(じゅう)いち
僕の部屋は酷く殺風景だ。
物は最低限。娯楽の類もない。
以前より少し変わったのは、食器が二人分になったことだけ。
取るに足らない小さな変化。
たったそれだけのことが、僕の胸を強く締め付ける。
萩野が残した日記を手に取る。
使い込まれている割に綺麗な装丁。
萩野が如何に大切に扱っていたかがよくわかる。
次がこの三日間を遡る最後のタイムリープ。
萩野との契約を果たす、最後のタイムリープだ。
いつもなら、萩野と別れてすぐにタイムリープしていた。
でも、今回は違う。
もう萩野には会えない。
会ったところで、萩野はもう僕との記憶を思い出すことはない。
だから、僕は躊躇っている。
萩野と別れたくない。
萩野を失いたくない。
僕が招いた結果なのに、今はこうして立ち止まったまま動けずにいる。
今からでも萩野を追いかけて、その体を抱きしめれば、この運命は変わるのだろうか。
萩野を失いたくないと思いの丈を伝えたら、萩野の気は変わるだろうか。
萩野との三日間をこの先も過ごせるだろうか。
そんな淡い希望が頭をよぎってしまう。
僕はどうしてしまったのだろう。
最初はただ、萩野が僕にとって大切であることを否定するために始めたことだった。
大切なものを奪うという契約で他人である萩野が死ぬことが許せなかった。
だから、萩野は僕にとっては何でもないものだと証明するために。或いは僕にとって萩野が大切なものだと判断された理由を探すために。そのために僕は萩野と契約を交わした。
それが今は、萩野が大切だと認識してしまっている。
萩野に死んでほしくないと願っている。
僕がもたらした結果なのに。
こんな力を得てしまったから、萩野は死ぬ。
こんな力を得てしまったから、僕は萩野との思い出を残してしまった。
こんな力を得てしまったから、僕は未練を抱えたままでいる。
このままじゃ嫌だ。
萩野が死んでしまうのも。
萩野が全て忘れてしまうのも。
萩野との思い出を消してしまうのも。
僕は日記を両手でしっかりと握った。
「ごめん、萩野」
届かない声を残し、僕はタイムリープを決行した。
※※
六月十四日。
悪魔と契約してちょうど三日前。
僕が戻れる最大の時間だ。
真っ暗な部屋は何度も見た光景のまま。
殺風景で、使われていない食器も一人分しかない。
料理の匂いも萩野がいた痕跡も何一つ残っていない。
何も無い、僕の部屋。
部屋を見渡して、僕はその場にしゃがみ込んだ
今までは萩野が隣に座っていた、僕らの居場所。
今は冷たい風が抜けていくような物寂しさだけが居座っている。
僕は日記を抱え込んだ。
僕は初めて、萩野との約束を破った。
日記を持って、またこの時間に戻ってきた。
衝動的に日記を持ってきてしまったけれど、この後のことを何も考えていなかった。
日記を萩野に渡そうものなら、僕が萩野との約束を破ってしまったことを彼女に教えることになる。
中身を確認してみるのはどうだろう。
もしも萩野が最後の未練について書いていなければ、もう一度最後の三日間を過ごすことが出来るかもしれない。
もう一度どころか、何度でも最後の三日間を萩野と一緒に過ごせるかもしれない。
どうせ約束を破ってしまったんだ。
日記を見るくらいどうということはない。
もしも萩野が僕に対する恨み言を書いていたとしても、僕はそれを受け入れる。
萩野の本当の未練を書いていたなら、それらを全て晴らしてあげよう。
僕は胸の中でもう一度萩野に謝り、日記を開いた。
月明かりを頼りに日記を読んだ。
萩野の日記は、僕の個人情報から始まり、時系列に沿って今までにあったことがこと細かく書かれていた。
今まであったことが全て、詳細な内容まで書かれているはずなのに、なんだか違和感がある。
どこに行ったとか、何をしたとか、出来事に関することはもちろん書かれている。
けれど、そこに細かく記載されていたのは、食べたものの味とか萩野が抱いた感情に関する内容なんかじゃなかった。
どのページを見ても、どの日付のどんな出来事でも、そこに記されていたのは、僕のことだった。
『おすすめしたお店で渡利くんがハンバーグを食べて、好きな食べ物だと言ってくれた。渡利くんは少しだけ笑っていた。きっと本当に美味しいと思ってくれた』
『渡利くんは絶叫アトラクションが苦手みたい。それでも私に付き合ってくれて、その度に気分が悪そうだったけど、ずっと私に付き合ってくれた。最初は無理してたみたいだけど、少しずつ楽しんでくれているようだった』
『渡利くんのご両親は既に亡くなっていた。私のせいで彼を傷つけた。渡利くんはなんともないと言っていたけど、少し寂しそうだった。代わりに私が少しでも心の穴を埋められたら前に進めるかな』
『渡利くんと一緒に星を眺めた。渡利くんは感慨深そうに星を見ていた。初めて名前で呼んでくれて、私はひとりじゃないことを教えてくれた。マフラーは渡せないけど、今日眺めた星のみたいに、私の想いはこの先も渡利くんと繋がっていられるのかな』
