はち
萩野の実家に訪問して以降、僕は何度かタイムリープを重ねた。
ある時は二人で海を見に行った。
海開き前の砂浜で、近付いては離れて行く波を眺めた。
二人で砂の城を作るのに夢中になって、靴がぐっしょりと濡れてしまったけれど、何だか悪い気はしなかった。
またある時はアミューズメント施設へ遊びに行った。
軽いスポーツやカラオケが楽しめる場所で、めいっぱい体を動かした。
萩野は運動神経も良ければ歌も上手かったため、萩野の歌声を聞いているだけで心地よかった。
以前食べ損ねたハンバーグも食べに行った。
萩野が教えてくれたお店のハンバーグを今度は僕が勧めた。
僕を喜ばせたかったと悔しがっている萩野はなんだか可笑しかった。
そうして萩野の未練をひとつずつ晴らしていく日々。
その度に増えていく思い出。
萩野の日記も随分使い込まれてきた。
日記は読まない約束だったから、何を書いているのかは知らない。
それでも、たくさん書いて、たくさん読み込んだことは想像にかたくない。
その日記が、萩野との時間がそう長くないことを示していた。
「渡利くんって、何か欲しい物ある?」
二十五回、萩野と三日間を繰り返して、彼女は突然そんなことを口にした。
「どうだろう。急には思いつかないね」
「じゃあ、次までに考えておいてね」
萩野と二人で過ごす日々を経て、彼女は少しわがままになった気がする。
もう三日目だというのに、そんな無茶なことを言うのだから。
無茶なことと言えばもう一つ。
「本当にポストに入れておいていいの?」
萩野の次の未練は、旅行をすることだった。
それも、一日目の朝から三日目の夜にかけて、一度のループを贅沢に使った二泊三日の温泉旅行。
そのために僕らは、次のタイムリープの後、夜の間に萩野の家のポストに日記を入れておき、萩野が朝からそれを確認するという半ば賭けのような計画を立てていた。
「うん! 渡利くんは少し大変かもしれないけど」
「僕のことは気にしなくていいよ。萩野が駅に来てくれるまで待ってるから。それより、萩野が日記を信じないことには、二泊三日の旅行なんて出来ないよ」
「私なら大丈夫! こんなにたくさん思い出が詰まった日記なら、私は学校をサボってでも渡利くんに会いに行くよ」
「すごい自信だね」
根拠の無い自信。
それでも、案外強情らしい萩野なら成し遂げてしまいそうな気がする。
「それに、私が全部思い出せば、日記が無くても大丈夫!」
「それもそうだ」
結局萩野は一度も記憶を持ち越せたことがない。
当然と言えば当然だ。
僕も信じてみたいとは思っても、本当に覚えて居られるとは思っていない。
それでも、萩野を悲しませないように肯定した。
「じゃあ、私そろそろ帰るね」
「うん。また三日前で」
「ふふ、変な別れ方」
暗い夜道で萩野の体が小さくなっていくのを見送る。
こうして萩野と約束を交わすのも、萩野の笑顔が見られるのも、残り僅かなのかもしれない。
※※
萩野と過ごす二十六回目の六月十五日。
僕は約束通りタイムリープしてすぐに萩野の家のポストに日記を投函しておいた。
そして、白んできた空を見ながら萩野を待つ。
何を期待しているのか、待ち合わせの三十分も前に着いてしまったのだ。
こんな時間に来るはずがないのに。
萩野が来ないとは思っていない。
ずっと待っていれば、いずれ萩野は来てくれるだろう。
でもそれは、萩野が日記を読んで、それを信じて、僕との約束を果たそうと思ってからの話だ。
朝から晩までの贅沢な二泊三日の旅は果たせないだろう。
けれど、それでもいい。
萩野がこの場所に現れてくれるのならそれでいい。
精々僕は気長に待とう──。
「渡利くん!」
心を揺るがすような透き通った声。
