きゅう
「遊んだねー」
「もうクタクタだよ」
「いっぱい滑ったもんね」
「まさかスライダーを全制覇するとは思わなかったよ」
感情がわからなかった罰ゲームだと言って、五種類あったスライダー全てを巡り、さらには萩野のお気に入りらしい二人乗りのミニボートを使ったスライダーには三回も乗った。
おかげで心身共に疲れ切ってしまった。
夕食も終え、僕らは和室に身を寄せ合って座っていた。
満足感に満たされた体は今すぐにでも休息が欲しいと叫んでいるように感じる。
今日はよく眠れそうだ。
「そろそろ風呂に入ろう。終わったら温泉の前に合流しようか」
そう言って萩野に視線を送ると、彼女は何やら難しい顔をして窓の外を眺めている。
「今日はここの露天風呂で済ませない?」
「せっかく温泉に来たのに、いいの?」
「うん。大浴場は昨日も入ったし、この露天風呂にも入ってみたい」
「じゃあそうしよう」
「先に入っていいよ」
「うん。わかった」
僕は着替えを持って脱衣場へ向かった。
部屋からは露天風呂しか見えなかったけれど、ちゃんとシャワーも備え付けられていた。
昨日はゆっくり入れなかったようだし、早めに出て萩野と代わってあげよう。
襖はちゃんと閉めているおかげで、部屋からは見られる心配もない。
ここなら萩野もゆっくり温泉を楽しめるだろう。
そんなことを考えていた矢先、背後でガラガラと扉を開ける音が聞こえた。
「湯加減はいかかですかー?」
中居さん……ではない。
この声は、間違いなく萩野だ。
「な、何してるの?」
「待ちきれなかったから、一緒に入っちゃおうかなって」
「だ、ダメだよ。僕、すぐに出るから」
「渡利くんでも狼狽えたりするんだね」
萩野は何も気にしていない様子で、ぺたぺたと足音を立てて歩み寄ってくる。
「お背中流しますねー」
「萩野? どうしたの?」
「ふふ、こういうことしてみたかったんだ」
「男湯に入ってみたかったの?」
「ち、違うよ! 好きな人と一緒にお風呂に入りたかったの!」
「それも萩野の未練?」
「そうだよ」
好きな人と、という部分は満たせなくとも、萩野がそうしたいと言えば僕も断れない。
「じゃあ、お願いします」
「渡利くんは優しいね」
「萩野が強引なだけだよ」
わざとらしくため息をついて見せるけれど、萩野は気にする様子もなくクスッと笑う。
萩野の小さな手が背中に触れる。
いつも繋いでいるよりさらに小さく感じる手。
鏡越しに萩野の顔が映る。
落ち着いた口調に反して、耳まで真っ赤になった顔。
萩野の白い肌が手の動きに合わせて揺れる。
バスタオルを巻いているけれど、くっきりと浮かんだ鎖骨から首筋にかけてすらりと綺麗な形を保った肌。
バスタオル越しにもわかる体のラインと萩野の表情も相まって、とても扇情的だ。
僕は目のやり場に困り、遠くの景色を見ていることしか出来ない。
「渡利くんの背中大きいね」
「身長はそこそこあるからかな」
「それだけじゃないよ。細身だけど、結構筋肉が付いてる。筋トレとかしてるの?」
「ううん。猫背にならないように気をつけてるくらいだよ」
会話こそあれど、どこかぎこちない。
先程の萩野の言葉が頭の中を巡っている。
萩野は好きな人とこういうことがしたかったんだ。
その代わりが僕であることに申し訳なさがある反面、少し嬉しくもある。
大切な萩野にとっての大切な人の代わり。
代わりではなく、僕がその人だったら。
そんなありもしないことを考えて、恥ずかしくなる。
「はい、綺麗になったよ」
萩野の声でハッと我に返る。
変なことばかり考えるのはよそう。
「ありがとう。僕は先に出るね」
「まだ私の未練は晴れてないよ」
「まだ何かあるの?」
「うん。一緒に露天風呂に入りたい」
今日の萩野はやたら積極的だ。
いつもならどこか妥協を含んだような未練ばかりを口にするのに、今日は僕の気持ちなんてお構い無しに自分のしたいことをはっきりと言い切っているように思う。