『渡利くんと温泉に入った。恥ずかしさのせいで余計に熱く感じたけど、渡利くんも恥ずかしそうだった。渡利くんもやっぱり男の子だ。もっと積極的になれれば、この気持ちを伝えられたのかな。私の気持ちを知ったら、渡利くんはどんな反応をするのだろう』
『渡利くんの欲しいものは日記と私と私の手料理。こんな日記は渡利くんに読まれると恥ずかしいから断った。私が欲しいと言われた時は嬉しかった。渡利くんも恥ずかしそうで可愛かった。もしかしたら渡利くんも私と同じ気持ちなのかな。そうだと嬉しいけど、私は死んでしまうから、できればこのまま私の気持ちにも、渡利くん自身の気持ちにも気付かないでほしいな』
僕がなんと言ったのか。僕がどんな表情をしていたのか。そんなことばかりが書かれていた。
僕が話した時の声の抑揚やそこから感じ取った、僕が抱いたであろう感情についてまで、ただひたすら僕のことだけがどこまでも綴られていた。
時間を忘れて日記を読んだ。
一字一句逃さないように、綺麗な文字で連ねられた文章を頭にインプットした。
そして、一番最後のページ。
そこに、萩野の最後の未練についての記載があった。
『私は渡利くんが好き。整った顔立ちも、地味な服装も、意外としっかりした体も、少し低い声も、高い体温も、笑った表情も、悲しい表情も、疲れた表情も、照れた表情も、優しくて温かい性格も、全部が好き。でも、こんなこと言っちゃうと私にも、きっと渡利くんにも未練が残っちゃう。だから、私の最後の未練はここに置いていく』
──私は、渡利くんと幸せな未来を過ごしたかった。
真っ白な奥付に綴られた、少し滲んだ文字。
その言葉を最期に、日記は終わっていた。
文字の上にぽたりと雫が落ちた。
ぽたぽたととめどなく落ちる。
文字が滲んでいく。
僕は馬鹿だ。
どうして、今更気付いたのだろう。
僕は、萩野が大切なものである理由を知っていた。
けれど、それは少しだけ違った。
知ったつもりになっていた。
その事実から目を逸らそうとしていた。
気付けたはずだ。ずっとわかっていたはずなんだ。
萩野が僕に優しくしてくれるのも、笑顔を向けてくれるのも、僕を見ていてくれるのも。
その根底に会ったのは、好意だ。
好きだという気持ちだ。
萩野は僕を好きでいてくれた。
だから、僕にあんなにも優しくしてくれたんだ。
僕の代わりに泣いてくれた。
一緒になって笑ってくれた。
たくさんの思い出を僕に残してくれた。
そんなことに、今更気付くなんて。
それだけじゃない。僕の気持ちだってそうだ。
萩野の笑顔を見る度。手を繋ぐ度。声を聞く度。萩野を近くに感じる度。萩野の名前を呼ぶ度。
その気持ちは確かにここにあった。その気持ちはどんどん大きくなった。
萩野と一緒に過ごす中で僕の中に生まれた、もどかしさ。むず痒さ。苦しみや悲しみ、喜びも全て、ひとつの答えに導いていたのに。
──僕は、萩野のことが好きだったんだ。
僕の中にある、たくさんの萩野との思い出。
そのひとつひとつが、萩野を好きだと思わせる。
この日記に残る、僕らの思い出の全てが、萩野に対する気持ちを増幅させる。
「僕も好きだ、萩野。僕は萩野が好きだったんだ。ずっと前から。ずっと……」
今更気付いたところで、もう遅い。
萩野はここには居ない。もう戻れない。
萩野の運命は決まっている。もう手遅れなんだ。
僕の声はもう、萩野に届くことはないんだ。
※※
僕は学校を休んだ。
萩野に会えなかった。会いたくなかったんだ。
萩野は死ぬ。
そんな彼女に会ったところで、余計に辛くなるだけだ。
十九日から学校に行こう。
そうすれば、もう萩野に会うことはない。
この日記の中の萩野との思い出だけを大切に持っていればいいんだ。
それでも辛いのは変わらないけれど、萩野に会うよりはマシだと思った。
僕と萩野を繋ぐ、唯一残されたものだから。
ここに僕らの想いはちゃんと残っているから。
布団の中で何度も日記を読んでは泣いた。
その度に萩野への想いは強くなる。
萩野が好きだと実感する。
もう一度あの声を聞けたなら。
もう一度あの笑顔が見れたなら。
もう一度あの温もりを感じられたなら。
そう思う度に、僕は首を振って、大きくなる感情を振り払う。
高まっていく欲望を押さえつけて、日記を抱えて眠る日々。
そして、その日はやってきた。
六月十八日。萩野の命日。
今日、萩野は死ぬ。
僕が何もしなければ、朝から交通事故に遭うはずだ。
嫌だ。萩野が死ぬなんて認めたくない。
僕のせいだ。僕のせいで萩野は死ぬ。
萩野が望んでいた未来は僕が奪った。
僕が欲しかった未来も自分の手で捨ててしまった。
僕が全て台無しにしてしまったんだ。
最後に萩野に会いたい。
だけど、萩野に会ったところで、また同じ苦しみを味わい続けるだけだ。
萩野はきっとそうならないために、僕のことを想って、日記を残さないようにと言い残したのだろう。
最後の最後まで、僕は萩野の優しさに守られていたんだ。
僕は、萩野が死ぬ前にもう一度日記を──。
手探りで周囲を探した。
起き上がって、視線を巡らせた。
無い。日記が無い。
どうして?