僕が到着して、たった五分後のことだ。
白いパフスリーブのブラウスに黒のスカート。
その手にはキャリーバッグを引き、艶やかな栗色の髪を靡かせる。
交差点の曲がり角で萩野が手を振っていた。
「萩野……どうして……」
僕の予想は裏切られたんだ。
嬉しい方向に。
もしかして、覚えていたのだろうか。
「日記に書いてたの!」
どうやら違ったらしい。
しかし、覚えていなかったにしては早すぎはしないだろうか。
「日記?」
「日記を開いたら一番最初に、ほら!」
萩野はそう言って日記を開く。
厚い表紙の裏面。
そこに大きく書かれた文字。
『六月十五日! 午前六時から二泊三日! 駅前で渡利くんが待ってる!』
業務連絡のような簡略化された文字列。
「渡利くんが待ってるって知って、大急ぎで来ちゃった」
萩野は眉を寄せて笑う。
なんだか嬉しいような、恥ずかしいような。
可笑しくなって、僕もつられて笑った。
「普通、そんなの信じる?」
「信じるよ。もしもいたずらだったとしても、行かずに後悔するよりは断然いいもん」
萩野らしいというかなんというか。
タイムリープした三日間の記憶なんて無くても、萩野は僕を大切にしてくれるのだと思うと、少しこそばゆい。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、待っててくれてありがとう」
僕らは顔を合わせてまた笑った。
バスの移動時間を使って日記を読んだ萩野は、ページをめくる度に一喜一憂していた。
顔を真っ赤にしたり、曇らせたり、時々泣いたり。
コロコロと表情を変える萩野は、見ていてなんだか可笑しかった。
いつもこんな顔をしながら日記を読んでいたのだろうか。
「ずるい!」
空港で飛行機の待ち時間中に日記を読み終えた萩野は、ぱたんと日記を閉じるや否やそう声を上げた。
「ずるい?」
「ずるいよ。今までの私は、渡利くんとたくさん思い出を作ってて羨ましいもん!」
萩野はムッと口を尖らせる。
未来の自分──僕からすると過去だけれど──に怒る人なんて、滅多に見られるものじゃないだろう。
「いいなぁ。嫉妬しちゃう」
「今から一番の思い出を作ればいいよ」
今までも遠出することはあったけれど、飛行機まで使ってどこかに泊まるのは今回が初めてだ。
泊まりということに関しても萩野の家になし崩し的に泊まって以来だ。
三日間という短い期限を贅沢に使う旅行は、恐らく僕にとって、一番の思い出になると思う。
萩野もそれで納得したのか、嬉しそうに頷いた。
※※
「着いたー!」
合計六時間弱にも及ぶ長旅の末、僕らは目的の温泉街へたどり着いた。
一番の思い出、という言葉が響いたのか、萩野は移動中も終始楽しそうで、そんな彼女を見ていると僕も楽しくなる。
僕らは宿泊予定の旅館に荷物を預けて、早速観光を始めた。
温泉街と呼ばれるだけあって、右も左も湧き出る温泉の煙や旅館が立ち並び、温泉特有の匂いが漂っていた。
「私も浴衣持ってきたらよかったなぁ」
萩野がそんなことを言ったのは、浴衣姿の女性客が目に留まったからだろう。
温泉の影響か、この辺りはとても暖かい。
僕らも薄手の格好をしているが、それでも暑いくらいだ。
他の客のように涼しい浴衣の格好をしていたら、少しは違ったのかもしれない。
「ここは暖かいから、その方がちょうど良かったかもしれないね」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ」
萩野は口をとがらせてそっぽを向いてしまう。
お互いに知っていることも増えてきたけれど、やはりわからないこともまだまだ多い。
意図がわからず首を傾げると、萩野は「鈍感」と言って、呆れたようにため息をついた。