温泉に来ていて、異性の背中を流したとなれば、そんな要望があってもおかしくはない。
けれど、萩野は相手が僕だということを忘れてはいないだろうか。
鏡越しに強請るような上目遣いを見せる萩野。
本当は断るべきなのはわかっている。
僕らはあくまでただのクラスメイト。
秘密の時間を共有する共犯者。
それ以上の関係になるべきではないのだ。
それでも萩野の未練だと言われると、僕は弱ってしまう。
「わかった。じゃあ先に湯船に浸かって待ってるよ」
「うん、すぐに行くね!」
どうしてそうも嬉しそうなのだろうか。
萩野が嬉しそうだと、僕まで嬉しい気がしてきてしまう。
高鳴る鼓動を抑えるように湯船に沈める。
忙しなく動き続ける心臓を水圧で押し付けようとするも、僕の考えに反してさらに早くなる鼓動。
デリケートゾーンは決して見せないように、体育座りで萩野に背を向けて待つ。
幸い、乳白色の湯のおかげで体は見えない。
静かな夜空にシャワーの音だけが流れる。
水の流れる音に耳を傾けながら昼間のことを思い出す。
萩野とは同じ三日間とはいえ、長い時間を共に過ごしてきた。
それでも、萩野については知らないことも多い。
特に、感情的な部分。
どれだけ萩野の好みを知っても、過去を知っても、家族との関係を知っても、感情についてはわからない。
今までもそうだ。
僕が決め付けているだけで、萩野が泣く理由も笑う理由も正確にはわかっていない。
今日、萩野はどうして泣いていたのだろう。
今、萩野はどんなことを考えて、どんな表情をしているのだろう。
もっと知りたい。
萩野のことを知りたい。
僕が萩野を大切だと思う理由は、きっとそこにあるから。
シャワーの音がピタリと止んだ。
ぺたぺたと小気味よく聞こえる足音。
「おまたせ」
「……うん」
凪いでいた水面が揺れる。
湯船に身を沈めたのを確認し、ちらりと萩野に目をやる。
髪を緩いお団子にまとめ、輪郭がはっきりと見える。
首筋から肩まで絹のようにきめ細かく真っ白な肌。
それとは対照的に火照った顔。
鼓動で波立ってしまいそうなほど暴れる僕の心臓。
そして、あることに気付いた。
「萩野。タオルは?」
「湯船にタオルを浸けるのはマナー違反だよ」
「それは正しいけど、緊張するからタオルは体に巻いておいてほしいな」
「渡利くんでも女の子の身体には弱いんだ」
「僕も男の子だからね」
『女の子だから』と言うよりは、『萩野だから』と言う方が正しい気がする。
大切な人が僕の手の届くところで無防備になっていると、僕でも緊張するんだ。
理性を保つことは出来ても、心臓の高鳴りが止まらない。
それを嘲笑うように、萩野はぴたりと身を寄せる。
「萩野……?」
「こうしたらもっと意識するかなって」
「もう意識してるよ。これ以上はなんと言うか、困る」
「ふふ、もっと困らせちゃお」
萩野は僕の肩に頭を置いた。
シャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。
「今日の萩野はいつにも増して意地悪だね」
「私の気持ちを考えない罰だよ」
「考えてるよ。わからないだけで」
「じゃあこれでわかった?」
「萩野は僕に意地悪をしたいんだね」
「それは私の気持ちじゃないでしょ?」
やっぱりわからない。
それどころか、思考も鈍って短絡的になってしまう。
もしかして、萩野は僕のことを──。
そんな馬鹿な考えに至ってしまうほどに。
「これで渡利くんは私のことをずっと忘れられないね」
「もしかして怒ってる?」
「残念、ハズレ」
意地悪な萩野は、不敵に笑うだけで答えを教えてくれない。
六月といえど、夜は少し冷える。
けれど、そんなことも気にならないほど、僕の体は火照っているようだ。
湯船に浸かっていない顔まで熱い。
