第15話




朝、目を開けると目の前にお母さんが寝てていて。また早い時間に目が覚めたのだと悟る。

寝返りを打ちながら部屋の温度を適温に調整し、ゆっくりと身体に活力を回す。

視界の先には作り途中の刺繍があって、昨晩と同じ箇所で止まっていることに安堵する。


(イトラにも苦手なことがあったんだ)


昨晩のことを思い出すと、クスッと笑いが込み上げてきた。

普段、なんでも難なくこなすイトラを見ている分、昨日の出来事は新鮮さそのものだった。

最後の方は両端から自分たちのペースで刺繍していったが、そこまで辿り着くのに多少苦労したのだ。



刺繍にはその人の性格が色濃く現れるのだという。実際、お母さんと私でも完成品は同じ物にならない。糸の組目や間隔にその人特有の癖が出てしまうからだ。


昨夜 、2人で刺繍した妖精布の寝巻きを手に取ってみる。

そこに刺繍されているのは、拙くも真っ直ぐな刺繍。まだ不慣れなのに、組目や間隔を整え細かい所まで再現しようという『イトラらしさ』を感じた。









様々な思いを重ね、自身を狙う存在と相対する決心をしたはずだった。

しかし変化のない生活の中、警戒する意欲が次第に萎んでいくのを感じた。


相変わらず外出時はヘムロックかエドさんが共に行動する状況が続いて、申し訳なさと同時にどこか息苦しさを感じるようになってきた。


(…自由に出かけたい、目的もなく町を歩いて、のんびりと買い物がしたい)


目的を決めないで、休日を自由に過ごしたい。


そして何より、この聖術たちを、この力を使ってみたい。



手をかざし、慎重に3つの構成を組み上げた。

そして、それぞれ別の聖術として作られた構成同士を紡ぎ、1つの構成に。


イトラから習うのは基本的に中級呪文魔法までの呪文を聖術の形に作り変えたもの。それらはそのままでは大きな力になり得ない。

しかし聖術というのは、発動できるかを考慮しなければ理論上どこまでも出力を上げることができる。


なら、今組むことができる構成の中で、最も規模の大きな構成とは何か。


ここ数日、刺繍をしながらそんな事ばかり考えていた。今組み上げた構成は、その中でもそこそこ満足のいく出来栄え。

しかし、そもそも発動出来るのかすら判明していない。

つまり消化不良の塊なのである。


(そんなに試してみたいなら、適当に放ってみればいいじゃない。それ、水を撒き散らすだけでしょう?)

(ダメだよ、もしも誰かが怪我したり、建物が壊れたら危ないでしょ?)

(そうだといいわね)


どうでも良さそうに相槌がうたれる。

まだこの構成は机上の空論でしかないけど、今までの集大成がそこまで規模が小さいとは思いたくない。きっとすごいことになるはず。


(そもそも、その構成って何がしたくて組み上げたのかしら? 無駄に規模を大きくするのは品性に欠けるわよ?)

(……しょぼーん)


『品性に欠ける』

言い得て妙な、正論。この手に掲げた聖術を言い表す言葉として、これ以上的確な言葉はそう見つからないだろう。


(あなたのことだから、きっと今組める構成で一番規模の大きい物を模索していたのでしょう? でもそれに意味はないわ。だって、規模が大きくなって変わるのは必要な魔力量だけ、魔力なんてどうとでもなるわ)


全てお見通しだった。

それならもう、イトラに答えを求めてしまおう。


(…たとえば、例えばだよ? 自分の組める構成に、限界があったらイトラならどうする?)