「あ、これ可愛い!」
歩行者通りに並ぶ店先で萩野が立ち止まる。
小さな桶に入ったご当地キャラのストラップに目を輝かせる萩野。
先程の一件で機嫌を損ねたわけではないようで一安心だ。
「私、これ買ってくる!」
「お土産なら最終日の方がいいんじゃないかな。あまり買いすぎると嵩張るだろうし」
「今じゃないとダメなの」
僕の注意を聞かずにストラップを握ってレジに向かう萩野。
やはり怒っているのだろうか。よくわからない。
買い物を終えて戻ってきた萩野は、ストラップをこちらに向ける。
「はいこれ、渡利くんの分」
「僕?」
「二人でお揃いのストラップだよ」
萩野はそう言って同じものをひらひらと見せる。
「帰りに買ってもお揃いで付けられないでしょ?」
「なるほど。確かにそうだ」
萩野からストラップを受け取り、言われるがままスマホに取り付ける。
萩野も同様にストラップを取り付けて、満足気に笑う。
二つのストラップを並べると、なんだか不思議な気分になる。
人から何かを貰うことも、ましてやそれがお揃いの物となると、初めてのことにむずむずしてしまう。
なんと言うか、嬉しい。
「ありがとう萩野。大切にするよ」
「この旅行中だけだけどね」
「物は残らなくても、記憶には残るよ」
「そ、そうだよね! うん、ずっと大切にしてね」
「そうするよ」
人からの贈り物にはその物以上の価値があるという話は本当らしい。
何かを貰うことがこんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
僕も萩野に何か贈り物をしたい。
そしたら、萩野も喜んでくれるだろうか。
「あ、そういえば、欲しい物って何か決まった?」
萩野が前回聞いてきたことだ。
少し考えてみたけれど、特にこれといって決まってない。
なんなら、僕はこのストラップで充分だ。
「もう貰ったよ」
「え、そのストラップ?」
「うん」
「他に無いの? もっと高い物とか、貴重な物とか」
「萩野に貰えるなら何でも嬉しいと思う」
思ったままに答えると、萩野は赤面した。
照れているのだろうか。思ったことを言っただけなのに。
「も、もう少し考えて! 渡利くんが欲しい物を知りたいの!」
「うーん。難しいけど、考えておくよ」
どうして僕の欲しいものに拘るのかはわからないけれど、萩野が望むならそうしよう。
目的地もなく散策を続けていると、いつの間にか日も暮れていた。
夕飯の時間も迫っていたため、僕らは一度宿に戻ることにした。
僕らが宿泊する和室は、二人で泊まるには広々としていて、窓の外には部屋に併設された露天風呂も見える。
少し小高い丘の上にあるおかげで、景色も申し分ない。
急遽予約した旅館にしてはこれ以上ないロケーションだ。
宿には悪いけれど、閑散期で良かったと思う。
萩野も無邪気にはしゃぎ、部屋を隅々まで散策している。
普段は少し大人びて見えるけれど、こうしていると子供っぽくて可愛らしい。
なんだか特別感だ。
そうこうしていると、中居さんが料理を運んできた。
大きな皿に盛られた豪快な刺身を中心に天ぷら、小ぶりのエビが顔を覗かせる茶碗蒸し、色鮮やかな小鉢と見ているだけで食欲をそそる海鮮料理のオンパレード。
萩野もよだれを垂らしそうな表情で目を輝かせていた。
「早速頂こうか」
「うん!」
待ってましたと言わんばかりの元気な返事に思わず笑ってしまう。
その品目の多さに食べ切れるか不安だったけれど、どの料理も美味しく、あっという間に皿は空っぽになっていた。
「ふう、もうお腹いっぱい」
「だね。美味しかった」
そう言ってお腹を摩ると、萩野がじっと僕を見た。
「どうしたの?」