「渡利くん、欲しいものは決まった?」
萩野に出されていたもう一つの宿題。
その答えは決まっていた。
大切な人と同じくらい大切なものだ。
「そうだね。僕は萩野の日記が欲しい」
「日記? どうして?」
「僕と萩野を繋ぐ、たった一つの証明だから」
萩野と過ごす時間はそう長くないだろう。
もし終わりが来てしまった時。萩野が死んだその先。
僕は、萩野と過ごした時間を記憶にのみ残すことになる。
それは少し寂しかった。
「僕は萩野と過ごした時間を忘れないと思う。でも、その時間は僕の記憶にしか残らない。だから、せめて目に見える形で何かを残したいんだ」
何年か先。或いは何十年か先。
記憶は次第に色褪せてしまうだろう。
何をしたとか、何を話したとか、細かいことまで覚えていられるほど人間の記憶は完璧じゃない。
僕は、萩野と過ごした時間を大切にしたい。
死ぬまでずっと、昨日のことのように感じられるように。
それに。
「萩野が生きていた証明を残したい。萩野の日記を僕の宝物にしたいんだ」
数秒の沈黙。
それを破ったのは、予想外の一言だった。
「ダメ」
優しくもはっきりと否定する声。
僕はてっきり、萩野なら喜んで日記を差し出すと思っていた。
萩野が死んでしまったら、日記は誰にも読まれなくなる。
そうなってしまうくらいなら、萩野は僕の手元に日記を残してくれるだろう。
そう思っていた。
「日記はダメ。恥ずかしいから」
「恥ずかしいことが書いてあるの?」
「うん。あれは私の宝物だから、渡利くんにもあげられない。他のにしてくれない?」
ああ、なるほど。
萩野の宝物を僕の宝物に出来るはずもない。
きっと、普段は言えない僕に対する恨みつらみや思いの丈を書き綴っているのだろう。
「わかった。じゃあ、日記は諦めるよ」
「他には何がいい?」
他の物と言われても、咄嗟には思いつかない。
僕にとって大切なもの。大切にしたいもの。
それが萩野との思い出だ。
他には? と聞かれると──。
「萩野が欲しい」
いつの間にかそんなことを口走っていた。
思わず萩野に目を向けると、萩野もこちらを見て目を丸くしていた。
「えーっと……。そんなこと言われても……」
「ご、ごめん。そうだよね。今のは忘れて」
「私はもう、渡利くんのものだから」
今度は僕が目を丸くする。
萩野はバツが悪そうに目を逸らす。
温泉の熱のせいか、今までに見たこともないほど顔を真っ赤に染めながら。
「それはどういう……」
「わ、私は渡利くんの大切なものだから、もう渡利くんのものだよ」
「あ、ああ……それもそう……なのかな」
本当にそうなのだろうか。
大切なものだからその人のものだとは限らない。
日記がそうだ。
僕にとって大切なものでも、あれは萩野のものだから。
自分に都合の良いように捉えてしまいそうな思考を必死に抑え込む。
萩野が僕のものだなんて、まるで恋人のようじゃないか。
そんなことを考えてしまうなんて恥ずかしい。
「ほ、他には?」
「あ、えっと、萩野の手料理が食べてみたい」
「それ! それにしよう!」
変な空気になってしまい、会話もちぐはぐになる。
萩野が既に僕のものだなんて言われると誰でも勘違いしてしまう。
僕にとって大切なものだから、既に僕のものと同義だろうと言いたいのはわかっている。
それでも、この気持ちの昂りを抑えられない。
萩野は「先に上がる」とだけ言って、室内に入ってしまった。
やっぱり萩野の気持ちはわからない。
※※
「渡利くん、起きてる?」
「起きてるよ」
真っ暗な部屋の中。
僕らは布団を並べて横になっていた。
電気も消してあとは眠るだけ。
だというのに、疲れている体とは対照的に頭はやけに冴えていて、どうにも眠れそうにない。
萩野と風呂に入ってからというもの、脳内がやけに活性化しているように感じる。興奮冷めやらぬと言うか。