私はどこまで上達出来るのか。

いつか本当にイトラのようになることができるのか、そんな不安から逃れるように。

いつものように、すぐ答えが返ってくると思っていた。

しかしイトラがその答えを言うことはなかった。







「…というわけで、明日からは町の外に出て魔法の実技試験をしようか」


刻印魔法の修得は順調に進み。

今は、フランが刺繍を、私は金属片に彫刻をするように窪みを刻み込んでいる時の事。

彫刻に集中していたからか、話半ば以上聞き逃していた私に聞こえたのは最後の部分だけだった。


なんの話かとフランを見れば目が合った。ちょうどその灰色の瞳は、私の姿を捉えていたらしい。

そしてトムじいを見れば、彼も私の反応を待つように私を見つめていた。


あー、これは私の意見を求められている気がする。

つまりあれだ、なるようになーれ。


「ん、わかった」


私の返事に一番に反応したのはフランだった。


「…リタさん、いいんですか? たってこれは───」

「フランちゃん。君には君の仕事があるはずだ。それにこれはリタちゃんにとってもいい話だと思わないかい?」


何やらトムじいはフランを嗜め、何かを説いていた。しかし一向に話が汲み取れない。


首を傾げる私に、トムじいは告げる。


「リタちゃんの了承も得たことだし、今日は町の外で行う実技試験の準備を始めようか」


え? 聞いてない、初耳なんですけど??


「…リタさんがそう決めたのなら。リタさん、絶対離れたらダメですからね?」


フランが今までにないほど真剣に釘を刺している。

今更「聞いてませんでした」とは言えない雰囲気。


でも真っ先に言いたいこと、それは。


『あと1日早く言ってよっ!!』









「リタさんっ、そっちに行きました!」

「……ん」


フランの掛け声に答え、ここらに逃げてくる小動物めがけて『網』を投げつけた。


今回捕まったのは冬兎。雪と同化するような白い毛皮を持つ、この地域ではよく生息している動物だった。

お肉はクセがなく淡白、つまりシチューや煮込み向けでこの季節にはよく食べられる。



「リタさん、また捕まえましたね!」

「ん、お疲れさま」


白い息が空にとけた。

雪を踏み、掻き分け、雪兎を追いかけたフランの口からは絶えず白い息が漏れていた。

呼吸を整えながらフランは額にかいた汗を拭う。


今日初めて知った事、フランは運動能力が思ったより高い。

初めは2人で獲物を探していたが、いつの間にか役割分担がされて。


「あと2羽、捕まえれば課題終了ですね」


今日のフランは、いつもより少しだけハキハキとしていて、新たな一面が垣間見える。


…まぁ、フランが嬉しそうならそれでいっか。

私は空を見上げ、温められた空気を放熱するように吐き出した。

私の口からも白い息が上がり、どこかに消えていった。



白い平原。今は雪に覆われた森林。

他に生き物の気配のない、立っているのは私たち2人だけ。

会話がなければ、浅い息遣いの音だけが聞こえる閉じた世界。



実技試験として町の外に連れ出された私たち。

トムじいはいつもの好々爺然とした雰囲気で言った。


「外に出られたのは久しぶりだろう。慣れるまでこの自然を楽しみなさい」


それは、帰省してきた孫たちを遊びへ連れてきた老人が言ったのなら違和感のない言葉だった。

しかし、私たちの事情はそこに当てはまらなかった。


「…えっと、それはどういう……?」


フランの問いかけに笑顔で頷きながら、トムじいは持ってきた荷物を丁寧に広げた布の上に並べる。


ナイフや包丁に、小分けにされた調味料や香辛料たち。

ここに来るまでは魔法の道具だと思っていたトムじいの荷物は、全て野営に使うような物ばかりだった。


「どうかな、たまにはこういうのもいいと思ったんだ。近くでヘムロックくん達と見守っているから、思う存分遊んでみなさい」


きょとんとした表情のフランにトムじいは重ねていう。


「こういう事の醍醐味は、子供たちだけで考え、行動することにある。保護者の手のない環境で、自身がやりたいように、難題に挑戦する。──どうかね、興味が湧いてこないかい?」


