオアシスなの」


 すいぶんと詩的だな。それも結構ありきたりな。

 いや、そうじゃない。春科玲がオアシス? 喉が渇いたときの給水所的な意味ではなく、メンタルを癒してくれる的な、そういう意味のオアシスか?

 俺の当惑を気にも留めず、丹下さんは自分の思うがままに春科玲に対する思いの丈を吐露していく。


「どこか陰のある物憂げな表情。宝石のように綺麗で透き通った目。シルクのように柔らかそうな髪。抱きしめたら壊れてしまいそうなほど華奢な体。新雪のような白い肌。もっちりとした頬。……あんなに美しくて可愛い子、この世のどこを探しても玲ちゃん一人しかいないのよ」


 そこにいないはずなのに、まるでそこに春科玲がいるかのように、丹下さんはうっとりとした表情で一点を見つめている。今や、彼女の脳内は春科玲一色なのだろう。

 ていうか丹下さんってそっち系の人だったのか。このご時世、そういう愛の形もあっていいのだが、全く気が付かなかった。


「生き帰りの電車で、遠くからあの子を見ることが唯一の生きがいだった。彼女が高校一年生の時から、ずっと見ていた。最近落とした学生証からようやく名前を特定して、我慢できずに後をつけたときもあったわ」


 ストーカーのカミングアウトまでされてしまった。そういえば、丹下先輩がやけに慌てて帰るときを何度か見かけていたが、それは春科玲と同じ電車に乗るためだったのか。

 というか、ストーキングしていますなんて、俺に言ってもいいのだろうか? 俺が「あの人女子高生をストーカーしてますよ」なんて触れ回った日には、丹下さんの立場も危うくなるのではないか。

 俺の心情を察知したのか、当の彼女は髪をかき上げ、何の気なしに言う。


「私の弱みを握ったとでも思った? 私がストーキングしてるなんて誰が信じるの? あんたとは会社での地位がまるで違うのよ」


 確かに、わが社の最前線でバリバリ働き、その余りある功績で女性社員初のサブリーダーにまで上り詰めた丹下詩乃さんを、誰がストーカーだと疑うというのか。

 対して俺は役職のない一介の平社員。信用度の差は火を見るよりも明らかだ。どう噂を流そうと信憑性の薄い怪文書止まりになるだろうし、最悪の場合、火の粉がUターンして俺に降りかかりかねない。


 まあ、丹下さんの良からぬ噂など、俺が流すはずがないのだが。

 しかし、これは……ちょっと困ったことになってきたぞ。


「そう。私とあんたとでは何もかもが違うのよ。地位も能力も容姿も、何もかもが私の方がはるかに上」


 丹下さんの語気は強まる一方だ。自信に満ちた目は、いつ見てもドキドキしてしまう。

 受け入れられない絶望的な事実にから目を背ける一心で吐き出される言葉の矛先は、やがて俺の方へ向けられる。


「なのに、どうしてあんたみたいな便所の落書きみたい人間に、玲ちゃんは笑顔を向けてるのよ」先輩の言葉は裏表のない真っすぐな負の感情が込められている。「どうして、あんな天使みたいな顔で汚い男の手を握ってたのよ」


 そのままキスができるんじゃないかと思えてしまうほど、丹下さんの顔が俺の顔の至近距離にまで近づいてくる。実際はそんなロマンチックな空気ではなく、目線だけで相手を呪い殺さんとする女性と何も言えずにいる男という、まさに修羅場といえる不穏に満ちた場所と化していた。


 そう、俺は何も言えず、心は千々に乱れていたのだ。

 この一触即発の空気に恐怖しているとかではない。こんなことがありえるのだろうか。そんな、起こりようのない奇跡を目の当たりにしたような、感激を通りこした至極の喜悦が、俺を支配していた。



 何を隠そう、俺もストーカーなのだ。惚れてから早5年。目の前にいる丹下詩乃さんを愛してやまない、崇高なストーカーなのだ。



 なんという奇跡! 数奇! 運命! 摩訶不思議アドベンチャー!

 まさか俺と丹下さんが同類で同志とは。この感情をどう表すればいいのだろうか。最近の若い子たち的に言うと、エモい、とか、尊い、とかだろうか。違うか。

 これは天変地異の前兆か? これほどの神のご加護を享受してしまったら、反動でとんでもない厄災が降りかかってきてもおかしくない。もしかして、空が落っこちてくるなんてこともありえてしまう。そうなればあらゆる星や惑星が地球に降り注ぎ、この世は地動説であることが立証され、NASAやJAXAが俺たちを騙していたということになる。民衆はNASAやJAXAの建物の前で暴動を起こし、俺が寝る前に毎日見ていた宇宙の動画は全て捏造で無駄に睡眠時間を削っていたということになってしまう。俺の健康を返せ時間泥棒! 地球は本当に青かったんだろうな!?