萩野が起きているのも同じ理由だろうか。
「渡利くんはどうして、私のために頑張ってくれるの?」
真っ暗な部屋の中、萩野の声だけが静かに響く。
以前にも似たような質問をされたことがある。
あの時はどう答えたんだっけ。
「僕は萩野が大切だからだよ」
「それは、どういう意味で?」
「そのままの意味だよ。僕にとって萩野は大切なもの。だから、萩野を放っておけない気がするんだ」
萩野が大切。それは揺るぎない事実だ。
最初からずっと変わらない。だから、萩野は死んでしまう。
それに、僕のせいで萩野が死んでしまうのだから、他人だと見て見ぬふりはできない。
そんなことを言うと萩野はまた悲しんでしまいそうだから、胸の内に仕舞っておく。
「渡利くんはどうして私が大切なんだろうね」
萩野の弱々しい声。
その質問には僕も正確には答えられない。
僕もその答えを探しているのだから。
けれど、萩野と過ごした中でわかったこともある。
「僕は、お父さんとお母さんが大切だった」
「知ってるよ。過去に戻って、また会いたいって思うくらいだもん」
「それは多分、二人が僕を大切にしてくれたから。いつも笑ってくれたからだ」
「そうだね。渡利くんのご両親はきっと、渡利くんのことを何よりも大切にしてたんだと思うよ」
「僕にとって萩野は、お父さんやお母さんと同じくらい大切なんだよ。萩野も僕を大切にしてくれるから。あの二人と同じように、僕に笑いかけてくれるから」
口にすると少し変だと思う。
両親に似てるから萩野も大切だなんて。
まるで萩野は両親の代わりだと言っているようなものだ。
でも、本当は少し違う。
言葉にするのは難しいけれど、萩野は両親に対する感情とはどこか違う気がするんだ。
萩野は確かに大切なんだ。
僕を見ていてくれる。
僕に優しくしてくれる。
僕に微笑みかけてくれる。
僕を大切にしてくれる。
それと同じように、僕も萩野にそうしたいと思う。
この感情をどう言い表せばいいのだろう。
「ごめん。上手く言えないんだ。僕は萩野が大切で、僕だけのものにしたいと思うくらい大切で……。でも、どう言えばいいのか……」
少しの沈黙の後、くすくすと声が聞こえた。
「渡利くんは難しく考えすぎだよ」
「そうなのかな」
もぞもぞと布が擦れる音が聞こえる。
僕の体にふっと風が通ったかと思うと、布団の中がやけに暖かくなる。
一人用の布団に並ぶ二つの体。
「な、何してるの?」
「渡利くんは今どんな気持ち?」
先程よりも近くに聞こえる声。
「少し恥ずかしい、かな」
「じゃあこれは?」
左の腕に直接伝わってくる柔らかな感触と温もり。
「もっと恥ずかしい」
「嬉しい? それとも悲しい? もしかして、嫌だって思う?」
耳元で囁かれる、蕩けるような甘い声。
やはり今回の萩野はいつにも増して積極的だ。
いつもより距離が近いし、声も上ずっていて甘えているように聞こえる。
心臓が落ち着きを忘れたように早い鼓動を繰り返す。
今までにない勢で血液が全身を巡っているせいか、体温が高まっていく。
妙に落ち着かない。
この奇妙な感覚は、あまり好きじゃない。
「嫌……だ」
なんとか声を絞り出した。
萩野は「そっか」と寂しげに呟くと、腕に込めていた力を抜いた。
「待って」
布団の中、手探りで萩野の手を掴む。
どうして呼び止めたのか。僕にはわからない。
ただ、胸が苦しくなった。
先程まで忙しなく動いていた心臓が急に止まるような感覚に陥り、代わりに不安と寂しさに襲われた。
そんな孤独感か恐怖心か、よくわからない寂しさから逃げたかったのかもしれない。
「渡利くん?」
「萩野が隣に居ることが嫌なんじゃなくて。なんと言うか、萩野が近くにいるとドキドキすると言うか……。なんだか落ち着かなくて……」
上手く言葉が纏まらない。
この感情をなんと表現するのだろう。
気持ち悪い? 不気味?