そこでトムじいは私を見た。少し首を傾げてみる。

すっかり好々爺になりきっているトムじいに問いかける」


「難題って、何かするの?」

「あぁ、君たちには───」





「雪兎の毛皮5羽かぁ」


魔法で出した水を使いながら作業的にウサギを解体する。

必要な毛皮は首から下の大きく面が取れる場所だけ。残りは肉と内臓に分けて、食べやすいように切り揃える。


「……リタさん、慣れてますね」


手早く2羽分のウサギを捌き、身なりを整えるとフランが感心したように言う。

私は今回フランに見学のみをするようにお願いした。



なぜなら、フランに調理技能が無かったから。


初めはフランに1羽任せるつもりだった。

しかし、ウサギの耳を掴みながら呪文魔法で首を切断した瞬間、考えを改めざるおえなくなった。


「フラン、次からはこうやって切り分けるんだよ?」


綺麗に剥がれた毛皮と形の整った可食部。それらの切り口を見せながら説明する。

しかし、まだ説明中だというのにフランのお腹が鳴った。


「……お昼ご飯にしよう。たくさん走ってお腹すいたよね」

「…はい、リタさん」


恥ずかしそうにするフランを慰めながら、昼食……いつの間にか、昼食を食べるのが当たり前になっていることに気がついた。



(この町に来て、まだ2ヶ月も経ってないのに。それなのにお父さんや村の人の事、昔のことみたいに思っちゃってる)


切り分けたお肉に、少し濃いの塩と香辛料をまぶし、練り込む。

今日は運動したから、濃い目の味付けがいいだろう。



手を弛まなく動かしながら、頭の中では居なくなってしまった人の顔を思い浮かべ、追悼する。

あの人達は、私が魔力持ちだったから、権力者に目をつけられてしまったから殺されてしまったのだ。

そんな私は今、3食困ることなく食べて、濃い味付けの新鮮なお肉を食べる。仲の良い友達と2人で。


(不平等だね)


満遍なく味を付けた肉に串を刺し、フランが作った即席の焚き火にくべる。

周囲に立ち込める食欲のそそる香ばしい匂いと、弾けるような音を響かせる焚き火。


(別に、あなたが──)

(まぁ、いっかー)


目の前でこんがりと色を変えていくお肉を眺めているうちに、それらの悩みは薄れていった。

今が楽しくて、イトラが居て、お母さんが居て、フランもフィルも、他にもたくさんの人が居てくれる。



焼き上がった串を持ち、一口、パクり。


「ん、美味しくできた。フランも食べていいよ」

「はい、リタさん。ところで…今も魔法使いさんの声は聞こえているんですか?」

「ううん、今は寝てるみたいだけど、起こす?」


フランが声を潜めて囁くから、私も真似をしてみる。これだけ人の気配がしない森の中であっても、秘密の会話は密かにするらしかった。


フランは、イトラがこの体に住んでいる事も、普段から会話している事も知っている。

でも今までその話をしなかったのは、秘密が守れないことを危惧していたようだった。


「…いえ、寝ているならいいんです。まだ半信半疑というか、なんというか」

「う、うん? そう」


(イトラ、起きてる?)

(……えぇ、起きてるわよ。ずっとね)

(えっと…怒ってる?)


言葉を選ぶフランを尻目に見ながら、次の串を手に取った。そして人差し指をお肉に向ける。


「ほら、これで機嫌直して?」

(別に、怒ってないわよ)


そう言いながらも、指先から伸びた『もやもや』が香ばしく焼けたお肉を包み、咀嚼した。


「おいしい? 脂の乗ったモモの所だよ」

(悪くないわ)