 ……いけない。嬉しさのあまり内心で狂喜乱舞していた。一旦落ち着かねば。

 それにしても、こんなことってあるんだな。控えめに言っても神の御業じゃないのか。 

 俺もストーカーで、丹下さんもストーカー。何という共通項。今まで同じ会社の一員という接点しかなかったが、まさかこんなところに繋がりがあるとは。


 しかし、一つ問題がある。

 俺が丹下さんのストーカーで、丹下さんは春科玲のストーカー、という点だ。現状では、俺と丹下さんは永遠に交わらない線となっている。

 だが、だからといって気を落とす必要はない。丹下さんにもストーカーの気質があるということは証明された。ならば、好意の方向が春科玲から俺に向くだけで、すぐさま俺をストーキングし始めるだろう。そうなれば、俺と丹下さんはお互いのストーカー。俺と彼女の愛の矢印は必然的に交わる。

 長年夢に見ていた恋の成就に一歩近づける。その事実に打ち震え、足の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになってしまうが、なんとか踏ん張る。


「なんでなのよ。さっさと答えなさいよ」


 再度胸倉を掴まれ、丹下さんは鬼気迫る顔で俺を詰めてくる。


「ぼ、僕は……春科さんが……何か困っている感じだったので、見て見ぬ振りもあれなんで……助けたっていうか、声かけたっていうか……」


 痴漢されていた、とは言えなかった。言った日には痴漢の犯人を特定し、普通に殺しに行くんじゃないのか。それくらいの熱量を丹下さんから感じていたからだ。


「それで……そのまま放って帰るわけにもいかないからコンビニで落ち着くのを待ってたんです。そしたら向こうから……ゲーム友達がほしいとかって愚痴られて」


 間が気まずくて自分からアプローチしたなんて言った日には、喉に爪を立てられかねない。そんな自己保身の精神から、俺は嘘をついた。


「たまたま僕も彼女と同じゲームやってたんで、その……なんか成り行きで一緒にゲームすることになって」


 これは言わなくてもいいことだ。言ったあとに、そのことに気づいた。


「一緒にゲーム……?」


 小さい頃、父親に買ってもらったアリの巣キット。子どもの俺が観察していた、綺麗に形成されていく蟻の巣のように、丹下さんの眉間に皺が刻まれていく。


「えっと……彼女、ゲームが生きがいみたいで、それであと、ちょっと不幸が重なっていて、何と言うか……一緒にゲームする人がいないと死ぬんじゃないかってくらい落ち込んでてですね」


 俺の弁明を図れば図るほど、丹下さんの眉間のアリの巣が一層深くなっていく。

 けれど、俺は口を動かすのを止めなかった。

 丹下さんにとって、俺は排除すべき横恋慕野郎に見えているのかもしれない。だから、俺と春科玲はゲームだけの関係で、丹下さんが羨むような要素は1ミリもないのだと、どうしてもわかってほしかったのだ。


「決して僕に変な気はないです。自分からはゲーム誘ったりもしてないし、通話で話すときも受け身だし」

「私も玲ちゃんと一緒にゲームがしたい」

「え?」

「私も、玲ちゃんとお話ししたい」


 風船が萎むように怒気は抜け、幼い子供がわがままを言うような口調で、丹下さんは言った。


 嫉妬だ。丹下さんが俺に嫉妬している。

 してくれている。


 どんな感情だろうと、丹下さんが俺に意識を向けてくれているという事実は何より嬉しい。顔がにやけそうになる。

 が、今は愉悦に打ち震えているときではない。俺が丹下さんにあげられるものは全て献上しなければ簡単に捨てられてしまう。


「よかったら彼女を紹介しましょうか?」


 俺の提案に、丹下さんは一瞬、期待を孕ませた表情をしたが、すぐに歯を食いしばって自身の感情にブレーキを掛けた。


「……玲ちゃんって、結構ゲーム上手なのよね」

「はい、中級者より少し上くらいの実力だと思いますけど……」

「あなたも大体それくらいってことよね」

「同じランク帯なので、そうですね」

「じゃあ……一緒にできないわね。ゲームなんてまともにやったことないし、推しに迷惑かけたなんて日には……多分死にたくなる」


 親指の爪を噛みながら憎々し気に語る丹下さん。その手腕でサブリーダーの地位を手にしたキャリアウーマンからしたら、誰かの足を引っ張ることなどプライドが許さないのだろう。しかも、それが好意を抱いている相手となれば尚更だ。


「あんたの腕を食べたら私もゲームが上手くなるなら、迷いなくあんたの腕を食いちぎるのだけど……そんな簡単な話でもないし」


 何やら剣呑さに満ちた思考を巡らせていたようだ。俺の腕に噛みつく丹下さんを想像して、悪くないな、と少し思ったしまった。


「とりあえず、事情はわかったわ」壁に背を預け、丹下さんは不本意ながら、といった感じで言う。「玲ちゃんを悲しませない。それが最優先よ」

「は、はい」

「だからあんたは玲ちゃんの気が済むまで一緒にゲームをしなさい」

「は、はい」


 有無を言わさぬ上司からの命令に、俺はイエスを返すことしかできなかった。女の子とゲームをしろという命令は今まで受けたことがない。


「もし玲ちゃんを悲しませたら、わかってるでしょうね? 私はあんたを絶対に許さない。どんな手を使ってでも、普通に殺すし、社会的にも殺す」


 ちゃんとしたパワハラだ。だが、これも丹下さんなりに好きな子のためを想っての言動なのだと思うと、なんと健気で立派で美しくて、俺も優しい気持ちになってきた。これがエモくて尊いというやつか。


「ちょうど昼ね」


 丹下さんは腕時計を見やるとそう言い、俺とのやり取りなんてなかったかのような足取りでオフィスに戻っていく。取り残された俺は、そそくさと近くのスーパーに弁当を買いに行った。

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