決して良い気分だとは言えない。
けれど、そんな否定的な感情ではない気がする。
その言葉の先に悩んでいると、萩野は布団に潜って僕の胸に頭を乗せる。
早い鼓動が萩野を介して僕に戻ってくる。
「本当だ。ずっとドキドキしてる」
「恥ずかしいから離れてほしい」
「やだ」
積極的でわがままな萩野は、僕の鼓動に耳を傾けたまま動かなくなった。
苦しみは消えたのに、今度は焦燥感と緊張からか嫌な汗が出てきた。
手がじんわりと湿っていく。
萩野はそんな僕の手をさらに強く握る。
「渡利くん。私が死んでも、私のことを忘れないでほしい」
「忘れられないよ」
忘れられるはずがない。
大切な人と過ごした夜。
今までに感じたことのない胸騒ぎを抱いた夜。
たとえ年老いても、どれほどの記憶が欠落しても、今日だけは忘れられない。
そう思わせてしまうほどの不思議な感覚。
「ずっとこんな時間が続けばいいのに」
祈るように、願うように、小さく声を振り絞る萩野。
「続くよ。続けてみせるよ」
僕がタイムリープし続ける限り、萩野の時間は終わることはない。
「ううん。終わるよ。次で終わり」
しかし、萩野はそれを否定する。
「これは契約だから。契約が果たされたら、おしまいなんだよ」
「また契約を結べばいい。萩野が満足するまで。萩野が幸せになるまででもいい。僕は何度でもタイムリープするから」
「それなら尚更、次でおしまいだね」
萩野は僕の肩に頬を押し付ける。
「私はもう満足したから。この時間が一番幸せだから。ありがとう、渡利くん」
欠片ほどの悲しみも感じられない声。
表情は見えなくても、それが萩野の本心なのだとわかってしまう。
どうしてありがとうなのだろう。
感謝すべきは僕の方だ。
萩野は僕に無いものをたくさん与えてくれた。
萩野と一緒に居たから、僕は楽しいと思えるようになった。
でも、僕は萩野を楽しませられていただろうか。
欲しいものを与えられただろうか。
未練を余すことなく晴らせただろうか。
思えばずっと、僕は萩野に支えられてきた。
カフェでハンバーグを食べたのも。ショッピングモールで服を買ったのも。遊園地で一番の思い出を作ったのも。僕が生まれた土地へ行って昔の思い出と向き合ったのも。萩野の家で家族の温かさに触れたのも。
萩野への罪悪感と悪魔との契約への興味から始まったこの時間の中で、萩野はずっと僕のために行動していたのではないだろうか。
萩野は未練があるから死にたくないと言った。
萩野が晴らしたかったのは、本当に自分の未練だったのだろうか。
もしかしたら萩野はずっと──。
「萩野」
僕の声は萩野に届くことはなかった。
すうすうと小さな寝息が聞こえる。
届かないとわかっていたけれど、僕は小さく「ありがとう」と告げた。
※※
三日目。旅行の最終日。
今日の予定は決まっていない。
全てを決めてしまうよりも、その場で思うままに楽しみたいという萩野の希望があったからだ。
随分と行き当たりばったりな計画だ。
いや、これを計画と呼ぶべきではないのかもしれない。
ただ、それも旅行の醍醐味な気がして、悪くないと思う。
「今日はどうする?」
荷物をまとめている萩野に問う。
「町を散策したい」
「一日目と同じになるけどいいの?」
「うん。初日はゆっくり観光出来なかったし」
渡利くんと一緒ならどこでも楽しいから、と付け足す萩野。
背中を向けている彼女の表情は見えない。
「わかった。じゃあそうしよう」
僕らは旅館に荷物を預け、軽装で外に出た。
朝の温泉街は程よい温かさと、時折そよぐ涼しい風のおかげで心地よい。
僕らはどちらからともなく手を繋ぎ、川沿いの道を歩いた。
萩野は露店の前で足を止めては、吸い込まれるように店に入った。
そして何を買うでもなく物品を眺めて目を輝かせる。
「買わないの?」
「うん。買っても食べ切る前に戻っちゃうんだと思うと、ちょっと踏ん切りがつかなくて」
「気になるなら買っても損は無いと思うよ。好きな物を少しずつ食べるのも贅沢だよ」
「そうかもね。でも、せっかく買うなら渡利くんと一緒に食べたい」
難しい悩みだ。
僕らが二人揃ってここに来ることはもう無いだろう。