「………え!?」


フランが喫驚とした顔で、私の持った串を指さす。そこには一口分齧られたお肉があった。

…つい、いつもの雰囲気で食べさせてしまったけど、衝撃が強かったみたい。

しょうがないなぁ。


「はい、じゃあフランにも、あーん」


串の先端にずらして、新しいお肉をフランの小さく開いた口に押し付けた。

驚きながらも、ゆっくりと口を閉じてお肉を咥えるフラン。


「おいしい?」


そう聞けば、ゆっくりと咀嚼して頷いた。

だからもう一口、フランの口に押し付ける。


そして私は何も持っていない左手を、自身の顔の前で構える。


「今も居るんだよ、ここに」


それが嬉しくて、人差し指に口づけた。

私が幸せな空気を吸っていると、フランが申し訳なさそうに言う。


「その…リタさん。お肉作りすぎじゃないですか?」


焚き火の上には食べ頃に焼けた串たち。

正直私はもう限界だ。


「……もしかしてもう食べられない?」

「…はい。もう…ダメそうです」


2人分の沈黙。

それと1人分のため息が聞こえた。





イトラとフランとの和気アイアイ、楽しい昼食を終えて出発しようと声をかける。

結局イトラに泣きついて、残ったお肉はなんとか消費できた。


「はいっ、ご馳走様でした。…魔法使いさんも食べてくれてありがとうございます」


フランは少しぎこちないながら、私の指先を見て微笑んだ。

一緒に食事をしたからか、イトラへの雰囲気がだいぶ柔らかくなった気がする。

今は体内で休んでいるから指先には居ないけど、しっかりと聞いているから問題ない。


「ほらフラン、出発しよ」


適度な疲労と満腹感に、このままだと寝てしまいそうだった。

だから荷物をまとめて準備を整えて、この場を離れようとした。このまま雪兎を捕まえて、明日からは魔法の実習でもするのかな?

そんなことを考えて、立ち上がった時。



──空気が変わる。

日常という名の平穏が崩れ落ちたのを、肌で感じた。



生き物の気配のなかった森に、いくつもの小さな気配が生まれ。

それらが声をあげ喧騒に包まれて、静まった。


空気の張り詰める、一瞬の静寂。


「リタさんっ こっちに!」


フランが手を差し出して、引かれるがままに近くの木の影に2人で身を隠した。

呼吸を、息を殺しきれていないフランの背中。

震えるその背をそっと撫でようとして。



獣の咆哮が、雪に閉ざされた森に響き渡った。


「…ッ」

「ん、静かに」


咄嗟にフランの口を塞ぎ、耳元で『お願い』する。

あくまでも冷静に、背筋の凍るような威圧をやり過ごす。


(イトラ、あれは何?)


気配だけで悪意を撒き散らす存在だと理解できた。

それは、私たちと相容れない存在だと。


(答えのわかっていることを質問しても意味ないわよ?)

(……じゃあ、そういうこと、なんだね)


視界の先、雪をもろともせず一直線に歩いてくる漆黒の『もやもや』を纏った獣。

太い四肢に、すべてを弾くような分厚い毛皮。四足歩行しながらでもダルフさんより高い頭。


本の中で存在だけは知っていた。

しかしそれはこんな町の近くに居ていい生物ではないはずだった。


「…あれ『魔獣』です。しかもクマの変異体なんて」


フランが血の気の引いた顔で言い当てる。



───魔獣

人間から魔力持ちが産まれるように、獣からも魔力持ちが産まれることがある。

その体は通常より大きくなる傾向があり、筋力や知能も発達した個体は、変異体とも呼ばれる。


つまり、ただのクマより強くて頭も良い。魔力を纏っているから魔法にも耐性があって効きにくい。

そして何より知性がある。


(逃げられそうにない、かな)


魔獣はなぜか一直線に歩いて来て、逃げるタイミングがない。

獣の呼吸音が聞こえてくるたび、フランが可哀想なほど青ざめて今にも泣き出しそうだった。


「フラン、ここでじっとしててね。約束だよ」


そのか弱い背中を抱きしめて、最後の手段に頼る決心をする。


(イトラ、お願いしてもいい?)


(別にいいけれど、あれに監視されていても構わないのかしら?)


(……あれって?)


私の問いかけに答えは返ってこない。

でも、イトラの意識が遠い空に向けられた気がして、それを追うように同じ空間を見つた。

そして、見つけた。


(魔力で出来た……魚? もしかして、あれも魔獣?)


不可思議なことに『魚』が宙に浮いている。


(いいえ、あれは『召喚物』ね。それも中々の年代物。今でも残っていたことが驚きだわ)

(…召喚物?)