「今までで一番になりそう?」
「どうだろう。萩野に教えてもらったハンバーグといい勝負かな」
「うーん。ちょっと複雑」
萩野は口をとがらせる。
どういうことだろう。
美味しいものは美味しい。
どれが一番とは決め難い。
そういえば、萩野とは外食ばかりで、萩野の手料理は食べたことがない。
萩野の家に泊まった時も、料理を作っていたのは真里さんだった。
萩野は料理をするのだろうか。少し食べてみたい気もする。
けれど、そんなことを言うと萩野に迷惑な気がして、僕の勝手な望みは胸の奥底に仕舞った。
お腹も脹れた僕らは、温泉に入ることにした。
せっかく温泉街に来たのだから、それを経験しないことには勿体ない。
「僕の方が先に出るだろうから、鍵は僕が持っておくよ」
「うん、わかった。じゃあまた後でね」
先程のことが尾を引いているのか、萩野は少し落ち込んでいるように見えた。
一人にするのも少し心配だけれど、流石に風呂まで一緒というわけにはいかない。
早めに出て荷物を置いたら萩野が戻るまで大浴場の前で待つことにしよう。
温泉街だけあって、温泉も素晴らしいものだった。
普通に風呂に入るよりも体の疲れが取れたようで、一日歩いてパンパンになっていた脚も軽くなった気がする。
とはいえ、萩野のことが心配で、僕は三十分も経たないうちに温泉を出た。
一旦荷物を置こうと部屋に戻ると、部屋の前で萩野が待っていた。
「おかえり、渡利くん」
「早かったね。ゆっくり出来なかった?」
「うん。なんか寂しくなっちゃって」
萩野は困ったように眉を顰める。
「寂しい?」と反芻すると、萩野は小さく頷いた。
「ずっと渡利くんと一緒に居たからかな。一人になると渡利くんのことばかり考えちゃって、ゆっくり出来なかったんだ」
心臓がどきりと跳ねる。
髪が濡れているせいか、目を細める萩野の表情も妙に艶っぽく見えて、少しもどかしい。
「渡利くんは? もっとゆっくり入ってよかったのに」
「えっと……。僕も萩野のことを考えていて、急いで出てきちゃったんだ」
「えっ。そ、そうなんだ……」
萩野が僕を心配していたように、萩野も僕を心配していたのだろうか。
せっかく温泉地を選んだ萩野に気を遣わせるようでは、彼女を満足に楽しませることが出来ない。
少し、申し訳ない。
僕は罪悪感から逃げるように、急いで鍵を開け、萩野と共に部屋に入った。
「ごめんね。温泉を選んだのは私なのに」
荷物を置いて萩野が座り込む。
萩野の落ち込んだ顔はあまり見たくない。
「ううん。僕の方こそ、心配かけてごめん」
「心配?」
「違うの?」
なんだか話が噛み合わない。
「渡利くんは私を心配してたの?」
「うん。風呂に行く前、萩野は落ち込んでいる様子だったし。それに、以前萩野を一人にした時にいろいろあって、心配になったんだ」
「そ、そんなこと気にしなくていいのに。私は大丈夫だよ!」
「心配するよ。僕は萩野が笑っているところを見ていたいんだ」
萩野が笑ってくれないと、未練が残ってしまいそうだから。
萩野の未練を晴らせないと、萩野は苦しいまま死んでしまうことになるから。
僕が笑ってほしいと言ったからか、萩野はくすくすと笑った。
「渡利くんは心配症だね」
「萩野はどうして落ち込んでいたの?」
「渡利くんが一緒じゃなかったからだよ」
萩野はそう言って、四つん這いで僕の隣まで移動してくる。
僕の隣に座った萩野は、こてんと僕の腕に体重を預けた。
「渡利くんが心配するようなことは無いよ。でも、私のことを考えていてくれて嬉しい」
また、心臓が跳ねる。
なんだか変な気分だ。
もぞもぞと体の中を何かが這い回るような。全身がむず痒くなってしまうような。そんな気分。