僕はずっと、日記を肌身離さず持っていたはずだ。
寝る時だって日記を胸に抱いて眠った。
萩野との思い出を失わないために。萩野の代わりとして大切に。
僕はずっと日記を大切にしていたはずだ。
そのはずなのに、日記はどこにも無かった。
机の上にも、布団の下にも、部屋中をくまなく探しても、日記は見つからなかった。
嫌だ。
あの日記が無かったら、僕と萩野とを繋ぐものが無くなってしまう。
僕の中にある萩野との思い出が色褪せてしまう。
嫌だ。怖い。忘れたくない。
僕の中にある萩野の声を笑顔を温もりをいつまでも覚えていたい。
萩野悠里という女の子がこの世界に居た証明を失いたくない。
萩野が僕のことを好きだという気持ちを。僕が萩野を好きだという気持ちを。
ずっとその日記に大切に仕舞っておきたかった。
涙が溢れて止まらない。
あの日記がなければ、ぼくは全てを失くしてしまう。
そんなの嫌だ。
あの日記は、僕にとって一番大切な──。
「一番……大切……?」
僕は、すぐに制服に着替えて家を飛び出した。
※※
僕はある日、悪魔と契約した。
契約内容は単純。
僕は最大三日間時間を巻き戻すという人智を超えた力を手に入れる。
その代わりに悪魔は僕の大切なものを一つだけ奪う。
大切なものの定義については曖昧だった。
それは人だったり、物だったり、記憶だったり、身体的な能力だったり。
良くも悪くも平凡以下。大切な人はもちろん、家族もいない。心に閉まっておきたい記憶も無い。
そんな僕にとってその契約は、メリットしかないものだと思っていた。
契約をした翌日、隣の席の女の子が死んだ。
僕にとってその女の子、萩野悠里は大切な人だった。
唯一僕に好意を向けてくれる。
僕に優しくしてくれる。
僕の代わりに泣いてくれる。
一緒になって笑ってくれる。
たくさんの思い出を僕に残してくれる。
そして僕も、萩野悠里が好きになった。
萩野悠里の声が好きだ。笑った顔が好きだ。優しい温もりが好きだ。
華奢な体も。誰もが振り向く顔立ちも。栗色の艶やかな髪も。
料理が上手なところも。手芸が趣味だと言うところも。運動も勉強も得意なところも。
人参が嫌いなところも。お洒落なところも。明確な将来の夢を抱いているところも。絶叫アトラクションが好きなところも。お化け屋敷が苦手なところも。家族の前ではまだ子供っぽいところも。日記に綴られた綺麗な文字も。
今ならはっきり言える。
この気持ちが何なのか、はっきりとわかる。
僕は、萩野の全て、どんなところも大好きだ。
もしかしたら、最初から好きだったのかもしれない。
だからこそ、大切な人だと見なされたのかもしれない。
そして何度もタイムリープを重ねた今日、悪魔との契約通りに大切なものが奪われた。
それは、萩野悠里ではない。
萩野と残したたくさんの思い出。
萩野の気持ちを残した大切なもの。
僕の気持ちを確かなものにする大切なもの。
それは、唯一無二の僕らを繋ぐ大切な日記であり、かけがえのない過去だ。
息を切らして向かった校門で、目を丸くした少女がこちらを見ていた。
優しく微笑みかける少女。
僕も息を整えて、彼女と向き合った。
何度も見た笑顔。
僕より少し背の低い体。
綺麗で整った顔立ち。
薄い茶色の瞳。
風に靡く栗色の髪。
萩野悠里は確かにそこに居た。
僕らを繋ぐものなんてもう残ってはいない。
けれど、僕の中には確かに萩野と過ごした時間が、萩野を愛おしく思う気持ちが、確かに残っている。
だから、ここから始めよう。
萩野が死なない六月十八日。
この日が僕らのリスタートだ。
僕は彼女の笑顔に精一杯の笑みで応える。
「おはよう、萩野」
※※
「パパ!テストで悪い点取っちゃったから時間戻して!」
「もう、杏里ったら。パパにそんなお願いしちゃダメって言ってるでしょ」
「えー。時間を戻せるなら勉強しなくても百点取れるのにー」
「パパはそんな悪いことはしないの」
「なんでー? パパはなんで時間を戻さないの?」
「決まってるよ。僕は、杏里と悠里がいるこの時間が一番幸せだからだよ」
リスタート〜悪魔と契約して時間を戻す力を手に入れた。その代償は隣の席の女の子の命でした〜 宗真匠 @somasho
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