召喚物という初めて聞く単語は気になるが、もっと気にするべきことがあった。

おそらくあの魚は、誰かの魔法で、私たちを監視しているのだろう。


木の幹より上、建物の2階くらいの高さを泳ぐように浮遊する魚。

透き通った青色、魔力が澄み限りなく透明な『もやもや』を纏っている。


先にアレを排除するか考えて───


(あれは私の方で対応するわ。それよりあなた、そろそろ前を見ないと襲われるわよ?)


「…ッ」


イトラの言葉に、慌てて視線を前に戻した。

まだ距離があると思っていた魔獣は、既に10歩の間合いもない。

間違いなく互いを認識できている距離で、私は巨大なクマと相対していることに気がついた。



魔獣は唸り声をあげ、威圧を強める。

それに反応するように、冷たい汗が伝った。


初めて目にする大きな体躯に、純然たる殺意。食欲を隠そうともしない捕食者としての立ち振る舞いに圧倒される。



両者の視線が交差した瞬間、互いを殺める暴力を解放した。



「ッ…貫けっ!」


飛びかかるような速度で近づいてくる巨体に焦り、未完成の聖術が発動する。

牽制用の聖術すらまともに発動できなかった。



──失敗した。

そう理解するのに時間はかからなかった。

分厚い毛皮に弾かれた魔力の残滓。

迫り来る無骨な爪。


怯ませるどころか、目眩しにもならない一撃。避ける余力のない身体。

一瞬あとの、自分の未来。

自身の死を幻視し、死を覚悟した。


(…ごめんなさいっ、失敗し──)


(やっぱり、まだ勝てないわよね)


イトラの気の抜けた声を聞くまでは。


身体の熱が急激に低下したような、私のすべてが、彼女のものに置き換わる感覚。


(イ、イトラ?)

(まぁ、今回も黙ってみてなさい。実戦というものを見せてあげるわ)


いつもよりも優しい声音で、誰よりも頼もしい人の声が響いた。







身体は風に靡くようにしなやかに動く。

眼前に迫っていた爪を紙一重に避け、前に踏み出すことで魔獣の死角に逃れる。


駆け抜けながら右手に構成を、構築から発動を一瞬で終わらせる。


効果は魔獣の足場を崩す程度。

しかし大振りな動きの後、重心の偏っていた魔獣は容易くバランスを崩した。


(聖術の強みは、その多様性と発動の速さ。重要になるのは応用力とタイミング)


そう言ってゆっくりと振り返る。

大きな隙み見せた魔獣にイトラは攻撃をしなかった。

そこにあるのは、いかにしてこの教材を使って学習させるかという一点のみ。


体勢を整え、再び魔獣と相対する。しかし今度はこちらから攻めに出た。


(なにも、正面から戦う必要なんてないのよ)


イトラはそう言いながら構成を2つ。

それは、私が組み上げた構成を更に昇華させたもの。


(確かこうだったかしら?)


こちらへ駆け出す魔獣に向かって、貫通力を付与した不可視の矢が飛翔する。

矢はそのまま魔獣の額に───


『ガルルッ』


直撃の寸前、魔獣の魔力が不自然な挙動をして、頭部を守るように集まった。

まるでイトラの魔法に、魔力が反応したかのような、魔獣の意思から独立して動いているように見えた。


致命の矢に気がついた魔獣は、反るように避け、右肩を深く抉るだけに留まった。


魔獣は怯むことなく、逆に更に加速する。避ける事など許さないと言うように、その巨大な体躯が迫る。



まるで建物が倒壊してくるような圧倒的な質量を前に──イトラは笑った。


「来なさい、遊んであげる」


魔獣の纏う魔力の鎧は前方に集中し、後方は無防備に晒されていた。

疾走する巨体。その脚部に、狙い澄ました不可視の斬撃が放たれる。


『…ッ! ガルルルゥッ!!』


魔獣の片足を切断し吹き飛ばした。

バランスを失った魔獣の体を、イトラは踏みつけ空へ飛ぶ。

そのまま浮遊し、その巨体を見下した。


「身の程を知りなさい」


3つ目の構成。構築と発動は同時だった。

魔獣の直上から放たれたその一撃は、あまりにも鮮やかに、魔力の鎧ごと魔獣の半身を断ち切った。


『…ゴッ!!!』


即死だった。

先程まで溢れていた威圧感も強者の貫禄もみる影もなく。

最後に纏っていた魔力の鎧が薄くなっていき、魔力の残滓が風に揺れるように、私の体に溶け入ろうとして──


「いらないわ、消え失せなさい」


その残滓を、魔力で覆った手で掻き消した。

イトラはゆっくりと息を吐き、手を握っては開いてを繰り返し、身体の筋を伸ばして、最後に私の頬をムニムニと揉んだ。



(…イトラ何してるの?)