生まれて初めての感覚だ。
この気持ちを何と形容していいのかわからない。
「萩野がご飯の後、ちょっと落ち込んでいたのは?」
「うーん。嫉妬、かな? 私が教えたお店が一番じゃなくなって、少し寂しかった」
「寂しいの?」
「寂しいよ。渡利くんに好きな物が増えるのは嬉しいけど、私以外の要因があるとちょっと複雑」
「難しいね」
僕には萩野の気持ちがわからない。
ただ、怒っていたわけでも、悲しかったわけでもないらしい。
それに、今は落ち込んではいないようだ。
「萩野が心配しなくても、僕にとっては萩野が一番大切なものなのに」
いつの間にか、そう声を漏らしていた。
萩野の顔がみるみる赤くなる。
言ってしまって後悔する。
「渡利くん。不意打ち禁止」
「僕も言うつもりはなかった」
僕にとっては萩野が大切なもの。
だから、萩野が死ぬんだ。
契約上そう定義付けられた、ただの事実。
そして、萩野にとっては恨んでも恨みきれない現実。
そんなことを口にしてしまったことに対する後悔。
萩野が大切だということは、萩野が死ぬ未来は変わらないと言っているようなものなのに。
「私にとっても渡利くんが一番大切なものだよ」
「そうなんだ。じゃあ、萩野が悪魔と契約していたら僕が死ぬんだね」
「そうかも。嫌?」
「ううん。萩野が死ぬよりはよっぽどいいよ」
むしろ、そうなってしまった方がいい。
僕のせいで未来ある萩野が死ぬよりは断然いい。
僕なんて、したいことも欲しいものも何も無いんだから。
「二人とも契約をしたら二人で一緒に死んじゃうのかな」
萩野はそう言って天井を仰いだ。
確かに、お互いに大切なものだと認識していたら、一緒に死んでしまうのかもしれない。
「それもいいかもね。そしたらずっと萩野と一緒だ」
「渡利くん、そういう恥ずかしいことサラッと言うのは良くないよ」
「恥ずかしいことなの?」
「うん。私は聞いてて恥ずかしい」
確かに、萩野は耳まで真っ赤にしている。
ただの事実なのに。
それが恥ずかしいことなのかはわからないけれど、今後はこの手の話は控えるようにしよう。
※※
二日目。
僕らはバスで三十分ほどの場所にあるアミューズメント施設に来ていた。
温水プールをはじめ、多くのテーマパークが併設した大型施設だ。
生憎の雨模様だったけれど、屋内施設だったおかげで天気を気にしなくていいのは好都合だった。
水着に着替えて萩野を待つ。
あまり肉体の見栄えに自信がないからと上着まで用意してきたのは間違いだっただろうか。
格好のせいか余計に目立っているように感じる。
少し遅れて萩野も合流した。
黒を基調としたフリル仕様のワンピースタイプの水着。
腕と脚しか露出していないのに、起伏ははっきりとしていて、妙に色っぽい。
目のやり場に困る。
「どう……かな」
「うん、似合うよ」
素っ気なく答えてしまう。
褒めた方がいいのはわかっているけれど、上手く言葉が出てこない。
ひとつに纏めた栗色の髪から覗く白い耳が朱に染る。
萩野の合流により、さらに視線を集める。
容姿も相まって、萩野は文字通り周囲の視線を独り占めしていた。
一緒に並んでいるのが少し恥ずかしい。
「行こう」
「うん!」
視線が気になって少し強引に手を引いたけれど、萩野は元気よく頷いて僕の手を握り返す。
僕なんかじゃなく、萩野に釣り合うような男子なら、萩野はもっと楽しめたのかもしれない。
そんなたらればを頭の奥底に沈めるように、僕はプールに入水した。
アミューズメント施設なだけあって、平日でもそれなりに人は多かった。
僕らのように他の旅館やホテルに泊まっている人も遊びに来ているのだろう。
はぐれないように、萩野をずっと目で追いかけ続ける。