今買わなければもう買う機会もない。
けれど、買ったところで、このループには時間も残されていない。
こんなことなら、初日にもっとたくさん買っておくべきだっただろうか。
未練を晴らすためにここに来たのに、さらに未練が募ってしまう。
今回に限った話ではない。
萩野の未練を晴らそうとする度に萩野の未練は少しずつ増えてしまう。
萩野だけじゃないかもしれない。
僕の中にも後悔の念や未練がましさが重なっていく。
萩野にもっと時間があれば。
この三日間を永遠に過ごせたら。
そう願ってしまうのは、僕の勝手なわがままだ。
そして、そんな甘い願いを断ち切るかのように、萩野は突きつけるのだ。
「次で最後だと思う」
何が最後なのか。
そんなことは聞かなくてもわかる。
「未練は全て晴らせたの?」
「あと二つだけ残ってるよ。だから、次で最後」
萩野は日記を入れたポーチをぎゅっと握る。
昨夜、萩野が日記に追記しているところを見た。
随分書き込んだようで、使い込まれた跡があった。
そして、もう残りのページも僅かしか残っていなかった。
次で最後。
わかっていたはずだ。
この時間は永遠じゃない。
萩野の未練が全て晴らされればおしまい。
ついにその時が訪れただけの話だ。
感情が込み上げる。
寂しいような、悲しいような、辛いような、いろんなものがごちゃ混ぜになった感情。
ひとつ言えるのは、前向きな感情はそこには無いということだけ。
僕は萩野のために何をしてあげられただろう。
ただ一緒に過ごしただけ。
萩野は僕にたくさんのものを残してくれた。
でも、僕は萩野に何が残せたのだろう。
僕は萩野の手をぎゅっと握り直した。
「買いに行こう」
「えっ」
「萩野の欲しいもの全部。食べたいものも全部。今日が終わるまではまだ時間がある。帰り道でも帰ってから、僕の部屋ででも食べられるよ」
「いいの?」
「それが萩野の未練なら」
萩野は目を擦って、力強く頷いた。
来た道を戻って、萩野が足を止めた店に再度立ち寄る。
そして、萩野が物欲しそうに見ていたものを片っ端から買った。
ご当地グルメでも安いお菓子でも少し高価なスイーツでも初日に買ったものによく似たストラップでも。
全部買って、萩野にプレゼントした。
ただの自己満足だ。
何も残せなかったことに対するせめてもの償い。
それでも萩野はその度に喜んでは、ありがとうと笑顔を見せた。
僕がずっと見たかった笑顔を。
ずっと見ていたい笑顔を。
旅行からの帰り道。僕らはお菓子やスイーツをたらふく食べた。
萩野は終始嬉しそうで、楽しそうで、そんな萩野を見ているだけで僕も嬉しかった。
悪魔でも神様でも何でもいい。
どうかこの時間を永遠にしてはくれないだろうか。
その願いは誰に届くことも無く、僕の心にぽっかりと空いた穴に落ちていくだけだった。
※※
「それじゃあ、また三日前で」
「うん、またね」
時計の針が零時を回った頃、萩野は帰ってしまった。
萩野が居ない僕の部屋は、物の少なさも相まってやけに寂しさを覚える。
そんな部屋に萩野と一緒に買った物が並んでいることが、余計に僕の胸を締め付ける。
萩野が残した日記にそっと手を触れた。
同じ三日間を繰り返しながら、かれこれ三ヶ月近く使い込まれた日記は、少し色褪せている。
それでも装丁に傷一つないのは、萩野が大切に扱っているからだろう。
日記を手に取り、表紙に手をかける。
ページを開こうとして、やめた。
萩野との約束を破るわけにはいかない。
それに、もしも萩野の本当の未練が書かれていたら、僕はきっと萩野の気持ちも考えずに、これから先も何度もタイムリープしてしまうだろう。
そんなこと、萩野は望んではいない。
次で最後。それが萩野の望みだ。
スマホにぶら下げたストラップに触れる。
初めて買ったお揃いのストラップ。それも今日でお別れだ。
代わりに僕の胸の中に、その形と萩野の嬉しそうな表情を焼き付けた。
揺さぶられる心を押さえつけて、僕はタイムリープした。
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