(別に? 久しぶりの肉体が懐かしかっただけよ)


そのまま身体を前に折るような体勢になって。少し驚いたような感情を浮かべた。


(あなた、体柔らかいのね)


イトラがなんとなしに呟く。

身体はそのままペタン、と太モモにお腹がくっついた。

それからも人の身体を確かめるように動かして、最後は頬をムニムニする。


イトラが楽しそうにしているのが嬉しくて、思いついた提案をした。


(じゃあこれから7日に1度とか、イトラが私の身体を使って生活するのはどう? 朝起きてから眠るまで。勉強も料理も、買い物だってイトラがするの。楽しそうでしょ?)


それを私は内側から眺めるのだ。

イトラはなんでも知っているようで人間の生活に疎い所がある。だから、人の中で生活をすれば、人間を理解できるようになると思うのだ。


そんな私の提案を聞いて、イトラはため息をつく。


(あなたって、本当に危機感がないのね。自身の肉体というものは、簡単に人に貸し与える物じゃないのよ)


呆れられたように、嗜められる。


(そもそも今だって、あなたの意思で体は動かせないでしょう。それがどういう意味なのか、考えたことはあるのかしら?)


…まぁ、当然気づいてた。

特に問題視してこなかっただけで。


(いいんだよ、それで。イトラのこと信じてるから)

(……そう。じゃあそろそろ返すわ)


身体に力が戻る。

森の匂い、風に吹かれる感覚。そして空間を満たすような濃い鮮血の匂い。


嫌な思い出が溢れそうになって、鼻を塞いだ。

大丈夫、今度は守れた。

そう言い聞かせながら雪を踏み分けフランの元へ。


「フラン、もう動いていいよ」


フランが隠れている木へ声をかけたが、反応がなかった。


「フラン……居ないの?」


不安な心境を押し潰して、そっと木の影を覗く。

心配に反して、フランはそこに居た。とても泣いていたけど。


「…ずっと……ここで見てました。何度も何度も駆け出しそうになって、その度に我慢して…。無事でよかったです」


緩慢な動きで木の影から出てきたフランは、見た目通りのか細い身体を震わせていた。


心配させてしまった。けど、逃げずに心配してくれた。

不快な想像が霧散する。


「ほら、無傷」


両手を広げて、その場で身を返して見せた。妖精のローブが空気を含み、汚れ一つない裾を靡かせる。


「…リタさんっ」

「わっ…びっくりした」


フランの感情が決壊したように、力強く抱きしめられた。冷たいローブ越しに、じんわりと体温が伝わってくる気がした。


「怖かったよね、もう平気だよ」

「……もう本当にダメだって思いました」

「うんうん、そうだね」


確かに、もうダメかと思った。


泣き止まないフランをあやして、急いで移動する。魔獣の血の匂いに釣られ、肉食の獣が集まる危険があると思ったから。


十分に距離をとったのを確認して、休息を取ることにした。私も疲れたけれど、フランの体力が限界に近いように見えたから。


聖術を惜しむことなく使い環境を整えて、先にフランを休ませる。

このまま夕方まで───いや、迎えなんてくるのかな?

見守っていると言いながら、あんな魔獣を見逃すなんてあり得ないし。

もしかしてトムじい、食べられちゃった……かも?


いやいや、まだそうだって決まってないし……。


身体を休めると、とめどなく思考が回り。

一つの結論を導き出した。


───よし、最悪の場合はお母さんと一緒に夜逃げしよう。

そうすれば全て解決する。




















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