子供のようにはしゃぎ、水しぶきを上げながら笑っている。
そして時折僕と目が合っては、髪から滴る水滴のようにきらきらと笑顔を輝かせるのだ。
本当に僕でいいのだろうか。
もう一周使ってでも、萩野が望む相手を連れてくるべきじゃないだろうか。
頭の奥に仕舞い込んだはずが、すぐに脳裏に浮かんでくる。
「渡利くんは……楽しくない?」
ずっと考え込んでいるのが気になったのか、萩野はぼそりと呟くように問う。
萩野はよく僕の表情の変化に気付く。
感情の変化に疎い僕の表情にも気付くんだ。普段から余程周囲のことを気にしているのだろう。
とはいえ、萩野に気を遣わせては計画が台無しだ。
「ううん。楽しいよ」
「渡利くんって、嘘をつくのは下手なんだね」
萩野はそう言ってくすくすと笑う。
「そうかな?」
「うん。楽しいって言う割に、全然楽しんでるようには見えないよ」
萩野にはどうやら、隠し事は通用しないらしい。
僕は白状して話すことにした。
「僕じゃなくて、萩野の好きな人だったら、萩野はもっと楽しめたのかもしれないと思ったんだ」
「それって、私が渡利くんじゃない、別の人と一緒にここに来るってこと?」
「うん。次のタイムリープでもいいから、萩野が好きな人を誘って、ふたり……で……」
頭と口とで噛み合っていた歯車が狂う。
思考は停止し、それに合わせて言葉も出なくなった。
先程までの笑顔はどこへやら、萩野は目を丸くしたまま泣いていた。
ポロポロと大粒の涙が頬を伝う。
「萩野……?」
「あ、あれ? ごめん。なんか急に……」
溢れる涙を手で拭うも、溢れて溢れて止まらない。
「どうして泣いているの?」
「わからない。わからないけど、渡利くんが悲しいことを言うから」
「僕が?」
やっぱり、本当は好きな人と来たかったのかもしれない。
僕はここに居るべきじゃない。
僕は萩野と一緒に居るべきじゃなかった。
萩野は以前、好きな人が居ると言っていた。
その人物こそ、今この場に居るべき人物なのだ。
「ごめん。でも大丈夫。次こそは絶対に」
「次なんて要らないんだよ」
人の視線が集まるが、そんなこと気にしていられない。
「どうして? 未練を完全に晴らすなら、一緒に居たい人と──」
僕はまた言葉を失った。
思考が止まって、言語というものを忘れてしまったように。
萩野の体温が全身を通して伝わってくる。
服がさらに湿っていくのは、僕の体に抱きつく萩野が濡れているからだろうか。それとも、その涙が溢れ続けるせいだろうか。
「渡利くんは何もわかってない」
「そんなことないよ。萩野と毎日ずっと過ごして、萩野のことはたくさん知ってるよ」
「違う。違うんだよ。渡利くんが知っているのは、私の情報だけ。そこに私の気持ちはない」
「人の気持ちなんてわからないよ」
「じゃあ教えてあげる」
萩野は思いっきり僕に体重を預けた。
支えきれずに僕らはプールに顔を沈めた。
萩野の腕が僕の首の後ろに伸びる。
それはまるで、萩野が僕を抱きしめているような構図だった。
浮力のおかげで軽くなっている体を持ち上げ、僕らは水面から顔を出した。
「わかった?」
「えっと……怒ってる?」
「全然違う」
「やっぱり難しいよ」
渡利くんのばか、と耳元で囁き、萩野は笑った。
どうやら怒ってはいないようだ。
鼓動が早くなっていく。
血液が全身を巡って体温が上がっていく。
「これは次のタイムリープまでの宿題ね」
「宿題?」
「私が今どんな気持ちなのか、次までに考えて来てね」
「わかった。ちゃんと答えられるように努力するよ」
萩野は「約束ね」と言って、また笑った。
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